そして、残されたのは血だけ

 そして──

 その傷から生まれたのは、

 もはや、あの頃の少年ではなかった。



 ---


 その娼館は閉じられた。


 割れた窓も、軋む扉も、

 すべては無理やり木板で打ち付けられ、封じられた。


 葬儀もなければ、

 祈りの声もない。


 誰が死んだのか。

 誰が残されたのか。

 誰も気にしない。


 ──ただ一晩で、

 すべてが闇に消えた。


 腐った都市の日常に、静かに溶けていった。


 かつて、偽りの笑い声が響き、

 安っぽい香水と嘘の温もりが漂っていたあの娼館は、


 今では沈黙の中で腐りゆく屍のように、

 ただそこに存在していた。


 そして、道の向かい側に立つ、一人の少年。


 小さく、汚れ、虚ろな目をした少年──


 チャールズ。


 その小さな手には、古びたぬいぐるみが握られていた。

 かつて夜ごとに抱いて眠っていたもの。


 片目は失われ、継ぎ目は裂け、

 左腕は今にもちぎれそうだった。


 ──まるで彼自身のように。

 引き裂かれ、壊れ、

 もはや、元の姿ではない。


 ホワイトチャペルの風が、彼の汚れた髪を揺らす。

 寒さに震える身体。だが、動かない。


 ただ、じっと見つめていた。


 言葉もなく。


 涙もなく。


 微笑みも──もう、存在しなかった。



 ---


 名前のない日々が、ただ過ぎていった。


 時間は、もはや意味を持たない。


 チャールズは、狭い裏路地をさまよい、

 ゴミの山をかき分け、

 橋の下や捨てられた木箱の影で眠った。


 体は痩せ細り、

 頬はこけ、

 最後の衣服は、もはや布きれ同然だった。


 朝、目を覚ます理由は、生きるためではない。

 ──ただ、死なないため。


 彼は物乞いをしなかった。

 助けを求める声も出さなかった。


 ただ、歩いた。


 他の子供たちは彼を遠ざけ、

 大人たちは彼を押しのけ、

 時にはぬいぐるみを奪おうとした者もいた。


 だが彼はそれを、

 まるで命の最後の砦のように、必死で抱きしめた。


 彼は話さなかった。


 笑わなかった。


 ──そして、もう絵を描くこともなかった。



 ---


 ホワイトチャペルはいつも通りに、

 違う形の「死」を売っていた。


 ジン、売春、嘘、血。


 だがチャールズは、

 何も売らなかった。


 彼には、何もなかったのだ。


 彼はただ──

 彷徨っていた。


 ある日、神父が彼に硬くなったパンを与えながら言った。


「神はお前を見捨てないよ、坊や」


 チャールズは彼を見た。


 その目には、何も映っていなかった。


 そして、ただ背を向けて去っていった。



 ---


 夜が来るたびに、

 風は冷たくなり、

 腹は空っぽになり、

 世界は霞んでいく。


 それでも、彼は誰も呼ばなかった。


 ──彼は知っていたのだ。


 誰も、来ないことを。


 神さえも、

 耳を塞いでいた。



 ---


 ある夜。


 ホワイトチャペルの空は、墨のように真っ黒に染まり、

 霧雨が石畳を静かに濡らしていた。


 チャールズは、古い木箱の裏に一人で座っていた。


 ぬいぐるみを膝にのせ、

 顔を伏せ、

 両手は棘のある藪で切ったのか、泥と血にまみれていた。


 彼は唇を噛みしめていた。


 ──泣きたいからではない。


 もう、涙すら残っていなかった。


 あるのは、

 凍える冷たさと、

 胸の奥にぽっかりと空いた黒い穴。


 それは日ごとに広がり、

 彼の中を、ゆっくりと、しかし確実に、飲み込んでいく。

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