残されたもの

 ホワイトチャペルは飢えていた。

 何も持たぬ者たちは──

 盗むか、死ぬしかない。


 その朝、チャールズはパン屋のショーウィンドウの前に立っていた。

 体は夜露と昨晩の雨で濡れ、唇は紫がかっていた。


 ガラスの向こうに並ぶ硬く乾いたパン。

 まるで鉄格子の奥にある金塊のように、遠く、冷たく、手の届かぬもの。


 ──三日間、何も食べていなかった。


 手が震える。

 腹がきしむ。

 だが、誰も哀れみなどくれはしない。


 周囲を確認する。


 誰もいない。


 CRACK—!


 小さな拳がガラスを叩き割る。

 一片のパンを掴み、チャールズは駆け出した。


「このクソガキィィィィ!!」


 店主の怒声が響き、手にした木の板を振り回しながら後を追う。


 チャールズは細い路地を駆け抜けた。

 息は荒く、肋骨が皮膚を突き破りそうだった。


 手にはしっかりとパンを握っていたが──

 世界のほうが、彼の首を強く締め上げていた。



 ---


 街の反対側。

 閉ざされた娼館の前に、一台の黒い馬車が止まる。


 泥だらけの車輪。

 金で彫られた紋章──ミルヴァートン家。


 馬車から一人の女性が降り立つ。


 金髪を整えたシニヨン。

 レースのついたドレス。

 優雅な日傘を持つその姿は、貴族の気品を保っていた。


 だが、瞳は違った。

 若いが、その眼差しには、幾度も砕けた者だけが持つ重みがあった。


 名は──リリアン・ミルヴァートン。

 王宮にも影響を持つ、名門貴族の娘。


 彼女は無言で、かつての娼館を見つめていた。


「……マリアンヌ、あなた、本当に死んだのね。」


 彼女の手には、古びたブローチ。

 小さな薔薇の彫刻が施された──


 かつて、姉がつけていたもの。


 家を捨て、愛を選び、

 ミルヴァートン家から姿を消した姉。


 そして、今や名前しか残っていない。


「……何も、残さずに。」


 リリアンは背を向け、馬車に戻ろうとする。


 だが──

 運命はすでに、舞台の幕を上げていた。



 ---


 チャールズは裏道から表通りへ飛び出した。


 その瞬間──


 ギィィィィィ——!!


 馬車の車輪が悲鳴を上げ、

 馬が嘶き、地面を蹴る。


 チャールズの体は転がり、パンはどこかへ消えた。


「バカか貴様ァ!! 死にたいのかっ!!」


 御者が飛び降りて、怒鳴りつける。

「このクソガキめ、泥棒のくせに! 見るところ見ろやっ!!」


 チャールズはうつむいたまま、震えていた。


 それは、恐怖ではなかった。

 寒さと──疲労。


 リリアンが馬車のカーテンを開ける。


「何が起きたの?」


「浮浪児です、お嬢様。ぶつかりかけました! 本来なら牢屋に放り込むべきかと!」


 だが、その時。


 リリアンの目が止まった。


 少年の顔に。

 汚れた頬。

 傷ついた唇。


 ──そして。


 左頬の下に、小さなほくろ。


 ──全く同じ位置に。

 マリアンヌと同じ、あの印。


 リリアンの心臓が、一度、そして二度と強く打った。


 彼女は馬車から降り、ゆっくりと少年に近づいた。

 膝をつき、その顔を見つめる。


 チャールズは顔を上げなかった。

 だが、彼女にはわかっていた。


「あなたの名前は?」リリアンが静かに聞く。


 チャールズは答えない。


「一人なの? 両親は?」


 しばらくの沈黙のあと、少年はゆっくりと顔を上げる。


 ──目が合う。


 凍てついた沈黙。

 だがそこには、なにか引き寄せられる力があった。


「ぼくの名前は……チャールズ。」


「お父さんは知らない。お母さんは……死んだ。」


 リリアンは固まった。


 喉が詰まったような感覚。

 だが、涙は出ない。

 ただ──言葉が生まれた。


「……もう、彼を責めないで。」


「この子は──」


「マリアンヌが遺した、唯一の宝物よ。」

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