第二話『百花繚乱、盤上の狂宴』2
海浜幕張駅の北口ロータリーに面した、『幕張国際センターふれあい窓口』。
その牧歌的な名称とは裏腹に、そこは日本とチバシティを分かつ、最も過酷な国境検問所だった。
ガラス張りの巨大なアトリウムは、常に、故郷へ帰りたいと泣き叫ぶ難民、苛立つ職員の怒号、そして、全てを諦めた人々の深いため息で満ちている。強化ガラスの向こう側では、来訪者管理及び特殊対応課――通称『特対課』の職員たちが、冷徹な目で、城塞に出入りする全ての人間と物資を捌いていた。
島とヘイロンは、その喧騒を抜け、職員用の優先レーンへと向かう。それでも、城塞側へ渡るには、厳格な手続きが必要だった。
ヘイロンが、無言でスキャニングゲートを通過する。彼のサイボーグ体に埋め込まれたIDチップが、瞬時に認証を済ませた。
だが、島の前で、ゲートは、無慈悲な警告音と共に、赤いランプを灯した。
「……またかよ」
100%生身の島は、この最新鋭のシステムにとって、常に「規格外の異物」だった。
「島巡査。こちらへどうぞ」
静かな声に呼ばれ、彼は、有人カウンターへと向かう。そこに座っていたのは、特対課の課長、桐生塔子だった。彼女は、完璧な微笑みを浮かべながらも、その目には、一切の感情を映していなかった。
「申し訳ありません。あなたの生体認証は、どうも、システムと相性が悪いようでして」
「急いでるんだ、桐生さん。とっとと通してくれ」
「手続きは、手続きですので」桐生は、涼しい顔で続けた。「――規定により、全ての有機物の持ち込みは申告が必要です。本日、許可されていない果物やお野菜はお持ちではありませんね?」
真顔で、ふざけているのか本気なのか。島が苛立ちを隠さずにいると、背後で待っていたヘイロンが低い声で一言だけ言った。
「――急ぐぞ」
その声に含まれた有無を言わさぬ圧力に、桐生は初めてその微笑みをほんの少しだけ崩した。彼女は手元のコンソールを操作し、島の通行許可を手動で承認した。
分厚い防爆ゲートの向こう側。そこはもはや、日本の法律が及ばない無法地帯だった。空気の匂いが変わる。人々の視線が変わる。
二人は、百花市場の闇データ屋に天元が接触する可能性が高いと見て現場を押さえるべく城塞へと続く道を急いでいた。
その瞬間だった。
空気を切り裂く、甲高い飛翔音。
島の生身の反応速度では、それを脅威として認識することすらできない。
だが、ヘイロンは違った。
「――伏せろ!」
鋼鉄の腕が、島の身体を地面へと強引に叩きつける。ほぼ同時に、二人がいた空間を閃光と衝撃波が蹂躙した。近くで資材運搬をしていた一台の大型ドローンが轟音と共に爆発四散する。それは超小型ミサイルだった。だが無差別なテロではない。運搬ドローンを精密な盾として利用し、爆発の指向性を完璧にコントロールした、恐ろしく計算され尽くした一撃。
爆風と金属の破片が嵐となって二人を襲う。
ヘイロンは島の上に覆いかぶさり、その身を盾とした。
彼の軍用グレードの装甲に無数の破片が突き刺さり、火花を散らす。けたたましい警告音が内部で鳴り響いた。
やがて嵐が過ぎ去る。
島は無傷だった。だが彼を庇ったヘイロンの身体は無惨な姿を晒していた。右腕の人工皮膚とその下の装甲は引き裂かれ、無数のファイバーで編まれた人工筋肉が白い伝達物質を漏らしながら覗いている。砕けたカーボンの骨格からは、破損した神経系のスパークがちらちらと燐光のように光っていた。
それでもヘイロンは静かに立ち上がった。
「……敵の狙いは俺か」
その声は普段と何ら変わらなかった。
「ヘイロンだ。今の攻撃で義体機能が30%まで低下。緊急メンテナンスのため戦線離脱を要請する。作戦行動の継続は不可能だ」
超高度なサイボーグ義体を装備する彼をメンテナンスできる設備は幕張国際センターには無い。司令部の小城は息を呑んだ。
「離脱するのは四時間だ。なに、目と鼻の先に行きつけの病院があるのでな。」
天工智造の本社ビルは隣接する城塞の混沌とは対極にあった。静謐。禅。ミニマリズム。磨き上げられた黒い床に自身の無惨な姿が映り込むのをヘイロンは冷たい目で見下ろしていた。
メンテナンスベイへと続く廊下の突き当たりに一人の女性が立っていた。
完璧に仕立てられたスーツ。寸分の狂いもないメイク。
アジア系女性が持つ美の、一つの回答のような美貌だった。――そして、まるで感情という機能がインストールされていないかのような氷の瞳。
「――ジン」
ヘイロンが呟く。
ジンは無言でヘイロンをメンテナンスベイへと案内する。そこは手術室のように清潔でそして冷たい場所だった。
「あなたのボディ、現行の“タイプ9”はフレームに修復不可能なダメージを負いました」ジンは淡々と告げた。「予備パーツのストックもありません。ですが……」
彼女はそこで初めてヘイロンの目をまっすぐに見た。
「……
師父。
「あなたに最新の実験的戦闘ボディ、『タイプ11“
それは命令だった。
ヘイロンの全身を怒りが駆け巡った。
「断る。俺の身体はまだ戦える」
「それはあなたが決めることではありません」ジンの声はどこまでも冷たかった。「決定です。これはあなたへの贈り物。そして名誉なのだと師父は仰せでした」
ヘイロンは自らが巨大で美しい鋼鉄の檻へと閉じ込められていくのを感じていた。
鎮静剤がヘイロンの意識を深い眠りへと誘っていく。
冷たいメンテナンスベイの光景が遠ざかる。
そして彼は夢を見た。
それは戦争もサイボーグ化もなかった、最後の平穏な日々の記憶。
内戦前の上海。週末の巨大なショッピングモール。吹き抜けの広場できらびやかな噴水が音楽に合わせて踊っている。
まだ少年だったヘイロン。彼の隣で太陽のように笑う兄貴分のファン。
その後ろから、ゲームソフトのパッケージを抱きしめ、おさげ髪を揺らしながら駆け寄ってくるまだあどけない少女のジン。
『――ヘイロン! ファン兄! 見て、これ最後の一個だったの!』
彼女の鈴を転がすような声が響く。
ファンが彼女の頭を優しく撫でた。
『お前たち、絶対に離れるなよ。何があっても二人で助け合うんだ』
二度と戻らない光。
夢の中でヘイロンは泣いていた。
やがてその温かい光景はノイズと共に掻き消えていく。
彼が次に目覚めた時。
そこに涙を流す少年はもういなかった。
ただ圧倒的で見知らぬ強大な力をその身に宿した、一体の戦闘機械が静かに起動しただけだった。
ヘイロンが戦線を離脱した四時間。
島はたった一人で百花市場の巨大な混沌と向き合っていた。
よそ者である日本の刑事に対する住民たちの敵意と警戒心は凄まじかった。
屋台の店主は彼が近づくと無言で店を閉ざす。チンピラたちはわざと彼に肩をぶつけてくる。誰もが彼を疫病神のように避けていた。
聞き込み捜査は完全に行き詰まっていた。
焦りと無力感が島の肩に重くのしかかる。
彼は吸い寄せられるようにメイの屋台へと向かっていた。
何も言わずただ焼餅を一つ注文する。
メイも何も聞かなかった。ただ黙って熱々の焼餅を彼に手渡した。
島は市場の喧騒から少し離れた路地裏で一人その焼餅を頬張った。
美味かった。その素朴な味がささくれだった彼の心を少しだけ癒してくれた。
彼が屋台に戻り代金を払おうとした時だった。
メイが静かな声で言った。
「……ここの人たちは警察は嫌いよ」
島は黙って彼女の言葉の続きを待った。
「でもね」
彼女は活気ある、だがどこか常に何かに怯えているような人々を見つめながら続けた。
「……自分たちのこの場所をめちゃくちゃにする、もっと悪い奴らはもっと嫌いよ」
その言葉は直接的なヒントではなかった。
だがそれはこの混沌とした街で生きる人々の本質を突いていた。
そして島の折れかけていた心を支えるには十分すぎるほどの力を持っていた。
島はメイに深い感謝を込めて頷く。その表情は強さを取り戻していた。
彼はまだ戦える。
刑事として、そして一人の人間として。
この街のささやかな平和を守るために。
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