第二話『百花繚乱、盤上の狂宴』1
皮影戯事件から数週間が過ぎた。
ただ、あの混沌とした街と人々を、この目で見て肌で感じておきたかった。刑事として、……一人の人間として。
中でも島の足が最も頻繁に向かう場所があった。
城塞中心部に広がる巨大な生鮮市場。かつて『パークモール』と呼ばれたグリーンベルトの土地に、無数の屋台と露店が色鮮やかな菌類のように繁殖した場所。人々はそこを敬意と親しみを込めて、『
そこは匂いの洪水だった。八角や花椒の香り、魚介の潮の匂い、獣の肉が焼ける香ばしい匂い、そしてそれら全てを包む湿ったコンクリートと人々の熱気。あらゆる匂いが島の嗅覚と食欲を容赦なく刺激した。
島は市場の一角で香ばしい匂いを漂わせる屋台の前に立っていた。
「
島が拙い中国語で叫ぶ。鉄板を操っていた美しい女性がくすりと笑った。
「“好吃”は美味しいって意味よ、刑事さん。食べる前に言うのは気が早いんじゃない?」
流暢だが独特のイントネーションを持つ日本語。彼女はメイ。この市場で
彼女は小麦粉の塊をまるで生き物のようにリズミカルに練り上げていく。その動きはどこか熟練した武術家を思わせた。
「いやあ、ここのはいつ食ってもハオチーだからな。前払いで言っておくのさ」
「お世辞を言ってもおまけはしないわよ」
メイはそう言いながらも、熱々の焼餅を一枚紙袋に入れると、もう一枚小ぶりのものをひょいと追加した。
「……サービス。いつも市場のチンピラを黙らせてくれるお礼」
先週この屋台に絡んできたチンピラを、島が腕力だけで店の外に“運び出した”のを彼女は見ていたのだ。
「はは、あれくらいどうってことねえよ」
島は照れ臭そうに頭を掻きながら代金を払う。熱い紙袋を受け取る際、彼女のしなやかで硬いタコのある指先が島の無骨な指に一瞬だけ触れた。
その僅かな接触に島の心臓が柄にもなく少しだけ速く脈打った。
彼はこの危険で猥雑だが生命力に満ち溢れた市場の空気が、そしてこの気丈で美しく謎めいた女性のことが、どうしようもなく好きになり始めている自分に気づいていた。
その頃、チバシティの境界線で静かなる事件は起きていた。
民間の遺伝子工学企業のデータバンク。純白の壁と滅菌された空気に守られた情報の要塞。その心臓部であるサーバールームの扉がゆっくりと開いた。
中へ入った夜勤の警備主任の顔は困惑と恐怖に引きつっていた。
「……どういうことだ」
異常はなかった。それこそが最大の異常だった。
昨夜、外部から極めて高度なサイバー攻撃があった。警報は鳴らなかった。だがシステムの深層ログが幽霊のような未知の侵入者の痕跡を記録していたのだ。
侵入者はこの要塞の全ての防御壁をまるで存在しないかのようにすり抜けていた。赤外線センサーも音響探知機も、AIによる行動分析すら彼を捉えることはできなかった。
この侵入者は目的のサーバーから膨大な研究データを完璧な手際で抜き取ると、全てのログを正常なシステムアクセスの記録へとリアルタイムで書き換えていた。
完璧な犯罪だった。
だがその侵入者はたった一つだけ奇妙な痕跡を残していった。
サーバールームの中央。メインサーバーの冷たい筐体の上。
そこに一個の黒い碁石が静かに置かれていた。
寸分の狂いもなく盤面の中央。
――『
警備主任はそのあまりに静かで傲岸不遜な犯行声明に、背筋が凍るのを感じた。
これは単なるデータ強奪ではない。新たな、そして計り知れないほど知的な脅威がこの混沌の街に産声を上げた瞬間だった。
幕張国際センターの作戦司令室は張り詰めた空気に満ちていた。
小城司令官がホログラムディスプレイに碁石の写真を映し出す。
「――我々はこの新たな亡霊をこうコードネームする。『天元』」
ヘイロンはディスプレイの前に立ち膨大なデータストリームを凝視していた。
「……ログは完璧に偽装されている。皮影戯のような力ずくのハッキングとは次元が違う。まるでシステム自体が侵入者を友好的な診断プログラムだと誤認しているかのようだ。これは芸術家の仕事だ」
その声には賞賛とかすかな苛立ちが混じっていた。
島は腕を組み現場写真を観察していた。
「……妙だな。こいつは何も壊していない。誰も傷つけていない。ただデータを盗んでご丁寧に置き土産まで残していった」
彼は小城に向き直った。
「こいつは愉快犯じゃねえ。知的でプライドが高くそして極めて慎重な男だ。自分の能力を誇示したがっている。これは単なるデータ泥棒じゃない。もっと大きな計画の始まりだ」
ヘイロンが島の言葉を引き継ぐ。
「盗まれたデータは最新の遺伝子治療に関するものだ。闇市場で高値で取引されるだろう」
「だがこんな派手な名乗りを上げる男が小銭稼ぎのためにこんな真似をするとは思えん」
島が反論する。
「このデータは目的じゃない。目的を達成するための手段だ」
二人の思考が一つの結論へと収束していく。
「……次の計画の駒を揃えるためか」
小城が二人に問いかけた。
「――プレックスとしての結論は?」
島とヘイロンは互いの顔を見合わせた。そこにはもう反発も不信もない。ただ同じ獲物を見据える狩人の目があるだけだった。
島が口を開いた。
「こいつが情報を求めるなら向かう場所は一つしかありません」
ヘイロンがその言葉を静かに補った。
「――百花市場。城塞の情報と欲望が渦巻く場所だ」
小城は静かに頷いた。
「……わかった。二人とも、直ちに向かえ」
新たなゲームの駒は盤上に置かれた。
まだ誰もそのゲームの本当の恐ろしさを知らずに。
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