第二話『百花繚乱、盤上の狂宴』3

 島の刑事としての『勘』が正しかったことを証明するのに時間はかからなかった。

 彼が天元の手駒と目される闇データ屋に接触しようと一歩踏み出した、その瞬間。

 世界から音が消えた。

 いや、そう錯覚しただけだ。市場の喧騒は続いている。だが島の周囲半径五十メートルほどの円の中にいた数十人の買い物客や店主たちが、まるで示し合わせたかようにぴたりとその動きを止めたのだ。

 一瞬の静寂。

 そして次の瞬間、彼らは一斉に島へとその顔を向けた。

 瞳には感情がない。ただ冷たい殺意だけが浮かんでいた。

「……始まったか」

 島は悪態をつきながら身構えた。

 天元の罠が発動したのだ。


 市場の一般人たちが次々と付け焼き刃だが恐ろしく手強い「インスタント武術家」となって島に襲いかかってくる。

 肉屋の店主が骨断ち包丁を逆手に持ち見事な八極拳の構えを取る。点心売りの老婆が蒸籠を盾と分銅のように操り予測不能な軌道で迫る。チンピラ風の若者たちは息の合った連携で空手の回し蹴りを放ってきた。

 彼らの補助電脳に潜ませていた闇市場の格闘プログラムが強制起動オーバーライドされたのだ。

 島は包囲された。

 彼は人々を傷つけないよう徹底して防御と無力化に専念した。

 チンピラの蹴りを最小限の動きで受け流し、その勢いを利用して柔道の巴投げの要領で果物の山へと投げ飛ばす。老婆の蒸籠攻撃は巧みな体捌きで回避しその手首を軽く、しかし的確に抑え込んだ。

 殺さない。壊さない。

 だが敵の数はあまりにも多すぎた。

 島の背後から肉屋の店主が無音で迫る。その骨断ち包丁が島の首筋を捉えようとしたその刹那。


 すっとその間に一本の白魚のような美しい手が割り込んだ。

 メイだった。

 彼女は店主の腕をまるで川の流れを受け止めるかのように柔らかく、しかし確実な動きで絡め取った。そして信じられないほど滑らかな動きで相手の力をいなし流し、そしてそのまま相手へと送り返した。

 店主の巨体は自らの突進の勢いでくるりと回転し無様に床へと転がった。

「……助太刀するわよ刑事さん」

 メイは焼餅を焼くのと同じ涼しい顔で言った。

「店先で暴れられるのは迷惑だからね」

 彼女の流れるような太極拳は島の剛の動きと完璧な調和コンビネーションを見せた。

 島が正面の敵を力で制圧する。

 メイが背後の敵を技でいなす。

 二人は自然と背中を合わせ襲い来る武術家たちの荒波と戦っていた。

 それはまるで危険でそして美しい舞踊のようだった。

 戦いの最中、島の刑事としての観察眼がある奇妙な違和感を捉えていた。

「こいつら……動きが妙に揃ってる。まるで同じ音楽で踊ってるみたいだ」

 その呟きは『シナプス』を通してヘイロンの元へと届いていた。

『――島、その通りだ!』

ヘイロンの切迫した声が島の鼓膜を直接震わせた。

『奴らは単一の信号シグナルに同期させられている!一種のデータパルスだ!発信源を探せ!それを破壊すれば蜘蛛の糸は切れる!』


 島とメイは視線を交わした。

 二人の目が市場の中央広場に吊るされたひときわ巨大で装飾過剰な中華ランタンを同時に捉えた。

 あのランタン。

 一定のリズムで怪しい紫色の光を明滅させている。

 あれが天元の操る『指揮棒タクト』だ。

「――メイ!」

 島が叫ぶ。

「道を開けてくれ!」

「任せて!」

 メイの動きが変わった。彼女は両腕で大きな円を描くと周囲の敵をまるで磁石のように自分へと引きつけた。

 一瞬だけ島への包囲が解ける。

 その好機を島は見逃さなかった。

 彼は近くにあった市場のやぐらへと駆け上がった。屋台の屋根を足場に看板から看板へと、まるで忍者のように飛び移っていく。それは彼の無骨な体格からは想像もつかないほど軽やかで計算され尽くした動きだった。

 櫓の頂点に達した島はそこから空中高く吊るされた巨大なランタンへと大きく跳躍した。

 空中で彼はバスケットボール選手がダンクシュートを叩き込むように、その両腕をランタンに振り下ろした。

 凄まじい破壊音。

 ランタンは取り付け部分から引きちぎられ火花を散らしながら地面へと墜落し砕け散った。

 支配の“リズム”が途絶える。

 その瞬間市場の人々の動きがぴたりと止まった。彼らは悪夢から覚めたように呆然と自分たちの手と周囲の惨状を見回していた。

 だが安堵する暇はなかった。

 それは天元の計画通りだったのだ。

 解放された人々の混乱を突きそれまで群衆に紛れていた十数人の男たちが姿を現した。


 彼らは操られてはいなかった。その目には冷徹なプロの殺意が宿っている。天元直属のサイボーグ傭兵部隊だった。

 彼らの目的は島の無力化、そして邪魔者であるメイの確保。

 傭兵の一人がその銃口を疲弊した島へと向けた。

 その瞬間だった。

 ガン、という鈍い音。

 傭兵の銃を持つ腕に肉屋の店主が投げつけた骨断ち包丁が深々と突き刺さった。

「……てめえら」店主の震える声が市場に響いた。「俺たちの市場で好き勝手しやがって……!」

 それは反撃の狼煙だった。

 市場の人々は全てを理解した。自分たちが傭兵たちに利用されていたこと。そして自分たちを命がけで守り解放してくれたのがよそ者であるはずの島の刑事だったこと。

 恐怖と混乱はやがて怒りへと変わった。

 八百屋はコンテナを投げ麺屋は寸胴を盾にしチンピラたちは鉄パイプを手に、自分たちの「日常」を壊した本当の敵である傭兵たちに一斉に襲いかかった。

 市場は今度は住民たちの自分たちの場所を取り戻すための誇り高き「大乱闘」の舞台となった。

 島とメイはその中心で住民たちと共に戦っていた。

 それは混沌として暴力的だがどこか温かい戦いだった。


 市場の喧騒が頂点に達した、その時だった。

 男は天から舞い降りるように現れた。

 大乱闘の中心、傭兵部隊と住民たちがぶつかり合うそのど真ん中に。タイトなスーツをまとったヘイロンが凄まじい衝撃音と共に着地した。アスファルトが蜘蛛の巣状に砕け周囲の人間がその衝撃波だけで吹き飛ぶ。

 彼の新しい身体、『タイプ11“刑天ケイテン”』。それは以前の彼とはもはや比較することすら烏滸おこがましいほどの圧倒的な力を秘めていた。

 傭兵の一人が恐怖を振り払うようにヘイロンに向けてアサルトライフルを乱射する。だがその銃弾は彼の装甲にかすり傷一つ付けることすらできない。

 ヘイロンは嵐だった。

 彼の姿はもはや常人の目では捉えきれない。黒い残像が戦場を駆け抜ける。傭兵たちが悲鳴を上げる暇もなく次々と宙を舞い意識を刈り取られていく。それは戦闘というより一方的な蹂躙。冷酷なまでに効率的な鎮圧だった。

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