SceneF-4「朝焼けの手紙」

 夜明けの風が、廃墟の屋上を優しく撫でていく。


 ひび割れたコンクリートの床。

 崩れかけた手すり。

 そのすべてが、戦いと記憶の残滓を物語っていた。


 それでも今は、世界の輪郭が少しだけやわらかく見える気がした。



 ユイは、レオンの隣に腰を下ろしていた。

 言葉もなく、ただ一緒に、空を見上げて。



 東の空が、微かに色づいていく。

 夜の静けさと、朝の気配が交差するその狭間。

 都市の喧騒も、術式の残響も、今はどこにもない。


「……ねえ、レオン」


 静かに、ユイが口を開いた。


「これで、良かったのかな」


 

 レオンは、すぐには答えなかった。


 ポケットに手を入れたまま、ゆっくりと空を見上げたまま、少しだけ口元を動かす。


「さあな」


 彼の声は、夜明けの空気に溶けていくようだった。


「正しいかどうかなんて、誰にもわからない。でも――お前が選んだんだ。それが全部だ」


 ユイは、視線を落とした。


 自分の掌の上に、まだうっすらと術式ルーンの残響が浮かんでいた。

 それは、術式の一部というにはあまりにも簡素で、記録のタグというにはあまりにもあたたかい。

 まるで、小さな“名前”のようだった。


「……カイルの名前。魂律構造の中に、もう誰も読めない形で残してある」


 ユイはぽつりと呟いた。


「この印、僕の中だけにある“証”。……誰にも、見せるつもりはないよ」


 レオンは、ふっと息を吐いた。


 そしてようやく、横目でユイを見る。


「見せなくていい。……お前が覚えてれば、それで充分だ」


 その言葉に、ユイは小さくうなずいた。

 雲間から、朝の光が差し込む。


 薄く差し込んだ陽が、ユイの髪を白銀に照らす。

 彼の横顔はどこか穏やかで、それでいてどこか少し、大人びて見えた。


「僕……これから、何ができるかな」


 ぽつりとこぼしたその問いに、レオンは少しだけ黙った。


 そして、言葉を選ぶように答えた。


「……生きてみろ。答えは、それからだ」


 

 ユイの目がわずかに見開かれ、やがて小さく、口元が緩んだ。


「……うん」


 短いその返事に、すべての意味がこもっていた。


 二人は再び、言葉を交わさぬまま、並んで空を見上げた。


 屋上の端に吹く風が、術式の残香をわずかに運んでいく。

 遠く、記録層の奥に封じられたカイルの記憶も、もう揺れることはなかった。


 すべては終わった。


だが──



「……なあ、ユイ」

 レオンが、不意に呟く。


「お前は、あのとき言ったな。『ここからが、始まり』だって」


 ユイは少し驚いた顔で、横を向いた。


「……覚えててくれたんだ」

「ああ」


 レオンは短く応じた。


「だから、始めろ。……お前の物語を」


 風が、ふたりの間を抜けていく。

 ユイはゆっくりと目を閉じ、静かに深呼吸をした。


 そして、その胸の奥にある“もうひとつの名前”を、そっと抱きしめるように感じた。


“僕が覚えてる。だから、大丈夫”


 それは、誰にも届かない言葉。


 けれど、確かに存在する──彼だけの、祈りのような約束。

 昇り始めた朝日が、廃墟の屋上をやわらかく染め上げていた。

 


《Code:Null.Refrain ― 依頼者の影》 ― 終 ―

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る