SceneF-3「Null-Code:Refrain」
ユイは、霧の記録層から引き戻された身体を静かに起こした。
息が少し荒く、体温が下がっている。術式干渉の影響だ。
だが、彼の目はどこまでも澄んでいて、どこかやさしい光を湛えていた。
「……戻ってきたよ、カイル」
手のひらに浮かぶのは、淡く揺れる魂律の余波。
それは、誰にも触れられないはずの“記憶の熱”だった。
けれどユイには、それが確かに感じられた。
残された温度、残された声、残された手のぬくもり。
それを“ただの記録”として保存してしまうことが、彼にはどうしてもできなかった。
──今、僕がここにいるのは、君がいたからだ。
──君が僕に「名前」を呼んでくれたからだ。
ユイは静かに立ち上がり、術式構文の演算を開始する。
彼の術式ギアがアラートを発し、
【MN:限界域95%】
【AN:魂律消耗=再構築不可/危険域】
【NS:臨界域接近──発動継続不能】
MN:
AN:
NS:
ギアに映し出されるこの三指標がゼロになれば、もう術者は立っていられない。
ましてや──“存在そのもの”すら維持できなくなる。
しかし、ユイの手は迷わない。
──誰かに許可をもらう必要なんてない。
──誰の命令でもない。これは“僕の選択”だ。
彼が紡ぐのは、これまでにない構文だった。
既存の
二つの領域を越境する、“個”としての決意の術式。
「……術式展開──」
ユイの声が、震えずに響く。
「コード
その瞬間、周囲の空間が淡く共振した。
ギアのインターフェースが、自動で複数の構造層を展開。
そのどれもが、現在の公式技術体系には登録されていない異端の構文群。
霊的回路(アニマ・レイヤー)に直接アクセスし、魂の深層へと記録を刻む──危険で、未定義で、ただひとりのためだけに紡がれた術式。
ユイの全身から、薄い光があふれ出す。
構文は、もはや視覚的な情報ではない。
それは音でも言語でもなく、ただ“想い”として編まれていた。
「──記録じゃなくて、証拠でもなくて……想いとして、残す」
ユイの目に浮かぶのは、微笑むカイルの幻影。
すでに霧の層は閉じているはずなのに、彼の中にだけは確かに残っている。
だからユイは、言葉を届けるように、そっと語りかける。
「この術式は、誰のためでもない。“君”のためだけに残すものだよ」
そして、ユイは右手をゆっくりと差し出す。
その先に──微かに、光の粒子が集まっていく。
空間に浮かぶ小さな人影。
淡く、揺らぎながら、それでも確かな“気配”を持ってそこに在る。
ユイの差し出した手の先で、光の粒子が形を成していく。
輪郭は不確かで、霧の残滓のように揺らぎながら──
それでもそこには、確かに“カイル”がいた。
彼の面影は柔らかく微笑んでいる。
目を閉じて、まるで眠る前の子どものような安堵をたたえながら。
ユイは、一歩、静かに前へと踏み出した。
「……君のこと、消さないよ。記録媒体に保存するだけじゃ、だめなんだ。他人に見せるための証拠なんかじゃ、きっと届かない」
術式構文が、ユイの周囲に拡張されていく。
《
ギアからアラート音が絶え間なく聞こえ、HUDの表示が激しく赤点滅している。
システムはすでに臨界値を越えている。
【魂律再構築:確率11%】
【継続接続により人格同調の危険あり】
【術式遮断を強く推奨】
しかし、ユイは静かにその警告を無視した。
指先が、光のカイルに、ゆっくりと触れていく。
「君の名前、声、手のぬくもり。……その全部を、僕は、忘れたくないんだ」
その瞬間、空間が淡く震えた。
指先が、重なる。
ユイと、カイルの。
現実と残響の。
記憶と、魂の。
──ふたりの“想い”が、交錯する。
刹那、ユイの意識の中に、光の奔流が流れ込んできた。
眩しさに目を閉じ、息を詰める。
でも、それは痛みではない。
温かくて、優しくて、なつかしい。
カイルの記憶。その笑顔。
手を引いて走った日。重ねた声。
微かな震え。孤独と、願い。
──ありがとう。
──ユイ。
──君がいて、よかった。
その言葉が、心の深層で、何度も反響した。
魂の奥に、名を刻むように。
“いた”という証を、焼き付けるように。
光が、次第に、静かに収束していく。
術式は、完了した。
ユイは、そっと手を下ろした。
空には、もう誰の姿もない。
だが、確かなものが彼の中に残っていた。
胸の奥で、ぽつんと──ぬくもりが生きていた。
「……これが、僕にできる、君への最後の術式だよ」
ユイは小さく呟いた。
「記録じゃない。……これは、“君がいた”という確かな証」
それはカイルの名前の断片を写す、ユイの魂律に統合された刻印。
誰にも見せることのない、誰のためでもない、
ただひとりの存在を“忘れない”ためだけの、私的な記録。
──
存在しない者(
光の余韻が消えた空間に、ユイはひとり、佇む。
だが、その背中に感じる孤独は、以前のそれとは違っていた。
誰かがいなくなることの悲しみと、
それでも“残っている”という強さを、彼は初めて知った。
──僕は、忘れない。
──君が、ここにいたことを。
ユイはゆっくりと振り返った。
薄暗がりの向こうに、レオンが立っていた。
何も言わず、ただその瞳に静かなものを宿して。
ふたりの間に、言葉は要らなかった。
もう、伝わっていた。
すべてが。
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