SceneF-2「僕は、ここにいた」

 記憶の霧が晴れていく。

 

 先ほどまで揺らいでいた構造が、静かに再構築されてゆく。


 視界の奥、柔らかな光の中に、少年が立っていた。


 先ほどのように曖昧ではなく、

 はっきりと、そこに“誰か”としての輪郭を持って。


 

──カイル。


 

 ユイはゆっくりと歩み寄る。

 

 先ほど触れた“記憶の接点”が、確かな共鳴となって二人を繋いでいた。



「……また会えたね」



 静かにそう告げたユイに、カイルは微笑み返す。


「うん……なんだか、不思議な感じ。ユイの声を、ちゃんと聞いてるのに、夢みたいで」


「夢じゃないよ。これは君の中に残ってた記憶。

 ──君自身が、ここに残してくれたもの」



 カイルの表情が、ほんの少し陰る。


「でも、ぼく……本当に“いた”のかな。ぼくの存在って、そんなに意味があったのかな」



 その問いは、静かな場所に落ちる水滴のようだった。


 

 ユイはすぐに答えなかった。


 けれど、その沈黙は、答えに迷っていたからではない。


 彼は慎重に言葉を選びながら、カイルの問いに向き合おうとしていた。


 

「意味なんて、誰かが決めることじゃないよ。

 ……君が“生きていた”って、それだけで、十分だよ」


「でも、記録も、戸籍も、全部消されて──誰もぼくのことなんて、覚えてなかった」


「……僕が、覚えてる」

 


 ユイは、はっきりと言った。


「僕だけじゃない。レオンも……クロエさんだって。君の存在に、心を動かされた人たちはちゃんといた」



 カイルの目が揺れる。


 それは、信じたいけれど信じきれない、ずっと閉じ込められていた想いの殻が軋む音だった。


 

「……こわいんだ。もし、それがただの“幻”だったら。もし、君がぼくを“哀れんでる”だけだったら──」



 ユイは、ふるりと首を横に振る。

 


「違うよ。僕は、君を“かわいそう”だなんて思ってない。ただ、“会えてよかった”って思ってる」


 その言葉に、カイルは息をのむ。

 

 まるで、ずっと探し求めていた“答え”を

 ようやく見つけたかのように。


 

「ユイ……」



 ユイは、微笑みながら続ける。



「僕たちは……あの場所で、同じ時間を過ごした。君が泣いてた時、僕も一緒に泣いた。君が笑ってくれた時、嬉しかった。あの時間は、確かにあったんだ。君が“ここにいた”って、僕が証明する」


 カイルの瞳に、ぽろりと涙が浮かぶ。



「……ありがとう」


 その言葉は、何よりも静かで、

 けれど何よりも確かな“存在の肯定”だった。


 

 ユイは目の前にいるカイルの姿を、しっかりと見つめていた。


 それは“幻”でも、“記録”でもない。

 たしかに、ここに“いた”少年の――魂の残響だった。


 

 カイルは、ふと自身の手を見下ろし、小さく笑った。


「変なの。……さっきまで、何も感じなかったのに。今は、手があったかくて、足が地面についてて……」


 

 ユイはそっと頷いた。



「魂の記録には、感覚や記憶の“断片”が残ることがある。でも、それだけじゃ、形にならない。君が“思い出されること”で、初めて、こうして存在になれる」



「……じゃあ、君が、ぼくをここに戻してくれたんだ」


「うん。……それが、僕にできることだから」


 

 ユイの瞳は、どこまでもまっすぐだった。

 そのまなざしに包まれて、カイルはようやく安心したように、小さく息を吐いた。


「ねえ、ユイ」



「なに? 」


 

「ぼく、最期……怖かったよ。自分が消えることより、“誰の中にも残らない”のが、一番怖かった」



 その告白に、ユイの胸が締めつけられる。



「……ごめん。僕は、君を助けられなかった」


 

「ううん、違うよ」


 カイルは首を振った。


 

「助けてくれたよ。今こうして、君がここにいてくれることが、何より、ぼくにとっては救いなんだ」


 静かな霧が、再び二人を包む。


 だが今のそれは、恐怖の色をした“忘却”の霧ではなかった。

 むしろ、ふたりの間に漂う“安らぎ”のようなものだった。



「……もうすぐ、この記憶領域も閉じる」

 


 ユイが呟く。

 


「時間が限られてるんだ。……ごめんね、長くは居られない」


 

「……じゃあ、最後にさ」


 カイルは、そっと手を差し出した。


「もう一度、ぼくの名前を呼んでよ」



 ユイは一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから、柔らかく微笑んだ。

 

「……カイル」


 その響きは、霧の空間を優しく震わせた。


 まるで、その名前が世界を貫いて、彼の存在を“再定義”するかのように。



 カイルの肩が、ほんの少し震える。


 彼は微笑みながら、涙をこぼした。


「ありがとう、ユイ。……ぼく、“いた”んだね。ちゃんと、ここに」



 ユイもまた、目元を潤ませながら、うなずく。

 


「うん。君は確かに、ここに“いた”。これから先も、君のことを、ずっと覚えてる」



 その言葉を最後に、カイルの身体が微かに光を放ち始めた。


 霧が静かに流れ込み、その輪郭を包み込んでゆく。


「……さようなら、じゃないよね? 」


 カイルが、消えゆく間際にそう尋ねた。

 ユイは、笑みを浮かべて答える。


「うん。また、会おう。きっと、どこかで」


 ふたりの手が、そっと重なり──


 指先だけが、最後に触れた。


 そして、光が弾ける。


 記憶層の構造が、限界に達し、静かに崩壊を始める。


 ユイの足元に警告インターフェースが展開され、表示が“限界値”を示す赤色に染まる。


 しかし彼は、それを無視する。


 この想いだけは、何があっても手放さない。


「──君のこと、忘れない。

 忘れるわけがない。だって君は、“僕の中に生きてる”から」


 ユイの胸に、わずかに熱が灯ったような感覚が走る。

 それは、魂に刻まれた想いが、彼の内に“形”を持った証だった。


 霧が消える。


 空間が閉じる。


 ユイの意識が、現実世界へと引き戻されていく。



──その胸に、確かな温度を残して。

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