Scene 2-5「プロトコル:抹消」

 深夜二時を回った頃、ユイはようやく解析を止めた。

 端末の光が瞳に滲む。

 ログを何度も再生するうち、胸の奥の冷たさは少しずつ鈍い痛みに変わっていた。


「……これ以上は、もう」

 息を吐いた。

 感情値ログの断片は、結局すべてを教えてくれたわけじゃない。

 

 でも、十分だった。

 確かに存在した声を、自分は聞いた。

 それだけで、今日までの時間が無駄じゃなかったと思えた。


 

――その時だった。

 机の端に置いた端末が、小さく警告音を鳴らす。

 ユイは視線を上げた。

 画面に、見慣れない符号が走る。


 《……通信要求……暗号認証……》


 瞬間、背筋に冷たいものが走った。

「……レオン」

 振り返った。

 レオンも同時に、モニタに目を向けていた。


「外部からの接続だ」

「こんな時間に……?」

「違う。これは……」

 言い終わらないうちに、端末の表示が切り替わった。

 

Voluntasヴォルンタス:BlackブラックJammerジャマー_δ デルタ起動》

「……ッ!!」

 ユイは息を呑む。

 

Voluntasヴォルンタス》系列。

 意志に干渉する術式構文。

 情報統制部が使う、強制遮断の標準プロトコル。

 

「遮断だ。情報統制部が来る」

 レオンが低く呟く。

 ユイは息を止める。

 端末の光が、黒い染みのように広がっていく。

 画面上で、さっきまで積み上げた解析ログが一つずつ消えていった。


「……消去が始まってる」

 声が震えた。

「この速度……通常の遮断じゃない」


「《Voluntas:BlackJammer_δ》……強制抹消プロトコルだ」

 レオンが言った。

「情報統制部が動いている」

 端末の表示が切り替わる。


 《存在証明ログ・抹消進行率:28%》


 ユイは端末に手を伸ばした。

「止める……!」

 指先から術式が走る。


Memorixメモリクス》の干渉。

 記録を保護するための術式が、黒い構文の奔流に絡め取られる。


 「……くそっ」

 制御が追いつかない。画面が、再び警告を鳴らす。


《抹消進行率:43%》

 胸の奥が冷たくなる。

 このままでは、さっきまでの痕跡が全部消える。

 あの声も、あの証明も――


「退け!」

 レオンの声が鋭く響いた。

 ユイは反射的に手を引いた。次の瞬間、レオンが端末に拳を叩き込んだ。

 打撃に合わせて、干渉用の短術式が走る。

Voluntasヴォルンタス》系列に対する遮断構文。


「……一時停止できるかも」

 ユイが息を呑む。画面が一瞬、動きを止める。

 しかし――


《抹消進行率:47%》

 再び数字が進んだ。

 

「駄目だ、止まらない」

 ユイは歯を噛みしめる。もう少しで、全部消える。

 手が震えた。あの声が耳に蘇る。

 

 ……ここに……

「……いやだ」

 声が掠れた。

 

「消させない……!」

 再び指先を端末に置く。負荷が脳を揺さぶる。

 視界が白く滲む。


「ユイ!」

 レオンが叫んだ。けれど、もう遅かった。

 意識が深い深い底へ沈む。


Memorixメモリクス》の術式が暴走寸前に近づく。

 それでも、指を離す気はなかった。

 ここで手を放せば――

 存在は、もう二度と証明できない。

 ユイの意識が、ゆっくりと遠ざかっていく。

 端末の光が滲んで、何も見えなくなりかけていた。

 それでも、手は離さなかった。


 ……ここに……

 あの声が、遠い記憶の奥で揺れている。

 視界が白い光で埋まる。

 冷たく、どこか知っている光。

 それは昔、施設の天井に広がっていた無機質な白だった。


 声を出そうとする。

 けれど、喉が凍りついていた。

 

――消える。

 その確信だけが、妙に鮮明だった。

 この記録が全部失われたら、あの子は本当に“いなかった”ことになる。

 

 誰にも届かず、名前も与えられず。

 ただ、資源として番号だけが残る。

 ……嫌だ。


 心の奥が震えた。

 もう一度、声を出そうとする。

 指先にかすかな温かさを感じた。

 現実の感覚が戻る。

 見上げると、レオンが手を重ねていた。


「……戻れ」

 低く呟く声が、遠くに聞こえる。

「全部失う気か」

 ユイは唇を震わせた。

 

「……嫌だ……」

「分かってる」

 レオンの掌が、端末から引き剥がす。

 視界が揺れた。息が乱れる。

 

「……っ」

 喉の奥で何かがひっかかった。

 涙が零れる。

「……全部……消される」


「まだ終わってない」

 レオンが短く言った。

「抹消は進行中だが、全記録を奪うには術式の許容時間が必要だ」


「……何とか、できる?」

「策はある。だが――」

 視線が交わる。


「お前自身の記憶にも干渉される」

 ユイは息を飲んだ。

 術式深層に接続したまま抹消構文を受ければ、記録だけではなく、自分の記憶も失われるかもしれない。


 それでも。

「……やる」

 声は震えていなかった。


 レオンは短く頷いた。

「いいだろう。……なら、一度だけ深層層へ潜れ」

「分かった」


 目を閉じる。

 胸の奥が静かになった。

 怖さよりも、ただ確かめたい気持ちが勝っていた。

 存在を守る。それは、自分自身を守ることと同じだった。


 再接続。

 端末の光が再び脳裏を満たす。黒い符号が渦を巻く。

《抹消進行率:62%》

 ユイは息を吐いた。

 薄い光の底に、まだ欠片が残っている。

 感情値ログの断片。震える声。

 

 ……ここに……

「……まだいる」

 胸の奥で言葉が生まれた。

 

「……消えてない」

 レオンの声が遠くで響く。

「……でも、知った。彼は”いなかった”んじゃない。“いさせてもらえなかった”んだ」

 ユイの意識の奥に、その確信が刻まれた。

 

 どれだけ消されても、もう忘れない。

 確かに存在した声を、自分は聞いた。

 それだけで十分だった。

 

《抹消進行率:78%》

 数字が進む。

 だが、もう怖くはなかった。

 記録は消えても、記憶は残る。

 ユイは薄く微笑んだ。


「……覚えてる。だから、大丈夫」

 端末の光が、ゆっくりと暗くなっていく。

 それでも、胸の奥の温かさは消えなかった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る