Scene 2-4「感情値ログの残響」
重い扉が軋む音を立てて閉まった。
レオンは背後で鍵をかけると、短く息を吐いた。
「……しばらく、ここには戻らない方がいい」
「分かってる」
ユイは視線を落とした。
手に握ったデータキーの金属が、ひどく冷たかった。
老人の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
――生まれても、記録されなきゃ”人間”じゃない。
あの声は、ずっと事務的だった。
でも、言葉だけが妙に深く刺さった。
「……データキー、解析する」
「少し休め」
「平気」
ユイは背を向けた。
そうしないと、顔に浮かびそうなものを隠せなかった。
帰路の道は薄暗く、街のざわめきが遠かった。
いつもなら気配が濁る旧区画も、今日はひどく静かだった。
端末を握る手に力が入る。
このデータを知ることは、きっと自分自身の在り方も突きつけられる。けれど、それが怖いとは思わなかった。
知ることを選んだのは、自分だ。
存在を定義されないまま終わるのが、いちばん怖い。
だから――
何があっても、知りたかった。
帰還した拠点の扉を閉めると、空気はひどく冷たく感じられた。
ユイは足元に置いた端末をそっと抱え上げる。
机の上に置くと、レオンが無言で近づいてきた。
「……始めるのか」
「うん」
頷くと、視線を落とした。
データキーに残された情報は、解析が終わればもう元には戻らない。
知った先で、後戻りはできなくなる。
それでも。
「……やる」
端末を起動する。
画面に符号が走り、解析ウィンドウが開いた。
老人が言っていた“未承認感情値ログ”。
試験体が生成された瞬間、術式干渉の副次的記録として残る。
存在の証明のように。
解析が進むたび、胸の奥が少しずつ冷えていった。
生まれて、名前も与えられないまま、運用対象として記録される。
“Null”の符号は、ただそれを保証するための番号。
けれど、数字の下に、誰にも届かなかった声が残ることがある。
レオンが一歩後ろで立ち止まった。
「……再生できるのか」
「分からない」
けれど――知りたかった。
解析の進行バーがゆっくりと埋まっていく。
残響データが重なり合い、途切れた波形が再構成される。
小さな表示が浮かび上がった。
《感情値ログ:
胸が締めつけられる。
もう一度、息を整えた。
「再生……」
指先が震えた。
音が流れた。
それはノイズ交じりの、途切れがちな記録。
でも、その奥に確かな声があった。
……っ、……ひ……く……
子供の声。
言葉にならない、小さな嗚咽。
レオンが何も言わず、視線だけを落とす。
「……怖い……」
ノイズの中に、かすれた言葉が混じった。
「……怖い……」
ユイは唇を噛んだ。
あの廃墟で見た幻影が、また脳裏に浮かぶ。
震えていた背中。
言葉を探し続ける瞳。
「……ここに………」
ログの再生が一瞬止まった。
画面に、波形の残響が滲む。
「……ここに、いたいんだ……」
声が、確かにそう言った。
胸の奥が震えた。
涙がひとすじ、頬を滑り落ちる。
「……生きてたんだ」
掠れた声が、自分のものだと気づけなかった。
名前がなくても、証明がなくても。確かにここにいた。
“Null”なんかじゃない。
ただ、いらなかったのは、この世界の方だ。
解析ウィンドウが静かに閉じた。
残響は途切れたが、耳の奥にまだ声が残っていた。
レオンが目を伏せる。
「……知ったな」
「……うん」
言葉は短かった。
でも、それで十分だった。
ユイは端末の画面から視線を外せなかった。
解析ウィンドウが閉じても、声の残響は胸の奥で鳴り続けていた。
……ここに、いたいんだ……
その言葉が、何度も呼吸に混じった。
気づけば、頬にもう一筋、涙が伝っていた。
指で拭っても、すぐに次の雫が生まれる。
「……ごめん」
誰に謝っているのか分からなかった。
何もできなくて、見ていることしかできなくて。
けれど、それでも、あの声を無視することだけはできなかった。
レオンがしばらく黙っていた。
やがて、低く声を落とす。
「……昔、同じことを言った子がいた」
ユイは顔を上げた。
「まだ俺が軍にいた頃だ。上から送られてきた“資源”の一つに、仮登録の少年がいた」
仮登録。
“Null”の別の言い方。
「俺はただ命令を守っただけだ。記録の輸送任務。
番号だけの存在を、別の研究所に移す仕事」
言葉は静かだった。
「……あのとき、そいつが何を考えていたかなんて、分かりもしなかった。でも、別れ際に一度だけ、俺を見た」
レオンは遠くを見るように視線を落とした。
「何かを言おうとしていた。けれど、口を動かすだけで、声は出なかった」
ユイは何も言えなかった。
胸がひどく苦しかった。
「俺は結局、何もできなかった」
レオンは短く息を吐いた。
「だから、今もお前を見ているのかもしれない」
「……」
「何もできないままでいるよりは、ずっといい」
その声が、僅かに掠れていた。
ユイは俯く。
感情値ログの断片が、まだ端末に微かに残っていた。
指先で再生ボタンに触れる。
再び、音が溢れた。
……ひっ……
幼い泣き声。
……怖い……怖い……
震えた声。
……ここに…………
言葉は消えそうに掠れる。
……いたいんだ……
その響きが、胸に刺さった。
知らないふりはできなかった。
「……忘れない」
ユイは小さく呟いた。
「たとえ記録が消えても、僕は知っているから」
涙がまた一つ落ちる。
“Null”なんかじゃない。
確かにここにいた。
レオンが息を吐く。
「その声を聞いた時点で、もう逃げられないぞ」
「……分かってる」
「知ることには、代償がつく」
「でも……知らないままでいるよりは、ずっといい」
それだけは、はっきりしていた。
部屋に静寂が戻った。
解析が終わった端末が、淡い光を放っている。
外の街はもう夜に沈んでいた。
けれど、恐ろしいほど静かだった。
世界が無関心に見えて、ほんの少しだけ救われる気がした。
ユイは椅子から立ち上がる。
「……休んで。僕はもう少しだけ整理する」
「無理をするな」
「平気」
視線を交わした。
レオンは何も言わず、背を向けた。
机に残る端末の光が、夜の闇を少しだけ押し返していた。
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