Scene 2-3「記録されなかった子供たち」
薄曇りの昼が、レオンの拠点を淡く照らしていた。
朝から続いていた解析は、ようやく一区切りついた。
端末に残ったデータは、焼却痕だらけの破片ばかりだったが、それでも確かな手がかりだった。
ユイは疲れたように椅子にもたれかかる。
「……これ以上、ここだけじゃ無理だね」
「そうだな」
レオンが端末を閉じる。
「残っているのは補助コードと未承認記録だけだ。正式な出生記録も、戸籍も、何もない」
「つまり……」
「“生まれていない”ことにされてる」
言葉にするたびに、胸が冷たくなる。
この感覚は、いつか自分も知っていたものだ。
記憶も、記録も、何もなかった夜。
それでも呼吸だけはしていた。
ただ、それを証明できる誰もいなかった。
「……本当に、消すために生まれるんだね」
「最初から存在を許さない前提で、番号だけ与える。それが“Null”の運用だ」
レオンの声音は低かった。
端末の画面に、欠けた符号が点滅を続ける。
識別コード:Null_07-A
術式分類:アニマ=コード系列 試験体
何度見ても、その文字列が胸を抉った。
「……調べる範囲を広げる」
ユイが小さく呟いた。
「この符号だけじゃ足りない。何で生まれて、何で消されたのか――知りたい」
「どこにあたるつもりだ」
「闇の情報ネット。……レオンのツテを借りたい」
レオンは短く息を吐く。
「やめろとは言わないが、リスクは高い」
「分かってる」
「向こうもタダじゃ教えない」
「……それでもいい」
目を伏せる。
もう後戻りはできなかった。
ユイは椅子から立ち上がった。
足元が少し揺れたのは、術式の深層接続で消耗していたからか、それとも――
胸の奥に残る痛みのせいだったのか、分からなかった。
端末の画面を見下ろす。
《Null_07-A》
自分が生まれたとき、同じ符号が付けられていた。
何も知らずに、ただ存在だけが決められた夜。
息をしていた理由さえ、与えられていなかった。
……この子も、きっと同じだった。
それだけは確かに分かった。
「レオン」
振り返ると、彼は工具を整理しながらこちらを見ていた。
「何だ」
「情報屋の紹介を……お願い」
「覚悟はできてるのか」
声は淡々としていた。
だが、その言い方の奥には、たしかに確認の意図があった。
引き返す余地を与える声。
それでも、ユイは頷いた。
「……できてる」
目を逸らさずに言った。
「全部知りたい。あの子のことも、Nullという符号が何なのかも」
「……分かった」
短く息を吐いた。
「一人で行かせるつもりはない。俺が繋ぐ」
「ありがとう」
胸の奥が少しだけ緩んだ。
昼過ぎの街は、妙に静かだった。
拠点から一歩外に出ると、空気が冷たく感じられた。
灰色の空を見上げる。監視ドローンは見えない。それでも、どこかに視線がある気がした。
「……動くたびに、何かが近づいてくる気がする」
「実際、そうだろう」
レオンが言う。
「この手のデータに手を伸ばすのは、つまりそういうことだ」
「知ってる」
「それでも行くのか」
「行く」
言葉にしてみると、不思議なほど迷いはなかった。
旧セクターの地下道を抜けた先に、古い建物があった。
外壁のひび割れは修繕されず、看板も外されたままだ。
レオンは立ち止まり、無言でユイを見た。
「ここに?」
「ああ。中に情報屋がいる」
「……危険?」
「危険じゃない情報屋なんていない」
それでも彼は扉を開けた。
中には、薬品の匂いが漂っていた。
ぼんやりと灯るランプの下に、背の曲がった老人が座っていた。
「……久しいな」
かすれた声。目を細めてレオンを見つめる。
「まだ死んでいなかったのか」
「生憎な。情報を買いに来た」
「ほう」
老人の視線がユイを捉える。
「子供か。珍しい客だ」
「……知りたいことがある」
「ふむ」
老人は椅子を軋ませ、端末を操作する。
「Nullコードについてか」
息が詰まる。
「お前たちの動きは、少しは耳に入っている」
「……全部知っているの?」
「全部ではない」
老人は薄く笑った。
「だが一つだけ確かなことがある」
低く呟いた。
「生まれても記録されなければ、“人間”じゃない。そういう仕組みだ」
その声は淡々としていた。
でも、その言葉の重みだけはひどく冷たかった。
ユイは言葉を失ったまま、老人を見ていた。
「人間じゃない――」
呟きが喉の奥でかすれた。
「そういう仕組みだと、あんたは言った」
「言った」
老人は薄い瞳を動かさずに答える。
「この街だけじゃない。連邦圏全体がそうだ。生まれても戸籍に記されない者は、存在として認められない。法の保護も権利もない。……ただの“データ欠落”だ」
空気が重くなった。
まるでこの建物の壁そのものが、誰かの絶望を吸い込んできたように感じた。
ユイは震える手を胸に当てる。
「でも……生きてる」
「生きているかどうかは問題ではない」
老人の声は静かだった。
「記録に載るか、載らないか。それだけで、お前が“人間”か“資源”かが決まる」
背後でレオンが短く息を吐いた。
「……吐き気がするな」
「何のために、そんな仕組みがある」
「管理だよ」
老人は端末を操作しながら、淡々と続ける。
「大量の人口を抱える都市圏では、“生まれたこと”を保証するだけで莫大なコストがかかる。その裏返しとして、記録されなければ管理対象から外す手法が生まれた」
「……効率のために、存在を切り捨てるのか」
「何も珍しいことじゃない」
端末の光が、老人の皺だらけの顔を照らしていた。
「お前らのような試験体は、その最たる例だろう。研究のために生まれ、失敗すれば廃棄される。存在そのものを管理するための記録と抹消のルールだ」
声はどこまでも事務的だった。
だからこそ、逃げ道がなかった。
ユイは視線を落とす。
胸の奥に冷たい何かが降り積もっていく。
「……カイルも、そうだったんだね」
「Nullコードの付与は、生存権の剥奪と同義だ」
老人は言う。
「お前が見つけた“Null_07-A”は、正式登録される前に存在を利用されるためだけに生まれた記号だ」
「それでも……」
言葉が震えた。
「廃墟で見た幻影は、確かに……」
生きていた。怖がっていた。
誰かに助けを求めていた。
「――存在を証明したいって、言ってた」
老人はわずかに目を細めた。
「……それが事実なら、そいつは“記録を越えて残ろうとした”ということだ」
「……?」
「存在証明は、誰かに覚えられて初めて成立する。
公式な記録がなくとも、誰かが“そこにいた”と知るなら、それは半端な抹消では終わらない」
ユイは顔を上げた。
「じゃあ……」
「お前が“知った”時点で、完全抹消は不可能になった」
レオンが視線を動かす。
「……つまり、情報統制部が動く」
「動かないわけがない」
老人は端末を閉じた。
「お前らが手を出したのは、無かったことにされた計画の残響だ。それは、いまも本当は終わっていない」
しばらく沈黙が落ちた。
ユイはゆっくり息を吸う。
「全部、知りたい」
声はもう震えていなかった。
「何で生まれて、何をさせられたのか。そして……何で消されたのか」
老人は何も言わなかった。
ただ、その目だけが少しだけ柔らかくなった気がした。
「……おじさん、お願い」
ユイが低く頭を下げる。
「情報を……情報を僕に下さい」
老人はしばらく黙っていた。
やがて、乾いた声を落とす。
「代償は、覚悟しておけ」
「……金の話じゃない。お前の中に残るものの話だ」
「分かってる」
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