Scene 2-2「消されたはずの記録」

 深層層の解析は、時間の感覚を曖昧にする。

 ユイは端末の奥に意識を沈めたまま、淡い光の網を見つめていた。


 目を閉じていても、視界は消えなかった。

 記録の残響は現実の感覚よりも鮮明で、冷たく鋭い。


 奥へ、さらに奥へ。


 仮登録コードを辿った先に、通常アクセスでは認識できない領域があった。


 ユイは息を飲んだ。

 そこに、黒く焦げた情報の層が横たわっていた。


「……これは」

 声がかすれる。

「焼却痕のさらに奥に……未承認の記録が残ってる」

「未承認?」


 レオンの声が遠くに聞こえた。

「“未承認区域”……正式に戸籍が付与される前、存在を定義するだけの仮領域。

 本来は登録と同時に破棄されるはずのデータだ」


「消されていないのか」

「違う……」


 ユイは手を伸ばした。

 符号に触れると、冷たい抵抗感が指先に絡む。


「消された。……でも完全には破壊しきれなかったんだと思う」


 網の奥に、うっすらと文字が浮かんだ。

 それは正式な戸籍情報ではなく、

 存在を証明するための、たった一度だけ生成される初期記録。


 《識別コード:Null_07-Aナールゼロセブンエー


 コードの下に、小さな副情報があった。

《術式分類:アニマ=コード系列 試験体》


 喉が詰まった。

 この記録は、単なる廃棄ログではない。

 人間として登録される前に、別の意味を与えられた証。


――試験体。


「……登録される前から“存在を使われる”予定だった」

 声が震えた。

「名前も、戸籍もなく。……でも、利用価値だけは先に決まってた」


 ユイは画面に映る符号を見つめていた。

 アニマ=コード系列――

 魂の構造そのものに干渉する術式群。


 試験体。

 人間としてではなく、運用資源として計画される存在。

 呼吸が浅くなる。


 “Null_07-A”


 その記号は、他人のものではなかった。

 自分の記憶の中にある符号と、ほとんど同じ並びだった。


「……僕も、同じ仕組みで作られた」

 声に出すと、声にならない息が漏れた。

 あの少年の残響。

 名前を与えられず、証明もされず。

 それでも、生きた証を残そうとした声。


「……いさせてもらえなかったんだ」

 震えた言葉が、空気に落ちる。


「いなかったんじゃない……“いさせてもらえなかった”」


 目を閉じた。

 その言葉は、どこか自分に向けられたものでもあった。

 存在を奪われる痛み。

 それを知っているから、ここに立っている。


「……レオン」

「なんだ」

「これから、もっと何かが分かるかもしれない。でも……全部知っても、救えない気がする」

「かもな」

「それでも……」


 唇を噛む。

「僕は、知らないままでいるのが一番怖い」

 レオンは短く息を吐いた。

「なら、やるしかない」

 それは命令でも慰めでもなかった。

 ただ、当たり前のことを言っただけだった。

 それが少しだけ、救いになった。



 解析ウィンドウが自動的に閉じる。

 残されたログは、破片のように欠けていた。

 でも、その欠片だけでも確かに証明していた。

 誰かが、ここにいたこと。


 ユイは息を吐いた。

 深く潜った意識が、静かに戻ってくる

 目を開くと、端末のディスプレイが淡く点滅を続けていた。

 解析ログはまだ不完全で、そこに映る符号の一つひとつが、形を変えながら明滅している。


「……Nullナール

 声に出すと、その響き存在の空白”って、たぶんただの分類じゃない」

 レオンは応えない。


 けれど、視線だけがこちらを向いていた。

「消すための前提だ。……最初から“いないことにする”ために与えられる記号」

 言いながら、自分でも胸が痛んだ。どれだけ合理的に整理しても、

 その符号に貼り付けられた意味は変わらなかった。


 生まれた瞬間から、人間ではなく“試験体”。

 名前を与えられない。

 記録に残らない。

 必要がなくなれば、定義ごと破棄される。


「……きっと、あの子も」

 あの廃墟で見た少年の声が、また耳の奥を震わせる。

……ここに、いたい。


 あの声は、嘘じゃなかった。

 数字でも符号でもなく、確かに一人の子どもが息をしていた証だった。


「ユイ」

 レオンの声が落ちる。

「限界は近い。……もう少しで切り上げろ」


「分かってる」

 術式同期は深ければ深いほど、精神を侵食する。

 気を抜けば、どちらが現実か分からなくなる。

 ユイは視界の端にちらつく光を追った。焼却痕の奥に、まだ何かが残っている気がする。


「……もう一層、潜る」

「行けるか」

「……行くしかない」

 覚悟だけは、最初から決まっていた。


 指先を端末に置く。

 解析の残響が、骨の奥まで染み込む。

 閉じた瞼の裏に、白い光が広がった。


 それは遠い記憶。

 番号で呼ばれた夜。声が出せなかった自分。

 あのときの恐怖と孤独が、今もずっと残っていた。

 だから、知りたかった。

 存在を奪われた子どもたちの声を、もう一度拾いたかった。


「接続……深層層に再同期」

 術式の光が、一瞬だけ強く脈打った。


 視界が反転する。

 戸籍ネットの仮領域が、薄い霧のように漂っていた。

 数字と文字だけの空間なのに、どこか温度がある気がした。


《識別補助コード:Null_07-A/副系列》

 その下に、かすれた文字列が残っていた。

 

《術式設定値:アニマ=コード系列/感情値初期化》


 喉が詰まる。

 感情を――

 生まれた瞬間から“空にする”設定。

 だから、あの子はあんなに無表情だったのか。

 何も知らずに震えていたのは、最初から“感情を定義されなかった”からだ。


「……ひどい」

 声が掠れた。

「何で……こんなことが許されるんだろう」

 誰に問うたのか分からない。

 けれど、レオンの声だけが返ってきた。

「……許されてない。だから表に出ない」


 淡々とした声音に、かすかな怒気が混じっていた。

「こういう計画は、失敗の痕跡ごと消される」

「失敗……?」

「人として生まれる権利を剥奪して、管理する。その上で、必要がなくなれば“いなかったこと”にする。……それが失敗だ」


 ユイは目を閉じた。

 胸の奥が、冷たい痛みで満たされていく。


 端末が小さな警告音を鳴らした。

 解析の限界が近い。仮領域は長時間の接続に耐えられない。

 でも、もう少しだけ――

「……あと一つだけ」


 息を吐いた。手を伸ばす。

 指先が、暗い符号の奥に触れる。

 そこに、確かに微かな光があった。まるで、最後の痕跡のように。

 

 

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