第20話 容疑者ミジュルクの旅立ち
手には余る細長いものが、日の光にきらりと光る。
「どうも」
笑顔で受け取ろうとするミジュルクの眉間に向って、アデレートはその細長く鋭利なものを突き立てた・・・
いや。突き立てようとした。
びくりとも動かない顔の寸前で、攻撃は止まる。
一瞬の躊躇い。
アデレートは彼の腕を掴んで背中の方にねじり、店から持って来たアイスピックを彼の肺の裏側へ当てた。
「お客様にこのような態度はとりたくありませんが、動かないで下さい」
「もう宿を出たので『お客様』ではありませんよ」
彼の声はいつもの通りで、抵抗の欠片すらない。
アデレートは眉間を寄せた。
「・・・どうして抵抗なさらないんです?」
「あなたから殺意が感じられないからです」
そうでなければ、とっくに返り討ちにあっていただろう。
彼の実力が遥かに勝っている事は明白だ。
アデレートはため息を吐き、ゆっくりと彼を解放した。
「すいません。あなたに聞きたい事があるのです」
「何でしょう」
ミジュルクの顔にはやはり、微笑が浮かんでいる。
腕に自信がある現れか?相当、
油断はできない。
彼が本気になれば生きて店には戻れまい。
「殺人があった夜の次の日、あなたは早めに戻ってきましたね・・・弦が切れたとかで」
「ええ、それが何か?」
「どうして弦が切れたのです?」
「使っていれば、何れは切れるものなのですよ」
「いいえ。確かに楽器への知識はありませんが、全てがいっぺんに切れるなんて事はありえません」
ミジュルクは笑顔で、「そうですね」と答えた。
「あの日、どこへお仕事に行っていたんですか」
「どうしてそんな事が聞きたいのです?」
アデレートは数秒、押し黙った。
「・・・サランマダルの広場ではないのですか」
「確かに、広場近くを仕事場としておりましたよ。あそこは観光客が多いですかね。『女神達の噴水』の前で、営業をしておりました」
サランマダルの像の背を正面に、十五人の妻を模した石像が広場にはある。
扇状に設けられたスペースに、それぞれに美しい面立ちの女神達がいる。彼女達が持っている壺やらペットの口やら武器から、水が溢れてくる仕掛けだ。彼女達と世俗の人間を隔てるかのように、広範囲が
「サランマダルの像の前ではなく?」
「いいえ、あそこには腰掛ける場所がありませんから」
「一度も?」
「ええ。噴水の前でしか営業はしておりませんよ。地べたに座ると衣装が汚れますから」
アデレートは眉間を寄せた。
サランマダルの像は広場の中心、女神達の噴水は広場の端だ。けっこうな距離がある。
「あなたの髪飾りは、上質な布と絹糸でできていますね。しかも、女ものだ」
「ええ。髪飾りは大抵、女性がされますから」
ミジュルクは苦笑した。
「わたしは女装趣味ではないし、ましてやそういう恋愛趣味はありませんよ」
「わたしが聞きたいのはそういう事ではないのです。あなたが花嫌いの蛇好きであろうとも、通報する気などさらさらない。あなたはわたしのタイプでもありませんし」
「では・・・何が聞きたいのです?」
彼の声が少し、低くなった。
「弦の事に気を取られて忘れていましたが、あの日わたしは、あなたの後姿を見て違和感を感じたんです。お出かけになる前と、何かが違うと・・・それはあなたのかんざしの髪飾り――二房あったうちの一房が、なくなっていたからだったんです・・・」
ミジュルクの表情が、心なしか固くなったような気がした。
「それが、何か?」
「その片方だと思われる髪飾りが、その日の晩、サランマダルの像の真下で、ある人に拾われたんです」
「え?」
今度ははっきりと、彼の眉間に皺が寄った。
「どうして一度も行った事がない像の下に、それが落ちているのです?」
ミジュルクは顔を顰め、そして指をがぶりと噛んだ。
数秒の沈黙がある。
「・・・そんな筈はない・・・わたしがそれを失くしたのは、女神達の噴水で営業をしている、まさにその時です」
「失くした事を・・・御存じだったんですか?」
「ええ。白昼堂々、しかも人通りの多い広場で通り魔に会う機会は少ないですから」
「通り魔?」
「あの日、わたしは噴水の縁に腰掛けて、客寄せをしておりました。しかし前の日から三日ほど、広場には団体の同業者がいまして。そちらにお客のほとんどが惹かれ、稼ぎが悪かったのです」
そう言えば、そんな理由で宿泊日数が増えたのだったか。
「わたしの前には、そう―まばらでしたね。そんな時、少し変わった雰囲気の方が近づいてきて・・・おそらくは男の方でしょう。大柄ではない」
「どうしてそんな事が?」
「足音や、気配・・・そんな所でしょうか。客商売をしていますと、自然と、ね」
アデレートは頷いた。
畑は違うが、客商売をしていると洞察力が鋭くなるのはどこも同じだろう。
「その方はわたしの前を通り過ぎる寸前、突然殺気と共に短身の刃物を抜き出すと、わたしを切りつけて来たのです。わたしは咄嗟に――」
そう言って、ミジュルクは琵琶を示した。
「この中に潜めてある隠し刀を引き抜き、応戦しました」
「・・・それで、殺したのですか?」
「まさか」
ミジュルクは苦笑した。
「勝負は一瞬・・・私の刀は空を切り、相手の刃物はわたしの髪飾りを落とした・・・それだけです。相手の方の殺気は一瞬で失せ、その気配も何事もないかのように去って行ったのです」
「騒ぎにはならなかったのですか?」
「何人かが悲鳴をあげました。通常なら通報する所ですが、ここは非戦闘地区。わたしはある事情で、身分の明かせるものを持ち合わせておりません・・・急いで刀をしまい、宿へ戻った・・・――それが、全てです」
「その時に髪飾りは?」
「敵が去る一瞬、彼はしゃがみ込みました。おそらくは拾ったのでしょう。髪飾りが像の下にあったなら、きっと彼が落としたんだ」
アデレートは不審そうに眉間を寄せた。
「あなたの髪飾りが欲しかった―、とでも?」
「さぁ・・・目的は分かりません」
妙な話だ。盗むのが目的なら、慌てて走った時に落としたのだろうか。
いや。ミジュルクは相当な腕前だとみた。彼と対等に戦い、そして冷静に対応している筈の犯人が、なぜ戦利品を落とすなどというヘマをするのだろうか?
昼間に偶然落とした、というのなら、布製の髪飾りのことだ。踏まれて薄汚れているだろうが、ロイドに見せてもらった薄黄緑色の花房には、汚れ一つ付いていなかった。
犯人は、ロイドが待ち合わせ場所に来ると見込んで、わざと髪飾りを落とした?
何の為に?犯人は男で、女だと思わせたかった?
無理だろう。男社会のギャング争いで、女しか関わっていない、という状況は。それとも、あの赤い帽子の蝶男は、誰かが囲う花壇の花にまでとまってしまったのだろうか。
あの容姿なら花のほうが体を揺さぶってアピールしてくるだろうが・・・
それならばレネスの所にまで同じ手紙が来るのはおかしい。
《キンコウセン》と《レイガフ》が手を組めば、《コクーテ》を潰せると思わないか。
やはり、ない。
これは《コクーテ》を潰したがっている陰謀か、《レイガフ》と《キンコウセン》の仲違いをいっそう深めようとする動きに違いない。
随分な間をあけて、アデレートは言った。
「――少し、できすぎてはいませんか」
「疑っておいでなのですね?」
少しも気を悪くした様子もなく、むしろ穏やかに、愉快そうな含みで彼は言った。
「あの殺人はわたしだと?」
「いいえ。しかし、何らかの形で関わっているのではないか―と、先ほどまでは思っていました」
ミジュルクは口の端をあげる。
「二階の窓から飛び降りて、また戻ってくる、という事は不可能です。リスクが高すぎるし、わたしへの利益はない。いくら剣の覚えがあるからと言って、目が見えない状態で人を切れば、返り血ぐらいは浴びます。わたしは自分で洗濯しないんですよ。したくともできないので、全て洗濯屋か宿のサービスに任せます。わたしが犯人ならば、その時に知れるでしょう・・・衣服を捨てたとしても、処理をするのはあなただ」
たしかに。犯行時刻が合っていあるなら、犯人とルーは入れ違いの筈だ。
泊まり客には事前に、ミツの危険性を話している。
人を殺して衣服を脱ぎ、裏口に近い壁を証拠も残さずよじ登って二階へとあがる、という事は不可能だ。
猫じゃあるまいし。
「さっきも言った通り、そこまでする動機がわたしにはないのです」
ミジュルクは笑った。
「もっとも、わたしが殺人を目的とする殺人鬼ならば話は別ですが」
ミジュルクの声が艶っぽく聞こえた。
一瞬、周りの空気が固くなる。
「冗談ですよ」
ミジュルクは穏やかに笑った。
『降参』というにはあまりにも余裕たっぷりに両手を広げて、おどけてみせる。
アデレートは愛想笑いもせず、真剣な顔付きで彼を見つめた。
すぐに、ミジュルクの顔から笑顔が消える。
「これをご覧になれば、わたしの身の潔白は証明されるんじゃないかな・・・?」
ゆっくりと、彼の瞳が開いていく。
黒く長いまつげに縁取られ、大きな切り目が開く。彼の虹彩は輪郭が曖昧で、瞳全体に白い膜が張っていた。この短時間で何かしらの仕掛けができるはずもないし、長時間仕込んでおけるものでもない。
視線は合わなかった。
彼の目は、見えていない。
ミジュルクは両手を落とすのと同時に、瞳を閉じた。
「これでお分かりに?」
「ええ・・・ミジュルクさん。何と・・・お詫びしていいのか・・・」
ミジュルクはかぶりを振った。
「いいえ。はじめから怒ってなどいませんよ」
彼はいたずらを思いついた子供のように笑うと、アデレートの肩まで顔を寄せた。
「いいことを教えてあげましょう・・・」
妙に甘い声で耳打ちをする。
「わたしと戦った相手は、あなたの近くにおりますよ・・・」
アデレートは目を見開き、ミジュルクを見た。
もちろん彼の目は閉じているので、視線は合わない。
しかし彼は、アデレートの表情を楽しむように笑った。
顔を遠ざけると、
「それでは」
と言って、アデレートの横を通っていく。
「それは」
アデレートがミジュルクの背中に言うと、彼が振り向いた。
「その話は本当ですか?」
「さぁ?証拠はありません」
ミジュルクは人の悪い笑顔を浮べた。
やはり曲者⦅くせもの⦆だ。
「それが本当だとして、どうしてわたしに教えてくれるのですか」
ミジュルクはくつくつと笑いながら、手を振って踵を返した。
「あなたの声が好みだからですよ」
アデレートは呆気にとられた。
彼は、二度と振り返らずに去って行った。
アデレートは暫く、彼の後姿を見つめていた。
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