第8話 アデレートとルートヴィーズの出会い【3】
半年ほどたったある日。
閉店後の掃除をしている時だった・・・。
「今日は盛況だったな」
独り言とも質問ともとれぬ言葉に、彼は頷く。
掃除道具を運んでくると、積み重ねた皿を両手で運ぶルートヴィーズと鉢合せになり、道を譲ろうとした彼は体を移動させた。
カウンターに置いてあったグラスが皿に触れ、床へと落ちてガチャンと砕ける。
小さく溶けた氷と共に、大分うすまった酒も広がった。
「あ~あ・・・またやったな」
ルートヴィーズはぎこちない動きで皿をカウンターに置く。先にしゃがみこんだアデレートは、破片に手を伸ばしながら言った。
「ああ、いい、いい。お前はさっさと片付けっ―・・・」
思わず手を引くと、指先から血が流れていた。
大きな破片の尖った部分は赤く色づき、僅かに残っている水分に滲みながら、グラスの表面を伝っていく。
「悪いけど、処理用の袋、奥から持って来てくれるか・・・」
ため息混じりにそう言うと、傷は無視して破片を集める。
ルートヴィーズは言われた通りに袋を持って来て、向かい側にしゃがみこんだ。
暫くは無言で破片を集めていたが、ふと床に弾ける赤い液体に気付き、アデレートの指を見つめる。
指先から溢れてくるそれを彼が左手で受け取ると、アデレートは視線をあげた。
雨漏りのように溜まっていく血を見つめ、何を思ったのか、彼はそれを舐めた。
「なっ・・・何をしてるんだっ・・・」
彼の唇は赤く染まり、まるで口紅を塗ったようになっている。それを舌が拭う。
唖然としているアデレートの手をとると、すまなそうに傷口を吸った。
体温がいっきに上がり、どくん、と鼓動が高鳴る。
伏目がちな瞳は、それに気付いているのかいないのか、まつ毛の影を顔に落としているだけだ。
熱く柔らかい感触が、痛みを飲んでいく。
そういう趣味だったか、それとも善意での治療だったのか・・・未だに答えは出ない。
出したくないのかもしれない。
混乱している頭で、〝彼は吸血鬼なんじゃないだろうか〟とバカな事も考えてもみた。吸血鬼は皆が美しい顔をしていて、人間を惑わし、虜にする術を持っていると言う。
満月の夜に現れた彼は吸血鬼で、自分は今、何らかの術にかかってしまったのだ。
頭の一部では酷く冷静に、〝そんな筈がないだろう〟と言っている。
しかし、〝そうであってくれ〟と願っていた部分もあった。
少なくとも、心の納得は得られたからだ。
アデレートはこの時まで一度も、男を好きだと思った事がなかった。
何より、自分には妻がいたのだ。
その気があるのではと疑う必要もなく、これまで生きてきた。
それなのに・・・
それなのに、彼から目が離せなくなった・・・。
彼が指を離すまでの数秒間、この衝動がどういうものなのかを必死で考え、紛れもないその事実を否定しなければならなかった。
しかしアデレートの視線に気づいて彼がまつ毛を上げ、深い闇色の瞳を見た瞬間に、アデレートは抗う事を止めた。
まだじくじくと痛む人差し指を、彼の唇に当てる。
欲情を抑えようとした為に、ささやくような声になった。
「お前・・・口紅が似合うかもな・・・」
その艶っぽい声と、ゆっくりと唇をなぞっていく行為に、ルートヴィーズは僅かに目を細めた。
触れるか触れないかの感触が、こそばゆかったのかもしれない。
それでも彼に拒絶の色は見えなかったので、彼の横髪を優しくかき上げ、そのままゆっくりと顔を引き寄せた。
二人の間にガラスの破片が散らばっている事も忘れ、アデレートはおもむろに瞳を閉じていく。
彼の顔がだんだんと近づくにつれ、視界がなくなる。
まるで妖気を吸い込んだように、胸の辺りが膨張していくような、締め付けられるような感覚がしてくる。
血液が静かに沸騰し、頭の芯が痺れ、白くなっていく。
完全に目を閉じた数秒の間、暖かい感触が唇で重なり合った・・・。
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