第2話 アデレートと藤色の瞳をした少年

 もう限界だった。息が切れ、目の前が白くなっていく。

体中の傷跡が痛んだ。

警報笛が背後で鳴り響き、どんどんと近づいてくる。宿酒場をジグザグに走り、建物の死角へと回りこむ。

倒れるようにしてゴミ箱の影に隠れると、足音が迫ってきた。


 もうダメだと、観念しかけた時だった。


 突然建物の裏口が開くと、ゴミ出しに出て来た店員と目が合う。警官の怒鳴り声を聞きながら数秒の間見つめ合っていると、何故だかその店員は微笑した。

 腕を引かれて店に引きずりこまれると、ドアが閉まる。

すぐに足音が通り過ぎ、助けられた事を知った。

転んだままの姿勢だったので、男からは見下ろされる形になる。


「別の地区の子だね。見ない顔だ」

「だったらなんだっ・・・」

「別に?俺も警官は嫌いでね。昔は何度も追い回された」


 バーテンダーの格好をした男は、すらりとした腕を組んだ。どこか芝居がかっていて、本人もそれを楽しんでいるふしがあった。


「俺はこの店の店主、アデレート」 


 ここらでは珍しい銀髪の店主は、少年をじっと見下ろした。今まで見たことがないほど澄んだ緑色の瞳をしている。


「君は?」


 今にも唸り出しそうな犬のように、少年の目は警戒心に満ちている。

 それでも少年が口を開きかけた時、店の方でガシャーンと派手な音がした。

アデレートは呆れ顔で店の方へと振り返ると、「まぁたか」と言って少年を引っ張り起こした。土埃を払ってやる。


「とりあえず店の方においで。何か食わせてやろう」


 さっさと一人で歩いていくと、アデレートは酒場の様子にため息を吐いた。

丸テーブルや椅子が転げ、グラスの破片や酒が散乱している。昼間だと言うのに店は繁盛していて、周りの男達は異様な興奮を見せていた。


「ああ、店長マスターっ」


 盆を胸元で抱きしめているのは、この店の看板娘リクだった。「娘」と言っても三十手前で、アデレートと血の繋がりはない。住んでいる地区も違っていて、そこから出勤。水煙草仕事はしていない。

 彼女は十人並みに美人だし、愛想もいい。

 酒場の常だが、酒の入った非紳士に不快な言動をされる事も多い。普段はうしろで結っている縮れた茶髪が、少し目を離している間に崩れている。それでいて赤いカウボーイ・ハットの男がいつの間にか出現しているのだから、騒ぎの原因が彼女にあるのは明らかだった。

 赤ら顔の男は泥酔していて、言葉も足元も危うい。

 一方の青年はしっかり立っていて、余裕が見て取れる。

赤いカウボーイ・ハットは巧みに攻撃を避けるだけで、自分から手を出す事はしない。薄らと笑いまで浮べているのだから、相手の方は挑発されるままに熱くなっていた。

周りの者は参加こそしないものの、面白がって止めもしない。


「このガキがぁ、バカにしやがってぇ」


 何発目を避けられたのだろうか。突然長い棒が二人の間に差し込まれると、赤い帽子の方は即座にそれを避けた。回転した棒が泥酔男の肩口に直撃し、足元を掬って転ばせる。

床に倒れた男はそのまま気絶したようで、動かなくなった。


 舌打ち。

「なんだ、良い所だったのに・・・」

 愚痴が周りの客から漏れる。


 それを気にしている様子もなく、仲裁に入ったバーテンダーはテーブルを直し、グラスの欠片を拾いはじめた。黒髪黒目の、すらりとした体形の男だ。

 アデレートはリクの肩を軽く叩き、ウインクしてからカウンターの内側へと戻る。

 リクは赤いカウボーイ・ハットに礼をいい、仲裁に入った男に謝った。

無表情で頷いたのは、住み込みで働いている、ルートヴィーズだ。

誰もが認める美男子だが、客の誰にもなびいた事がない。やはり彼もここらの出身ではないようだが、流れ者が多いこの地区で、それを気にする者は少ない。

 一部の詮索好きを除いては、この街の皆が、互いの干渉を避けていた。


「今の騒ぎは何だっ」


 店の表、胸元に設置してあるドアが勢いよく開け放たれた。赤い制服の警官が三人乗り込んで来ると、客達は大人しく席に戻り始めた。警官が床に倒れている男に気付く。


「ここは戦闘禁止地区だぞっ、誰だ、この男を伸したのはっ」


 ルートヴィーズは素直に手を挙げた。

 警官が彼を睨むと、アデレートが即座に、反応。


「彼は喧嘩の仲裁をしただけですよ。『喧嘩両成敗』。店の権利、ですよね?」


 警官の士気が一気に萎んだ。


「うむ。まぁ、それもそうだ・・・それで、この男の相手は誰だ?」

「逃げましたよ。殴り倒してすぐに。勘定だけは投げてよこしましたけどね」


 アデレートはポケットの中から用意しておいた銀色のコインを出すと、それを見せた。


「ふむ・・・まぁ、仕方ない。こいつだけでも署に連行して行こう」


 後に控えていた二人が、伸びている男の手足を持つ。彼らの上司だと思われる口ひげの男は、「それで」と言ってアデレートに向き直った。

「白人系の小僧を見かけなかったか。ダボついたズボンに、黒の袖無しの上着、首飾り、頭にバンダナを巻いているんだが―」


「いいえ~、この通り手が空かなくて。外に出る暇がないんですよ」

「そちらが外に出る事はなくとも、やつが中に入る事はできるだろう?」


 口ひげは意味深に言った。

「この店の近くで行方が分からなくなったんでね。悪いが店内を見回らせてもらおうか」


 アデレートはグラスを拭きながら、肩を竦めた。警官はもったいぶった足取りで客の顔を見回し、店の裏側へと入っていく。調理場や裏口付近を見てから、戻って来た。


「うむ。異常はないようだ。すまなかったな」

「いいえ。お勤めご苦労様です」

「さっきからそこに寝ているソレは?」


 警官はソレを顎でしゃくって示した。


「ええ。番犬のかわりの、番ネコです。飼い慣らしてあるので、客を襲うことはないですよ・・・なぁ、ミツ?」


 ミツが視線を寄越した。しなやかな体を投げ出して床に寝そべってはいるが、彼女の目からは野生を宿した光が消える事はない。

首輪の鎖は階段の柱に繋がっていて、彼女はいつもそこにいる。

ミツは黒い斑が美しい、メスのヒョウだ。


 口ひげは、ルートヴーズをちらりと見た。先ほど泥酔男を撃退したモップで掃除をしている彼は、それに気づいているのかいないのか、黙々と仕事をこなしてる。


「君、どこかで会ったかね?」


 ルートヴィーズは警官と目を合わせると、一拍置いて首を傾げた。


「うむ・・・まぁ、いい。行くぞ」


 連れの警官二人は、泥酔男を担いで店を出て行った。

 ルートヴィーズはモップを片付けてカウンターの内側に入ると、足元の棚を開ける。

 少年と目が合った。


「もういいよ」


 アデレートが声を掛けると、警官が言っていた通りの格好をしている少年が出てきて、不審そうな目で店主を見上げた。十五・六歳だろうか。藤色の瞳が印象的だった。


「・・・どうして助けた?」

「別に?警官は嫌いだって言っただろう・・・それよりルー、お前あの警官と会った事があるのか?」


 隣に立っているルートヴィーズは、首を傾げた。

 無言でグラスを磨く。


「うん・・・そうか・・・」


 ルートヴィーズは、傷だらけで倒れている所を助けてやったのが出会いで、それ以来二年程、この店で働いている記憶喪失者である。彼の本名や経歴を知っている者は、彼本人を含めて誰もいない。口が利けず、また文字の読み書きもできないからだ。

 料理と掃除はど下手くそだったが、棒術や剣術の類は心得があるらしく、先ほどのように客をあしらうのは上手い。

 バーテンとしての素質はあるのか、酒の作り方は今までのバイトよりは早かったし、何より客が、無口で聞き上手な店員を好んだ。

 客の一人がニヤニヤしながらカウンターに寄りかかってきた。


「あの警官は『指輪なし《ノン・リング》』、『花嫌い』だ」

「え?」


 ノン・リングは、独身者や独身主義者のことで、花嫌いの「花」は『女性』を指している。つまり女性を恋愛対象としていない者を意味していた。この街で、同性愛は禁止されている。もちろん、『禁止されている』という事は、『存在している』という事だ。


「兄ちゃん、気に入られちまったんじゃないのかい?」

 周りから卑猥な野次と、笑いが起こった。


 それでもルートヴィーズの表情は蝋人形のように変化を見せない。

 ルートヴィーズの耳元で「気にするなよ」と言うと、アデレートは調理場へと向った。


「ルー、しばらく接客を頼む。俺はこいつに飯を―・・・」


 少年がいた場所に視線を移し、瞬いた。

 いつの間にか少年がいなくなっている。

 ルートヴィーズは裏口に続いてる、調理場への道を指差した。


「もしかして・・・逃げた?」


 ルートヴィーズが頷くと、アデレートは困惑して頭をかいた。


「嫌われたかな?」


 ルートヴィーズは無表情のまま、小さくかぶりを振った。

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