第5話





「すぐ怒るんだから」





 酒を注ぎながら、郭嘉かくかが呆れたように言った。


「三秒前までよく帰って来たなみたいに嬉しそうに出迎えてくれたのに。

 いきなり鬼の形相ですよ。

 よくもこんな気難しい人と友情が五十年も続きますね曹操そうそう殿。

 さすがは一国の王。貴方は寛容さが並の人間とは次元が違う」


「まあな」


「うるさいわ! そういうのは他愛の無いことで俺が怒った時に言え! 今は俺の反応の方がどう考えても正しいだろうが!」


 夏侯惇かこうとんは部屋の窓辺で、拗ねたように向こうを向いて背中で怒って来た。


「大体なんだその【烏桓六道うがんりくどう】とかいうたわけの輩は!

 ずっとお前を付け狙っていただと⁉ 

 一体いつの話だ! 執念深い、根の暗い連中め! 

 大体何故軍師を狙う。実際奴らを殺し進撃したのは我々だろうが!

 大方軍師など本を読んでばかりで剣の技も大したことないから、簡単に殺せるなどと思ったんだろうよ! 郭嘉! お前が宮廷人のような風体で護衛も付けずフラフラ歩き回るからそういう侮られ方をするんだぞ!」


「私に怒らないでくださいよ。将軍、ほら美味しい酒を注ぎましたよ。

 涼州からわざわざ持って来たんです。飲んでよ」


「うるさい! 説教が先だ!」


「そんなこと言ってると美味しい料理が冷めますよ。

 どうですか殿。涼州の酒は」


 夏侯惇を放って曹操そうそうは注がれた酒をぐい、と飲み干した。


「うん。美味い」


 満足そうに笑って頷くと、郭嘉は嬉しそうだった。

 自分の杯にも並々と注ぐ。


「そうだと思いました。私も涼州では腹に穴が開いてたので酒は飲めなくて。

 でもこれなら必ず殿も気に入るだろうと幾つか持って来たんです」


 郭嘉がそう言った瞬間、窓辺でいじけていた夏侯惇が聞き逃さず慌てて振り返り、数歩でやってくるとバッと郭嘉が手にしようとした杯を奪った。


「なんで奪うんですか。飲ませてくださいよ」


「たわけ! 腹に穴が開いてるだと⁉ そんな状態で酒なんか飲む奴がいるか!」

「言ってませんでしたっけ」

「俺が聞いたのはお前が烏桓のナントカに命を狙われたが無事に返り討ちにしたという所までだ! 深手を負ったのか⁉」


 郭嘉は敵と一対一になり、先に敵に先手を与えてやって、一撃はまず食らったのだと説明すると、夏侯惇の額にはっきりと青筋が浮かんだのが分かった。


「お前……」


「何をしてくるか分からない相手でしたからね。ただ本当に私を惨殺したいのなら徒党を組んで襲って来たはず。でも奴は一人で幕舎に姿を現わしました。これは自らの手で私を殺したい欲が、相当強いと見たわけです。だから罠に掛けた」


「その最初の一撃でお前が死んでいたらどうするつもりだ!」

「――そのような私なら、今後曹魏の大局において使い物にはなりませんよ」


 郭嘉は夏侯惇の本気の怒気を当てられても、静かな声で返した。


「私は今回の涼州遠征を、今後の自らを占う試金石にしたかった。

 長らく戦場からは遠ざかっていましたからね。

 死病に怯え、周囲から取り残されていく無力さに絶望し、信頼出来る妹が一人側にいてくれればいいと、かつてなくそんなことを考えた。

 いずれも私の幼い頃には無かったものです。

 そういうものと向き合い続けて、もし私の中から失われたものがあったら、命はあってもいつか自分の弱さが許せなくなったはず。

 自分を試すことは嫌いです。

 自分自身が分からないなんて愚かだ」


 郭嘉は夏侯惇が杯を返さないので、そこにあった別の杯に冷水を注いで一口飲んだ。


「この手で敵を殺して、

 生涯を懸けても私を憎み、殺したいと願っている敵をこの手で討ち取って、初めて自分は死病に掛かる前と何も変わっていない、失ったものは何も無いと確信が持てた。

 死ななかったのは幸い。

 悔いは無いですよ。

 二度と同じことはしない」


「当たり前だ、馬鹿め」


 夏侯惇は忌々しそうに奪った杯の酒を呷った。


元譲げんじょう殿がこんなに怒ってるのは珍しいですね。この方は私が今よりも愛くるしかった子供の頃でさえ、戦場をうろついていてもそこで死んだらお前の自己責任だからなみたいに放任してたのに」


「いや、それには訳があるんだ」


 笑いながら、曹操が言った。


「訳?」

「こいつが、お前が死ぬかもしれんとか言うから悪い」

 夏侯惇が嫌そうに顔を顰めている。

 郭嘉は思わず曹操を見たが、曹操は酒の肴に手を伸ばしつつ穏やかな表情で笑っていた。


「ある日なんの脈絡もなく、そんなことを言ったんだ。

 気にするなと言う方が無理だろ。

 お前が死病に掛かった時は気が気でないという表情をしていたのに、あの時は落ち着き払ってそんなことを言った」


「何かそう思われる理由があったんですか?」


「いや。そう思うには前段階があってな。それより前にこいつが俺に、長安ちょうあんに来た時郭嘉の様子が少し変じゃなかったか、などと言って来たんだよ」


 今度は夏侯惇の方を見る。

 すると夏侯惇は変な言いがかりを付けられたような顔をして、憮然として言い返した。


「俺は単に変じゃなかったかと尋ねただけだろ。お前みたいに不安を煽るようなことは言ってない」

「お前のように日々野生の勘だけで生きてる奴が珍しく『変じゃなかったか』などと聞いて来たらバカでも気にするわ」

「誰が野生の勘で生きてる生物だ孟徳。人をイノシシか熊みたいな言い方するな」


元譲げんじょう殿が『気になる』なんて言ったらそれは気にしますよ」

 聞いていた郭嘉が笑って言った。


「ああ?」

「気にするよな?」

「貴方大抵のことは無関心ですからね。そういう中で貴方が特別気に留めたものがあれば、曹操殿だって気に留めますよ」

「なんだお前ら二人揃って人を疫病神か何かのように言って来て……」


「お前は本来勘は鋭い。それを的確に言葉で伝える術は全く持っておらんが。

 よくよく考えてみると戦場では何でも起こり得る。

 俺は確かに郭嘉の涼州遠征には何の不安も持っていなかった。

 こいつが戻って来ると微塵も疑いなく考えていたんだ。

 それが元譲の一言で、いかに死病から舞い戻っても、郭嘉も死ぬ時は死ぬ、そういう状況に戻ったのだと自覚を得たわけだ。


 しかし長安ちょうあんで見たお前は、戦場に戻れることに歓喜しているのは分かったからな。

 これで死んだとしても悔いはあるまいと思ったのだ。

 元譲お前は郭嘉が死ぬ可能性があると考えていたか?」


 憮然とした表情のまま腕を組み、夏侯惇はそっぽを向く。


「いない。」


「ほら見ろ。無責任なのはこいつの方だ。勝手に人の不安を煽っておいて、後のことは全部俺に考えさせる。こいつは昔からこうだ」

「何を言う。俺とお前なら昔からお前の方が考えるの担当だろ。今更信じられないみたいなことを抜かすな。ずっとそういう分担でやって来ただろうが」


 言い合ってる曹操と夏侯惇を、頬杖を突いたまま交互に見遣っていた郭嘉は、不意に笑い始めた。


「しかしそうですか……まあ夏侯惇将軍の助言があったとはいえ。

 私の死を予期するとはさすが殿。やはり貴方は怖いなぁ」


 彼は楽しそうにそう言ってから、涼州遠征前に曹操から貰った護剣を改めて取り出し、卓の上に置いた。


「曹操殿からはよく贈り物を頂きますが。

 貴方が武器を下さることは少ない。これで二度目です。

 これを持って来た文若ぶんじゃく殿、公達こうたつ殿から預かった時、心密かに少し驚きました。

 暗殺者を必ずこの涼州遠征で始末してやろうと思っていましたからね。

 誰にも気取られてないはずのそのことを、言い当てられたような気がして。

 本当にたまたまだったのですか?」


「間違いなくたまたまだ」


 曹操が笑いながら酒を注ぎ、郭嘉の方に出した。

 一瞬自然な動作過ぎて見逃しかけた夏侯惇が、嬉しそうに受け取ろうとした郭嘉から寸前で杯を奪い取った。

 残念そうに唇を尖らせた郭嘉はすぐに、表情を明るくする。


「たまたまですか。貴方がそう言うのならそうなのでしょうが。

 さすがですね。

 私は敵がどういう風に出て来るかがまだ予測出来ないため、討ち取ってやろうとは思っていても、何をどうするかはあの時は全く頭にまだ浮かんでいませんでした。しかし護剣を頂いたことで敵がどんな風に出て来ようとも、最終的にはあの剣で必ず殺してやろうと思い立ったのです」


 声を出して曹操が笑っている。

 急に集まったというのに、卓には色とりどりの食事が並べられていた。

 色とりどりの食事、

 様々な土地の酒。

 鮮やかな才を放つ、人々。


 曹操の周囲には昔から、多彩な色が集っていた。

 幼い郭嘉はその色鮮やかさに惹かれた。


「下らぬ感傷に囚われるな郭嘉。そうやってつまらんことに己を縛り付けることで死期を早めるぞ」


 郭嘉の直感は鋭く、豊かなものだ。

 どんな敵が現れようと郭嘉は対応し、討ち取って帰還するという確信が曹操にはある。


 しかし久方ぶりに何となくの気分で与えた己の護剣に郭嘉がこだわり、敵の前で剣で殺すことにこだわり、それが隙になって討ち取られたら自分の気まぐれを生涯呪って過ごさなくてはなくなる。



「お前は何ものにも縛られず、己の感覚だけで敵と相対しろ。

 その上での死がお前に与えられるならば、俺も悔いはない」



 愚かな隙を呼び込む。

 だが言いながらも曹操は、聡明な郭嘉が時折見せるこうした、らしくない純朴な感性を失ってない様を見るたびに、その稀なる才気の宿る器を愛するのだと思った。


 そしてそれこそが死病に倒れた時、いくら医者をやろうとしても、見舞おうとしても「弱り果てた姿を見せたくない」などと郭嘉に言わせた理由でもあり、そういう部分があるから輝くような才があってもこの男を妬み、忌々しく思えないのだと思う。


「これからは心に留め置きます」


 郭嘉は曹操に拱手きょうしゅした。


「しかし殿、元譲げんじょう殿も。ご心配には及びません。

 自分を敢えて刃の前に晒すような真似はこれで最後です」


 ふん、と微笑んだ郭嘉を夏侯惇は睨み付けた。


「その言葉、信じることが出来たらこちらも気が楽なのだがな」

「いつから将軍はそんなに人を信じなくなったのですか」


 郭嘉が笑いながら隣にようやく胡座を掻いた夏侯惇に酒を注ぐ。

 不満げだがさっきまであった怒気はすっかり失せている。

 昔は怒鳴られたり殴られたりよくしたのに、いつしか夏侯惇は自分を怒らなくなった。


 怒ったとしても最後には、こうして何もかも許すようになったのだ。


「たったついさっきからだ。病で人をどれだけ心配させたと思ってる。その上に自ら囮など、俺達の心配を舐めているではないか」

「あーあ。文若ぶんじゃく殿を連れてくれば良かったなあ。殿には叱られるかもしれないと思ったけど元譲殿にまさかこんなに怒られるとは思わなかった」

「俺は別に全く怒っておらん」

荀彧じゅんいくが今更長安ちょうあんなんぞに来るか!」


「ほっとけ。元譲はこんな苛立ち一晩寝たらすぐ忘れる。

 それで……深手を負ったから今回戻って来たのか?」


「療養は兼ねていますが、それだけではありません。

 涼州の戦線は涼州騎馬隊が蜀に入ったことで一応の落ち着きは見せ、今は祁山きざん築城が主な仕事になりました。私は無用かと。

 司馬仲達しばちゅうたつもじき許都きょとに一度戻るとのことですし」


賈詡かくはどうした」


「賈詡も戻るそうですが、一度蜀の方を見に行くそうですよ。

 私はあの人にぜひ諸葛亮しょかつりょうを見て来てくれとねだっておきました」


「いかにあいつが狡猾でもそんなとこまで潜り込めるか」

「いいんですよ。賈詡は負けず嫌いなので達成の難しいことを頼んだ方が、こちらが得をします。出来なくても別に私に損はないわけですし。嫌味も言える」


「賈詡を気に入ったようだな、郭嘉」


「そうでもないですよ。あの男は誰にも心を開かないので深くは信用出来ません。

 まあただ今更賈詡は他の国に逃亡したりはしませんしね。あいつは計算は出来る。

 私一人を裏切っても曹魏を裏切ることはない。私もそうです。

 賈詡のことは平気で裏切りますが、曹魏の害になることまではしません。

 それは向こうも理解している。上手くはやって行けますよ」


「俺のいるところにあいつは呼ぶなよ。

 あのツラを見てると典韋てんいが死んだ時のことを思い出して、どうしても腸が煮えくり返って来る」


司馬懿しばいをどう見た?」


 不貞腐れていた夏侯惇は曹操が郭嘉に尋ねると、その時だけは視線を隣の郭嘉にやった。

 郭嘉は軽く頬杖を付いた姿で数秒考えたが、頷き答える。


「少しは見えて来たものがあります。

 賈詡より向こうは余程手強い。

 ただ……なかなか面白い人物ですね」


 ほう、と曹操は目を瞬かせた。


「気に入ったか」


「いえ。気に入ったとは違います。ただ面白い。

 彼の用兵は少し貴方に似ています、殿。

 動かない時は亀のように動きませんが、動き出すと少しも時間を無駄にはしない。

 じっと部屋に籠もっていても、あれは動き続けている男です。 

 曹丕そうひ殿下への忠義は堅いと見えますが、時折予測出来ない動きも見せる」


「例えばどういうことだ?」


「感情があります。曹操殿からの命令を辞した時は感情が見えなかった。

 冷徹な男なのかと思っていましたが、もっと実際には感情がある。

 涼州遠征は私の一件もありましたが【烏桓六道うがんりくどう】に唆されて、涼州騎馬隊も予測出来ない動きを見せた。

 あの男は終始冷静に状況を見極め、私と張遼ちょうりょう将軍が意識不明になった時、少しも狼狽は見せなかった。賈詡の方が泡を吹いていましたよ。

 しかし大局では揺るぎませんが、案外些細なことに気を取られることはあるのかも。

 殿の魏公ぎこう就任を、最後まで許容出来なかった文若ぶんじゃく殿のように、何か司馬仲達しばちゅうたつの中にも他者に触れられることを拒むような領域があるのは感じました」


「そうか。俺が見定めたのは前半までだ。

 後半の顔は、まだ見たことはない」


「あの男はまだ十分の一も自分を語ってないですよ。

 しかし私は興味は持ちました。秀才揃いの司馬家の八人の中で、殿が一番興味を持った理由が、今は少し分かります。

 今回は私の本題は司馬仲達ではなかったのであまり探りは入れませんでしたが、これから色々分かって来るでしょう」


 曹操は頷いた。

 空いた杯に郭嘉が酒を注ぐ。


「少しくらい飲ませてください。元譲げんじょう殿。

 私はこれから江陵こうりょうに行くんです」


「江陵に?」


 決して意外な地名という訳では無かったが、曹操は聞き返した。

 郭嘉は頷く。

「そのために司馬仲達が一足早く長安ちょうあんへの帰還を許可しました」

司馬懿しばいの命令なのか?」

「いえ、半分半分というところです」

「なんだそれは」


「あらかた態勢が整った涼州から私を江陵に送り込むことを決めたのは司馬仲達ですが、命じられなくとも私は江陵行きを提案したと思うので。

 曹丕そうひ殿の戴冠がこのまま行けば春の見通しですが、その前に江陵を見て来たいので、行ってきます」


「行ってきますってお前……」


「今あの地は拮抗していますから軍事行動はまだ起こせません。

 先んじて私個人としてあの地を見て来ます。

 司馬仲達も江陵には興味を持っていましたが、私の江陵行きを許可した。

 彼は、ああいう所は非常に冷静だ」


「私個人って……護衛は」


「二人ほど。司馬仲達しばちゅうたつの副官に一人優秀なのがいたので、それを連れて行きます」

「二人って正気かお前。ふざけるな! おい孟徳もうとく、明日から俺はお前の護衛はしばし休職する! この小僧を監視しなければならんからな!」

「別に俺の方は構わんが……」

 曹操が笑っている。


夏侯惇かこうとん将軍が私の護衛を買って出て下さるなんて豪勢だなあ。本当に付いて来てくれるんですか?」


「当たり前だ何考えてる。江陵はこれからの大陸の情勢を占う、三国が奪い合う地だ。

 お前のような小僧がフラリと行ってみろ、方々から罠を掛けられ生け捕りになるわ。

 俺は嫌だぞ。お前が敵の手に落ちたのを頼むから救ってやってくれとか荀家の二人に揃って左と右からツラツラと説得されるのは」


 その様を想像したのか、郭嘉が声を出して笑っている。


「貴方が殿の側を離れて戦場に来てくれるなんてとても珍しいから面白そうだけど、貴方は目立ち過ぎるから駄目ですよ。隠密行動だって言ったでしょ」

「お前に目立ち過ぎるとか文句言われる筋合いはない。俺は隻眼を除けば普通だ」


「ところが涼州遠征に行って気付いたんですよね。

 殿。私は案外、蜀にも呉にも顔を知られていないようなのです。

 殿の側には小さい頃から張り付いていましたし、まあ何回か指揮も執ったことありますが、そのあと重病で間が空いて案外病没したと思われているらしくて。

 司馬懿殿にも話してきましたが、私は当分、位などもらわず身軽に動き回ろうかと。

 病み上がりで大陸の情勢からも随分疎くなりましたし、自分の目で見て回りたい」


「確かに他国にお前はまだ知られていないかもな」


「そうなんですよ。この際それを利用しようと思って。

 ほら今、曹丕そうひ殿下の側の軍師といえば司馬仲達殿のことを誰しもが思い浮かべる。

 そのおかげで彼が動き回れば注目されますが、私には誰も注目しないので非常に動きやすいのが気に入りました」


「お前その説明司馬懿にもしただろ」

「勿論しました。数人の手勢で行くって言ったら『馬鹿じゃないのか』って言われましたよ」


 夏侯惇が顔を顰める。

「…………司馬懿の方が正論だ」


「とにかくもう決めたので。今は馬にまだ乗れないので、まあ一月くらいは長安で療養後、年内のうちに江陵に向かいます」

「考え直せ郭嘉。江陵は手勢に探らせて、せめて完全に春まで療養しろ」

「春は戦況が動きます。先んじて自分の目で見ておかなければ、呉に先手を打たれる」


 呉、と明確に郭嘉は言った。


「魏軍が涼州に侵攻しても、蜀は動きませんでした。

 呉蜀同盟が決裂した動揺は蜀の方が大きいということです。

 北か、東か、あの国は自分でそれを決められない。

 周公瑾しゅうこうきんが生きていれば大敗した魏と、次の手に迷う蜀の情勢を見抜いて赤壁せきへきの勢いのまま一秒も無駄にせず江陵まで兵を自ら引いて出て来ていたはず。

 つまりこの時期江陵が手つかずで置かれているのは奇跡的なことです。

 本来そういう機会は失われていた。これを無駄には出来ません」


「……言いたいことは分かったが、別に小隊を率いて行くわけではないのなら俺がいたって別にいいだろう。俺がポツっと江陵に一人立ってても、あれが夏侯惇だなどと気付く奴はいない」


「そうかなあ。妙才みょうさい殿だって同じこと言って、長江のほとりで村人に化けて釣りしてたけど敵にバレて追いかけ回されたって聞きましたよ」

「あいつは笑い声がデカくて特徴あるからどこに行ってもすぐバレるんだ。俺は普通だ。目立たんぞ」


「自分を普通だと思ってるところがすごいよね」


「もう良い、元譲げんじょう。今回はこいつの好きにさせてやれ。

 お前は郭嘉の小さい頃から知ってるから、お前が側にいると親父連れで偵察に行ってるような気分になって落ち着かないんだろう」


「誰が親父だ」


 郭嘉が吹き出す。

「確かに元譲殿を待たせて人妻に声とかはなんか掛けにくいかもなあ。まあ余程美しい人ならそれでも私は掛けますけども」

「護衛は。腕は立つのだろうな」

「司馬懿殿の腹心の副官で、陸伯言りくはくげんという青年です。

 若いですが腕が立つ。司馬懿殿は子飼いの諜報部隊を持ってるので、そこで鍛え上げた一人かもしれません。

 しかし涼州遠征で張遼ちょうりょう将軍の側でも補佐として働いていましたが、邪険にはされていませんでした」


「ほう、張遼に邪魔に思われないとは余程だな」


「はい。なのでご心配なく。彼ともう一人連れて行きますが、とにかく目立つ行動は今回控えますし長らくの滞在にはしませんから」


 ようやく諦めたのか、夏侯惇は深く溜息をついた。

「……腹の傷は。治りはどれくらいなんだ」

「最近血の味がしなくなりました」

 郭嘉が笑いながら答えると、夏侯惇が片手で顔を覆った。



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