第4話



江陵こうりょうだ」



「うん?」


郭嘉かくかなら、涼州ではなく江陵に興味を示したはずだ。

 どうしてあいつは涼州に行ったんだ」


 手摺りに腰掛けている曹操そうそう夏侯惇かこうとんを見上げる。

 一瞬明るい光が瞳に宿り、腑に落ちたような顔を見せた。


「そうか。これだから今日は朝から気分が良かったのか。

 何かが起こりそうな気がしていたんだ。

 元譲げんじょう

 今日の天啓はお前が連れて来たようだな」


「ああ?」


 楽しそうに返され、意味が分からなかった夏侯惇が眉を顰めたとき。


 ふっ、と彼の右の視界の影に、何かが過った。


 それは女衣の優雅な動きに見え、気の立っていた夏侯惇は一瞬苛立ちを感じて、今は女の面倒など見ている暇は無い、場合によっては今日着の身着のままでも涼州に単騎で駆け出し、郭嘉を引きずって戻って来る心づもりもあった彼は、積み重なったままの涼州からの報告を、今から見に行こうと曹操に言いかけた。


 睨み一つで女に今は近づいて来るなと圧を与えるつもりだった夏侯惇は、唯一の目でそちらを見遣り、すぐ息を飲んだ。


 ごく淡く色づいた氷色の凛々しい漢服に、唯一、女衣に合わせるような暁色の長い帯を揺らしながら、下階の回廊を曲がり、緩やかな階段の続くこちらへ上がって来る。

 彼は久方ぶりの長安ちょうあん宮の美しい水の庭園を眺めながらやって来たようだが、回廊の途中で話し込んでいる二人を見つけると、そこで立ち止まり目を輝かせた。

 明るく笑んでからその場で身を正し、美しい所作で拱手きょうしゅをする。


 ――いつものように。




「郭嘉!」




 夏侯惇は慌ててその場から駆け出すと、優雅に立ったままの郭嘉の許に瞬く間に下りていって、身体を抱き寄せた。


「本当にお前か、驚いたぞ!」


 長い付き合いだが初めて見るくらいの歓迎をされ、郭嘉は声を出して笑う。


「どうしたんですか。夏侯惇将軍。冷静な貴方らしくない。

 私をどなたか意中の女性と勘違いされたんですか?」


「今お前の話を丁度していたんだ、それで……。本当にお前なのか。死んで化けて出たのではないだろうな⁉」


 夏侯惇は確かめるように、嬉しそうな顔で郭嘉の肩をまだ叩いている。

 足音が近づいて来た。


「郭嘉。無事に帰って来たか」


 夏侯惇の腕に収まったまま、郭嘉は嬉しそうに笑った。


「殿!」


 曹操の身分がどうなろうと、この呼び方が昔と変わらないのは、この世で三人だけだった。

 夏侯惇、夏侯淵かこうえん、そして郭嘉である。

 荀彧じゅんいくは曹操が魏王ぎおうに就任してからは、呼び方を「陛下」と改めるようになった。


 夏侯従兄弟かこうきょうだいは曹操とは親類でもあるので、変わらない呼び方も納得が出来る。


 しかし郭嘉は他人だ。


 だが曹操は幼い頃から、年端もいかない少年だったこの友を、

 まるで自分の半身のように近く感じることがあった。



「誉めてください」



 郭嘉は夏侯惇の腕から抜け出し、懐から護剣を取り出すと、曹操に向けて掲げてからその場に膝をついた。




「殿が与えて下さったこの護剣で、私の命を狙う者を完全に討ち取ってやりました!」




 数秒の沈黙が流れて、ぶわははははっと無遠慮に吹き出して笑ったのは曹操である。


 顔を上げる前に、郭嘉は胸倉を凄まじい力で掴まれ、跪いた体勢を引き上げられていた。

 目の前には数秒前、涙を流すんじゃないかというほど感極まって自分の帰還を喜んでくれたはずの人物が鬼の形相の隻眼で、こちらを見据えて睨み付けて来る顔があった。



「なにい?」



 夏侯惇は低い、恐ろしいほどの怒りで満ちた声で返して来る。

 武勇秀でた長身の、大将軍の腕力で胸倉を思い切り掴み上げられた郭嘉は、難なく足が床から離れた。



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