第6話


 夏侯惇かこうとん江陵こうりょう行きを許可したが、当分城で宮廷医師に見て貰いながら療養することを命じた。断るのも面倒臭かったので「いいですよ」と郭嘉かくかは軽く答える。私邸に帰るつもりだったのだが、報せを送れば事が済む。

 郭嘉は居場所などに拘らない性格だった。

 彼の寝所は王宮の中にある、北の離宮の屋敷が整えられた。


 お前のことだ寝酒をしそうだから監視すると夏侯惇が今日は付いて来た。

 明日からは医師が来る。


 機嫌はまだ直らないらしく、随分先を一人で離宮に向かって夏侯惇は歩いていた。

 怒ってる背中が面白かったので、郭嘉は好きにさせた。曹操そうそうもそうらしい。


 星が瞬いている。


 庭園の回廊を、わざわざ見送りに来た曹操と一緒に歩く。


 ずっと暗殺者の気配が忘れられなかった。

 しかし討ち取ったことで、郭嘉は自分の命が狙われていると勘付いた日から、初めて、今は自由であることを感じた。

 

 ただ曹操の隣で、共に星を見上げていられる。

 まるで子供の頃に戻ったようだ。


 郭嘉は嬉しかった。


「殿」


「うん?」


 そこに来るまではご家族はお元気ですかとか、あの方とは最近会ってますかとか、そんな他愛のない話をしつつやって来たが、郭嘉は改めて隣の曹操に声を掛けた。


「まだ大陸の情勢はどうなっていくかは不透明ですが、私はどうしてもいずれ魏軍に一度長江ちょうこうを南に渡らせたいと思っています」


 曹操がこちらを見る。


「蜀は、良くも悪くも劉備りゅうびの国です。

 劉備が死んだ後は衰えるばかりになるでしょう。

 漢王室の復興など、もはや大陸の誰も望んでいません。

 漢王室の復興と天下平定は全く別のものです。

 劉備は時勢を読まず、未だに初心に掲げたままそれを結びつけている。

 先はもはや見えています。


 孫呉は長江という確かな守りがある限り、民は安んじているはず。

 一度そこを越え、長江という守りに見放されたと南の豪族や民が感じた時、孫権そんけんがどこまで彼らを守れるかそれを見てみたい。

 勿論、無辜むこの民を悪戯に殺めたり、みだりに土地を荒らすのが目的ではありませんが、火種を江南こうなんに持ち込み、その火消しをどのように孫権がさせるか手腕を見たいのです。

 

 私は周公瑾しゅうこうきんを評価しています。

 呉は彼の国だ。

 実力があり、民に心を強く寄せられ、苦難にも揺るがないのなら、魏と呉を分け隔てる長江の宿命を私は受け入れてもいい。

 だがそのためには周瑜しゅうゆを失っても尚、孫呉の根幹が腐っていかないものなのかは見定めなくては。

 孫権が愚かな君主なら、江東こうとうの地に安息は訪れない。


 ――曹魏こそが天下を平定すべきです。


 今回江陵こうりょうへ行き、長江のほとりを広く見て来ます。

 そこに住まう人々の心がどこにあるのか、暮らしぶりを。

 付け入る隙があるのかどうかはこの目で見ないと分からない。

 合肥がっぴ廬江ろこう域の民にとって、どのような意味合いを持つのかも」


 郭嘉がこんな風にぶわと喋ると、大概の人間は圧倒され、目を丸くして呆気に取られるのに、曹操だけは昔から楽し気に目を輝かせて全部受け止めてくれる。


 今もそうだった。何も変わらない。


「そうか。司馬懿しばいには話したのか?」


「いえ。まだ漠然としているため、誰にも話していません。

 ただ重篤だった張遼ちょうりょう将軍が目覚めた時、珍しく話をしようと呼ばれたので、その時に自然と、いつか一度は魏軍を長江の南に送り込みたいと話しました」


 ほう、と曹操は目を瞬かせ腕を組んだ。

 張遼が郭嘉を呼び出すなど非常に珍しいことだ。

 あの男は平時、軍師と語らうことを好むような性格をしていない。


「張遼がお前を呼び出すとは珍しいな」

「私もそう思いましたが【烏桓六道うがんりくどう】を誘い出したことを聞いたらしく、軍を私的な問題に巻き込むなとのお叱りかと」


「説教されたのか?」

 おかしそうに尋ねて来る。


「いえ。あまり無謀なことはするなと一言。傷を気遣って頂いただけです。

 説教は賈詡かくの方が五月蠅かった」


「張遼に『魏軍に長江を越えさせたい』と話したのか?

 お前は全く、恐れを知らんな。

 呆れられただろう」


「否とも応とも言われませんでしたが、目が輝いていましたよ」

 郭嘉が笑った。





「殿! やはりあの人は毛色が違います」




 張遼を捕らえた時、お前を官渡の戦いで使うつもりだと伝えた時、困惑した表情を浮かべていたのをよく覚えている。

 だが具体的にどういう働きをしてもらうつもりだと話しているうちに、寡黙な男の瞳の奥に、隠しきれない炎が浮かんで来たのを見たのだ。

 

 呂布りょふの目の中にも、

 陳宮ちんきゅうの目の中にも無かったものだ。


 張遼だけは何かが違うと曹操も思った。

 

 口には出さなかった。

 口に出してもし張遼が自刃したら、自分が先を読めない惨めな人間になる気がしたからだ。

 曹操が口に出さなかったことを、幼い子供だった郭嘉が口にした。


 呂布にも陳宮にも興味を示さなかったのに、郭嘉は張遼を捕らえたと耳にすると、見てみたいとたちまち目を輝かせたのだ。



孫仲謀そんちゅうぼうはお前の期待に応えるかな?」



「分かりません。でも応えても応えなくても、どちらでもいい気がしています。

 孫権そんけんが応えなかったら、次に吹き出して来るものが見たい。

 命を懸けて、周瑜しゅうゆ赤壁せきへきに出て来た。

 蜀との同盟を、戦の最中にすでに断ち切っていた。

 江陵こうりょうを完全に支配するためです。

 蜀の劉備は死んだらそれ以上のものはない。

 呉は周瑜が死んでも、孫権が死んでも、まだ生まれ出て来るものがあるかも。

 ――周公瑾しゅうこうきんも、孫文台そんぶんだいの『こども』の一人ですからね」



 楽しげに、郭嘉の声が響いた。

 

 不思議なものだ。

 今になって幼い頃の郭嘉が自分について回って、戦場にまで着いて来て何をあんなに嬉しそうに、楽しそうにしていたか何となく分かるようになった。

 多分自分の側にいると、幼い郭嘉はこういう気持ちにさせられたのだろう。


 星が美しい。

 今までも見ていたのに、今初めてそれに本当に気付いたような気がする。


 もう人生の歩みが六十年になる。

 それでも郭嘉の言葉を聞いていると、子供のように胸が躍る。


 曹丕そうひにこの感覚が理解出来るだろうか?

 

 それは分からなかった。


 先を行っていた夏侯惇かこうとんが、あまりにも二人が立ち止まって話しているので仕方なく戻って来る。


「お前らそんなところで立ち話をするな。

 この冬の寒空の下で一体いつまで突っ立ってるつもりだ。

 話なら屋敷の中で火の側でやれ」


「こいつを連れて行かないで正解だぞ郭嘉。連れて行ってこんな四六時中母親のように説教されていたら気鬱になる」


「うるさいわ。どう考えてもお前も郭嘉も母親に説教されて気鬱になるような繊細な輩じゃないだろうが」


 早く来いと魏王ぎおうの首根っこを無遠慮に掴むと、夏侯惇はのしのしと回廊を歩き出した。

 

 変わらないなあ、あの二人はと郭嘉は笑いながら、美しい夜の長安ちょうあん宮の庭園を見下ろした。


 風が通り抜ける。

 星が美しく瞬く。


 小さい頃から心が流浪して、家族や家が自分の居場所にならなかった。


 特別、帰らなければならない場所などないと思って生きて来たけれど。

 涼州にあった死線を生き延びて長安に帰って来た今、

 曹操の顔を見て、話して。



 郭嘉は帰って来たのだ、と心の底から実感した。



【終】

 

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花天月地【第103話 帰る場所】 七海ポルカ @reeeeeen13

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