第8話 二人の国王
『ノア! 逃げなさい!』
『キャアアア!?』
『父さん、母さん!』
自分が両親を呼ぶ絶叫でノアは目を覚ます。全身は寝衣が濡れるほど汗をかいており、目を開いた瞬間に、涙が流れていった。ノアの枕の周りにはベゴニアの花と蕾が落ちている。ノアはベゴニアの蕾を一つ手に取ると、大きく息を吐いた。
クレーア城に来て大分経つというのに、まだあの頃の夢を見る。イヴァンがリリス村に押し寄せてきて、ノアの両親を殺めた夢。
どんなに忘れたいと願っても、決して色褪せることのないあの日の記憶。思い出すだけでも吐き気を催すほどだ。
「もう嫌だ、こんな夢ばかり」
ノアは手に取ったベゴニアの蕾を床に投げつける。
昨夜も夜遅く疲れた顔をしながらも、ノアの元へとやってきてくれたイヴァン。まだ体調が万全ではないノアを心の底から気遣ってくれた。
トライフルだって国王陛下のプライドさえも捨てて受け入れてくれたし、あんなに優しく抱いてくれた——。そんなイヴァンを見ていると、自分がどれほど大切にされているのかなんて嫌でも伝わってくる。
しかし、夢の中のイヴァンは冷たい笑みを浮かべながら両親を殺めてしまう。それはまるで、殺人を犯すことを何とも感じていないようにさえ思えてしまう。
更にイヴァンは家来の前ではノアに冷たく接してくるが、二人きりの時はひどく優しい。それが更にノアを混乱させる。
初めてイヴァンに抱かれた日のことを思い出すだけで、今でも頬が熱くなる。あの時のイヴァンは、本当に自分のことを慈しんでくれた。だからこそ、初めてにも関わらずあんなにも快感を得てしまったのだろう。
そして、何度も「愛している」と囁いてくれたことが、ノアはとても嬉しかった。
「一体どちらが本当のイヴァンなんだろう……」
ノアは何度も自分に問いかけ続ける。
しかし、何度自分に問いかけたところで、答えなど出るはずがない。それがノアの心をかき乱していく。胸が痛くてはち切れそうだった。
「ノア様、おはようございます。体調はいかがでしょうか?」
「あ、おはようございます」
ノアは不思議に思いながら、毎朝診察にやってくる医師の背後に意識を向ける。いつもなら医師と共にイヴァンがやって来て、診察に付き添ってくれるのだが、イヴァンの姿が今日は見当たらなかった。
「あぁ、国王陛下でございますか? 今日は公務があるようで来ることができないとのことでした」
「公務? 一体どんな公務なんだ?」
イヴァンは過保護で独占欲の強い花食みだ。ノアの診察の時にやってこないなんて、余程何かがあるのだろう。ふと心配になったノアは、医師の白衣を引っ張った。
「なぁ、どんな公務か教えてくれよ」
「ノア様は知らなくてもよいことです。それより、ゆっくり療養されてくださいね」
「なんで教えてくれないんだよ。ケチだなぁ」
「何と言われても構いません。あぁ、そうだ。花を生み出すための栄養剤だけは必ず飲んでくださいね」
ノアの質問に答えようとしない医師の態度が面白くなかったノアは、ベッドから勢いよく立ち上がった。
「教えてくれるまで、栄養剤も薬も飲まないからな!」
「ノア様、なんてことを……!?」
「そんなことになったら、あんたは困るだろう? だったら教えてよ。教えてくれたら大人しく栄養剤も薬も飲むから」
「はぁ……。仕方がないですねぇ。私はこんなにも気の強い花生みは初めて見ましたよ。花生みとは元来おしとやかで……」
「いいから早く教えてよ!」
医師は大きくため息をついてから、渋々と話し始めた。
「昨日、収穫した小麦と、ノア様のベゴニアの花を狙った隣国の者が、城に侵入してきたのです」
「隣国の……?」
「はい。ノア様のベゴニアの花のことは隣国にも知れ渡っているため、花を盗みに来たのでしょう。その者たちに刑罰を与えているのだと思われます」
「刑罰……」
表情を曇らせる医師の言葉に、ノアは眉を顰める。刑罰とは一体どんなことをするのだろうか? ノアには全く想像なんてつかなかった。
「刑罰って、一体どんなことをするんだ?」
「恐らく、これから隣国との戦争が始まります。その見せしめのために、公開処刑を行っているのかもしれませんね。本当に恐ろしいことです」
「戦争……。公開処刑……」
ノアは医師の言葉を心の中で何度も繰り返し呟く。これから戦争が始まるため、隣国の人々に罪人の処刑を見せしめとして行なうかもしれない、ということだ。
「……やっぱり、国王陛下は人の命を奪うんだな」
「ノア様、どうされました? 顔が真っ青ですよ?」
「いや、大丈夫。なんでもない」
口では強がってみたものの、頭の中がぐちゃぐちゃになり、眩暈がしてきた。うまく呼吸ができなくて、息苦しい。立っていられなくなったノアは、再びベッドに座り込んだ。
医師が出て行った後、ガチャリと箱庭の鍵を閉める音が鼓膜に響く。その無機質な音に、ノアの胸は締めつけられた。
「人を殺す……。国王陛下は、やっぱりそういう人なんだろうか」
優しいイヴァンの笑顔が頭を過る。ノアの前ではいつも優しい微笑みを浮かべ、自分のことを大切にしてくれる。そんなイヴァンが、国同士の戦争の真っ只中とは言え、見せしめで人を殺めるなんて……。
「どっちが本当のイヴァンなんだ」
ノアは両手で顔を覆い泣いた。ノアの瞳から涙がこぼれ落ちる度に目に強い痛みを感じるが、今はそれ以上に心のほうが痛い。
ノアの涙から生まれたベゴニアが、床にポトリと落ちる。
イヴァンのことを思えば、心が張りさけそうに痛んだ。ノアは声を押し殺して、ひとりでただ泣き続けていた。
◇◆◇◆
「今日は国王陛下もアッシュも忙しそうだね」
「はい。もしかしたら隣国と戦争になるかもしれません。ノア様も十分にお気を付けください。今、どこの国も不作が続き、食料不足に陥っているようですから。ノア様のおかげで食糧難を脱したこの城を制圧しようと、攻め入ってくるかもしれません」
「そうなんだ……。隣国には花生みはいないのか?」
「どこの国にも有能な花生みはおります。わが国では、ノア様がいらっしゃる前まではソフィアがその役割を果たしておりました。しかし、ノア様ほど力を持った花生みはなかなかいないでしょうね」
午後になりようやくノアの元を訪れてくれたアッシュに、ノアはスープ皿程度の大きさの陶器に入ったベゴニアの花を手渡した。
「ごめん。最近、また花を生み出せなくなっちゃって。ほんの少しだけで申し訳ない」
アッシュに向かい頭を下げると、まるでノアを励ますように肩を叩いてくれた。
「陛下からも無理はさせないように——と言われています。これだけベゴニアの花があれば、きっとたくさんの野菜が収穫できるはずです」
「そっか。よかった、俺も誰かの役に立ててるなら」
「いつもありがとうございます」
アッシュが時々見せる笑顔に、ノアは拍子抜けしてしまう。普段は仏頂面のくせに、アッシュの笑みはひどく優しい。ノアはなんだか嬉しくなってしまった。
「あのさ……」
「はい、なんでしょう?」
今日、なんかあったんだろう? とアッシュに問いかけてみたかったけれど、ノアはその言葉を呑み込む。真実を知ることが怖く感じられたのだ。
「もし戦争になったら、国王陛下もアッシュも戦地に出向くんだろう?」
ノアの問いかけにアッシュが一瞬顔を引き攣らせたが、すぐにいつものポーカーフェイスに戻ってしまう。
「はい。私の使命は陛下の傍で、あのお方をお守りすることですから」
「そうか。じゃあ、戦地にはたくさんの血が流れるんだね」
「まぁ、恐らくは……」
「そっか……」
アッシュの言葉を聞いたノアは俯く。これ以上、イヴァンに人の命を奪ってほしくなんてない。彼にはいつも笑っていてほしいから——。
しかし一国の主が高みの見物、なんてできるはずがない。恐らく軍隊の最前線に立ち、命を懸けて戦うのだろう。その姿は獅子のように逞しく、勇ましいに違いない。
「でも、やっぱり嫌だ」
ノアは唇を噛み締めながら俯いた。
「それから、これから先、陛下は更にお忙しくなるので、
「え? あぁ、まぁ……そうだよな……。戦争が起こるかもっていうときに、俺の所に来ている暇なんてないよな」
「それでも、陛下はいつも貴方のことを気にかけてらっしゃいますよ」
「え? 本当か?」
「ふっ。やけに嬉しそうですね」
「別にそんなわけじゃあ……」
ノアが不貞腐れた顔をすると、アッシュが少しだけ頬を緩めてから、そっとノアの肩を叩く。
「陛下が来られないうちは、私が様子を見にくるようにしますから」
「でもアッシュだって忙しいだろう?」
「しかし、貴方を放っておくのも気にかかります。またいつ、箱庭から勝手に出てしまうか、わかりませんからね」
「ひでぇ……」
「ではノア様、くれぐれも勝手に箱庭から出ないようお願いしますね」
「わかってる」
そう言い残し、アッシュは箱庭を去ってしまう。勝手に出ていくも何も、鍵がかかっているのだから、ノアの意思で出ていけるはずなどないのだ。
やることもないノアは、ただ室内の花を見て回ったり、窓から外を眺める以外に暇をつぶす方法なんてない。そんなときにふと、イヴァンの顔が頭を過る。
「会いたいな……」
無意識に呟いてしまった自分自身の言葉に、ノアの顔は真っ赤になっていく。イヴァンに会えないことが寂しいと感じていることを、認めることには抵抗があるのだ。
しかし、しばらくイヴァンに会えなくなると思うと、余計寂しい思いが募ってくるのを感じる。
「なんなんだよ、これは……」
ノアは頭を掻きむしった後、気分転換に箱庭の中を散歩することにした。
アッシュの言う通り、イヴァンは夜になってもノアの元を訪れることはなくなった。
「別に、国王陛下のことを待っているわけじゃない」と自分に言い聞かせてみるものの、小さな物音がしただけで「もしかしたら国王陛下が来てくれたのかもしれない」とベッドから飛び起きてしまう。おかげで寝不足の毎日が続いていた。
ノアは以前のように花を生み出すことができない状態が続いていたが、イヴァンとのタッピングがなくなったせいか、更に花を生み出すことができなくなってしまっていた。
「ダルメアの神よ、どうかご加護を……」
箱庭にあるダルメアの像の前で跪き祈りを捧げるものの、ノアの涙はベゴニアの蕾に姿を変えてしまう。
「またバースレスになっちゃう……」
多くの人々が自分の生み出す花を待っていると思えば思うほど空回りしてしまい、上手く花を生み出すことができず、ただ焦燥感だけが強くなっていったのだった。
それから、城の中が更に騒々しくなるのをノアは感じていた。箱庭から外を眺めていると、枯れ果てた草花が広がる庭園には騎士が身に着けるであろう、剣や、槍、盾に鎧が並べられている。
昨日からは多くの馬が連れてこられて、彼らの嘶く声がノアのいる箱庭にまで聞こえてくる程だ。
「本当にこれから戦争が始まるんだ」
そう思うだけで、ノアは思わず身震いをする。不作続きで作物がなく食糧が足りない。そのためノアのベゴニアの花で作物が育ちつつあるクレーア城を奪還したい——。なぜ話し合いで解決できないのか、ノアは不思議でならなかった。
戦争をすれば多くの兵士が命を落とし、たくさんの血が流れる。そんなことはわかりきっているだろうに……。
何より、ノアはイヴァンにこれ以上人を殺めてほしくなんてない。もう二度と、無慈悲に人の命を奪う姿を見たくはないのだ。
しかし、イヴァンに会うことができないノアは強い孤独を感じていた。それにもかかわらず、城には見るからに恐ろしい道具が多量に運び込まれ、着々と戦争の準備は始まっている。
「会いたい……」
ノアはそっと呟く。もうこの言葉は嘘偽りなどではなく、ノアの本音だ。そんなことは、もうとっくに気が付いている。
着々と進んでいく戦争の準備を目のあたりにすると、ノアの不安はどんどん増していく。イヴァンが出征してしまえば、きっとたくさんの人の命を奪うことだろう。
自分の前で優しく微笑むイヴァンの温もりを段々忘れてきてしまっていることが、ノアは怖かった。そして思い出すのは、あの日の出来事——。
夜もなかなか眠ることができず、ノアの体調は更に悪くなっていく。生み出せる花の量はどんどん減り、今はほんの僅かなベゴニアの花を生み出すことしかできない。
そんな自分が情けなくて、ノアの瞳からは涙が溢れ出す癖に、それはベゴニアの蕾にしか姿を変えてくれない。
自分を優しく抱きしめてタッピングをしてくれるイヴァン。そんなイヴァンを、ノアは少しずつ許すことができ始めていた。しかし、今イヴァンは出征し多くの兵士を殺めようとしている。
「俺は一体どうしたらいいんだ……」
ノアは大切なハンカチーフを胸に抱き、ダルメア像の前で泣き崩れる。
夜は眠れないし、食事だって喉を通らない。そんな日々が続く中、ノアを支えてくれたのはアッシュだった。
時々ノアの元を訪れては、イヴァンの話をしてくれる。それが、今のノアにとっての唯一の楽しみだった。
「陛下もノア様のお体のことを、とても心配されておりました。どうぞご無理だけはなさらずに」
「うん、わかった。ありがとう」
寂しいノアに寄り添ってくれるアッシュの存在が頼もしい。そうやってノアは、辛く寂しい日々をただ耐えるしかなかった。
『逃げて、ノア!』
『ノア! 出てくるな!』
毎晩見る夢——。無実の両親がイヴァンに殺められる、そんな光景。もう何度も見たし、何度もこんな夢など見たくないと願った。それでも、無慈悲にも、ノアの両親は彼の夢の中で何度も絶命していくのだ。
「父さん……、母さん、逃げて……」
夢を見ながらうわ言のように、両親を呼ぶことしかできない。いくら叫んだところで、自分は両親を救うことなどできないのに……。
その時、静かに箱庭の扉が開く。時間はもう深夜をとうに過ぎており、皆寝静まっている時間だ。その人物は音をたてぬようノアのベッドに近づき、静かにベッドに腰を下ろす。
「父さん、母さん……」
汗で額に張り付いたノアの前髪を優しく搔き上げ、そっと唇を寄せる。
「すまない、ノア」
ノアの箱庭にやってきたのはイヴァンだった。イヴァンも日々の激務に追われているらしく、疲れ切ったような顔をしている。
それでも悪夢のせいで魘されるノアの頬を優しく撫でてから、抱きしめるかのように体を寄せた。
「ノア、すまない。すまない……」
ノアの寝衣にイヴァンの温かな涙が沁み込んでいく。
——なんて温かいんだろう。
ノアがうっすらと目を開けると、自分を抱き締めてくれるイヴァンがいる。久しぶりの温もりに、ノアは自らイヴァンの首に腕を回し体を寄せた。
「久しぶりじゃん。俺に会いに来てくれたの?」
「あぁ。寂しい思いをさせてすまない。最近忙しいのだ」
「そっか。戦争が始まるのか?」
「あぁ。恐らくな……」
ノアがイヴァンの胸に顔を埋めると、埃に交じって血の香りがしたような気がした。
「其方は夢を見ていたのか? 魘されていた」
「……大丈夫だよ。もう夢の内容なんて覚えてないから」
「すまない、ノア。本当にすまない」
「だから、もう大丈夫だって」
「すまない。本当にすまない……」
「だから、大丈夫だよ」
自分を抱き締めたまま、静かに涙を流すイヴァンの髪を、ノアはそっと撫でてやったのだった。
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