第6話 リヴィア教会のソフィア
「ノア様のバースレスは完治しておりません。まだ花を生むことは、お止めになられたほうがいいかと思われます。目の腫れも完全に治まっていませんし。無理に花を生み出すことは、花生みにとってかなりの負担になってしまいます」
「え? でも……」
毎日行われる医師の診察に、ノアは思わず体を乗り出す。それを隣で付き添ってくれていたイヴァンがそっと制止した。
「わかった。お前はもう下がっていい」
「はい。かしこまりました」
「いや、ちょっと待ってくれよ!」
イヴァンに命じられた医師が、箱庭から退出するのを見たノアは咄嗟に立ち上がる。追いかけようとしたが「まぁ、落ち着け」とイヴァンに腕を掴まれてしまい、仕方なく先程まで座っていたソファーに腰を下ろした。
「ノア、落ち着くのだ」
「でも、俺が花を生み出さなかったら、この国の作物も花も育たないだろう?」
「まぁ、そうだが……」
「じゃあ、なんで?」
悠長に構えているイヴァンを見ていると、段々腹が立ってきてしまう。ノアはイヴァンの洋服の裾を勢いよく引っ張った。
「俺は大丈夫だ。頑張れば花を生み出すことだってできる! だからやらせてくれよ!」
「しかし、昨日もベゴニアの蕾しか生み出すことができなかったではないか? しかも、かなり苦痛を伴っていた。あんな状態で花を生み出すのは無理だ」
「そうだけど……。でも何回か試しているうちに、花が生み出せるようになるかもしれないだろう?」
必死に食い下がるノアの手を、そっとイヴァンが握ってくれる。それからじっと見つめてきた。
「私は、バースレスに陥っている其方に、無理をしてまで花を生み出してほしくはないのだ」
「でも……」
「私は其方が大切なのだ。だから、其方が苦痛なく花を生み出すことができるまで待つさ」
「…………」
「今は大人しく静養していろ。まぁ、其方が大人しく静養できるとは思わないがな」
ノアの気持ちをほぐそうとしているのだろうか? イヴァンがおどけて笑って見せる。その笑顔を見ると悔しいが、ノアは何も言い返せなくなってしまうのだ。
ふと、イヴァンは何か思い出したかのように、そういえば、と続ける。
「其方はリヴィア教会に行ってみたいそうだな?」
「あ、うん。行ってみたいって思ってた」
「そうか……。アッシュから話を聞いた。しかし、其方をこの箱庭から出すのが……正直心配だ」
ノアは意外そうに目を丸くして、イヴァンを見つめた。
「心配? ……でも、いくら箱庭だからと言っても、閉じ込められているのに変わりはないだろ? ずっといると、息が詰まりそうになるんだよ」
「それはそうだが……」
「なぁ、頼むよ」
怪訝そうに眉を顰めるイヴァンの顔を覗き込む。
独占欲の強い花食みは、好いた花生みを箱庭に閉じ込めておきたいという思いが強い傾向にある。中には、花生みを監禁してしまうほどの花食みもいるらしい……と、ノアは聞いたことがある。もしかしたら、イヴァンは独占欲の強いタイプの花食みなのかもしれない。
しかし、渋々と言った様子ではあったが、イヴァンは首を縦に振って見せた。
「わかった。でも条件がある」
「条件?」
今度はノアが眉を顰める番だった。まさか無理難題を押し付けて、結局は箱庭に閉じ込めておこうというのではないだろうか? と疑いを抱いてしまう。
「アッシュが同行するのであれば、行っても構わない」
「アッシュが?」
「そうだ。アッシュと一緒ならば許可をしよう」
最近になりアッシュとも大分打ち解けてはきたが、どうもあの仏頂面が苦手なのだ。しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。
「わかった。アッシュと一緒にリヴィア教会に行くよ」
「ならば、私からアッシュに話しておこう」
「ありがとう!」
ノアの口角が自然と上がっていく。いつも、リヴィア教会とはどんな教会なのだろうか、と想像を膨らませながら眺めていた。きっと、素晴らしい教会に違いない。そう考えるだけでノアの胸は躍った。
「其方は、笑った顔もまた可愛いな」
そんなノアを見たイヴァンが、愛おしそうに笑いながら頬を撫でてくれたのだった。
◇◆◇◆
特にやることもなく、今日も一日が終わりを迎えようとしている。時々アッシュや使用人が様子を見に来てくれるものの、これといってやることなどない。箱庭に所狭しに植えられている花を眺めていることが、唯一の楽しみだった。
ノアがきちんと手入れをしているため、箱庭の草花は生き生きと輝いて見える
「つまんない」「なぁ、することあるか?」と草花に話しかけてみるものの——当然、返事はない。花生みといえども、草花と会話をすることはできないのだ。
「わぁ、綺麗だ」
夜になるとリヴィア教会に明かりが灯る。昼間日光を浴びて輝くステンドグラスも綺麗だが、ランタンの淡い光が漏れ出る風景もノアは好きだった。
「……いつ、連れてってくれんのかな……」
ノアは窓の近くに座り込み、膝を抱える。この箱庭に来て以来、外に出たことはなかった。
しばらくリヴィア教会を眺めていると「調子はどうだ?」とイヴァンがやってくる。イヴァンはあれ以来、公務が終わると必ずノアがいる箱庭にやってきてくれるようになった。
一度「国王陛下は暇なんだな?」と嫌味を言ってやったが「努力して其方に会いに来ているのだ」と笑っていた。
ノアも一国の王が暇だなんて思ってなどいないが、嫌味の一つでも言ってやりたくなる。それでも、いつの日かイヴァンを心待ちにするようになっていた。
「医師から、其方の体調がなかなか優れないと聞いたが大丈夫か?」
「ごめん、まだ花を生み出すことができなくて」
「大丈夫だ、気にすることはない。其方は静養に専念してくれ」
イヴァンはノアの隣に座り込んで肩を抱いてくれる。きっと家臣が床に座り込むイヴァンの姿を見たら怒り狂うことだろう。普段は国王陛下らしく威厳に満ち溢れているイヴァンだが、ノアの前ではそんな姿は影を潜めてしまう。
「……夜、なかなか眠れないんだ」
「眠れない? それは良くないな。花生みはよく眠り、日光浴をすることで花を生み出す能力を維持するものだろう」
「わかってる。わかってるけど……!」
ノアは、心配そうに自分の顔を覗き込むイヴァンを睨みつけた。
「毎晩悪夢を見るんだ」
「悪夢だと?」
「あぁ……お前が両親を殺した日の夢を、な」
重い沈黙が流れる。ノアはイヴァンから目を逸らし、顔を伏せた。
「早く忘れたいのに、何度も同じ夢を繰り返し見てしまう。その夢を見て、何度うなされながら飛び起きたことか……。だから、眠れないんだ」
「そうか……。それはすまなかった」
イヴァンはノアの両手を握り締めたまま黙って俯く。その姿はノアが見ても痛々しいほどで、胸が痛む。
そして、思う。この男は、本当に自分の両親を殺したあの男なのだろうか……と。
あの氷のような冷たい笑みを浮かべ、人を殺めることに全く抵抗を感じないあの男と、今自分の罪を悔い、唇を噛み締める目の前の男が同一人物だとは思えないのだ。
「ノア、来るがいい」
「え?」
突然イヴァンに抱き寄せられ、膝の上に座らされる。予想もしていなかった出来事に、ノアの鼓動がどんどん速くなっていく。咄嗟にイヴァンから体を離そうとしたが、自分を抱き締めるその腕はひどく優しい。そんなイヴァンの腕の中から逃げ出すことなんてできなかった。
「ノア、すまなかった」
「…………」
「タッピングをするから、私を受け入れてくれ」
「でも……」
「大丈夫だ。私の其方を大切にしたいという思いは変わらない」
苦しそうな表情を浮かべるイヴァンを見ると、ノアの心は張り裂けそうになる。悪いのはこいつなのに……と頭では理解しているのに、イヴァンを拒むことができない。
「……わかった。受け入れる」
頷きながらノアは全身の力を抜く。タッピングを行うとき、花生みが花食みを信頼し享受の姿勢をとることで、より効果がもたらされるとされている。
慣れるまでイヴァンに体を委ねることに恐怖心を抱いていたが、毎晩自分の元を訪れてはタッピングを施してくれるイヴァンに、ノアは心を開きつつあった。
イヴァンの端正な顔立ちに目を細めながら、ノアはその頬に恐る恐る手を伸ばしてみる。
「私の大切な花生みよ、早く元気になっておくれ」
「ん、んん……くすぐったい……」
「少し我慢するんだ」
イヴァンの唇が額や頬、首筋に触れる感覚がむず痒くて、ノアは思わず肩を上げる。でもイヴァンは決して、ノアが嫌がることはしてこない。
「早く其方と口づけを交わしたいものだ」
「……馬鹿か。そんな日、来ねぇよ」
「ふふっ、それは残念だな」
ノアは、まるで子どものようなこんな戯れ合いを心地よく感じていた。
「また明日も来るから待っておれ」
「別に、待ってなんかねぇし」
「でも、必ず其方に会いに来る」
イヴァンを許してなどいないし、信用などしていない。何度も自分にそう言い聞かせるのだが、ノアの口角は自然と上がってしまう。
イヴァンを憎む心と、そんなイヴァンに心を許してしまっている自分。相反する思いが心の中でせめぎ合い、息もできないくらい苦しい。
「お前なんて大嫌いだ」
その時ノアの瞳から一筋の涙が頬を伝う。その涙は美しいベゴニアの花となって、絨毯の上に落ちた。
◇◆◇◆
「なぜ騎士団長である私が子どものお守など……」
「はぁ? なんだよ、その言い方。国王陛下からの命令なんだろう?」
「それはそうですが、納得がいかないのです」
アッシュは先程からぶつぶつと文句を言い続けているが、ノアの足取りは軽い。今日ようやく、イヴァンからリヴィア教会へ行くことの許可が下りたのだ。
何日かぶりに踏みしめる地面の硬さと、降り注ぐ日差しに感動さえ覚える。
「あぁ、やっぱり外はいいなぁ」
ノアは鼻歌を口ずさみ、足取りも軽い。庭園にある畑の近くを通りかかったとき、「もしや、貴方がノア様でしょうか?」という声が聞こえてくる。ノアが声のする方を向くと、大勢の農民が畑仕事の手を止めて、こちらに向かって深々と頭を下げていた。
一体何事だ? とノアが目を見開いていると、一人の男が口を開いた。
「ノア様がこの前生んでくださったベゴニアを畑に蒔いたところ、小麦が芽を出しました。見てください、こんなにもすくすくと育っています。これもノア様のおかげです。ありがとうございます」
「ありがとうございます!」
「ノア様、ありがとうございます!」
いつしかノアへの感謝の声は広い畑に響き渡るほどとなり、ノアは思わず胸が熱くなるのを感じる。
「よかった、俺も誰かの役に立てているんだ」
胸が熱くなり、溢れ出しそうな涙を手の甲で拭う。
「よかった! 俺のほうこそありがとう!」
ノアは農民たちに向かい大きく手を振る。ノアがこの城にやってきたとき、あの畑の作物が枯れ切っていたことを思い出す。
今年は豊作になってほしい——。そう願わずにはいられない。
それから隣を相変わらず仏頂面で歩くアッシュにそっと声をかけた。
「なぁ、俺。少しでも誰かの役に立てているかな?」
「なにを今更。今の人々の笑顔が貴方には見えなかったのですか?」
「そっか……。よかった」
ノアは嬉しくなってしまい、リヴィア教会に向かう足取りは、一段と軽いものになったのだった。
リヴィア教会は今から数百年前に建てられたという、古い教会だった。いつも箱庭の窓から教会の外観しか見たことのなかったノアは、緊張のあまり扉の取っ手を持つ手が自然と震えてしまう。
「落ち着け、落ち着け」
と深呼吸をしていると、「さっさと参りましょう」とアッシュが重そうな扉を軽々と開けてしまう。ノアが一歩教会に足を踏み入れると、その煌びやかな雰囲気の中に感じる重厚感に思わず息を呑んだ。
天井はアーチ形をしており、窓には美しい装飾を施されたステンドグラスがはめ込まれていた。ステンドクラスは日差しを受け、ユラユラと床に波紋を浮かび上がらせている。床には赤い絨毯が敷かれ、両脇には長椅子が設置されていた。
全体的に暖色系の色で統一された教会は、ひどく居心地がいい。
「凄い……。これがリヴィア教会か」
ノアは言葉を失い、広い教会の中を見渡す。目の前には穏やかな笑みを浮かべたダルメア像と、立派な祭壇がある。厳粛な思いを胸に刻みながら、ノアは祭壇へと歩を進めた。
「もう気が済みましたか? 帰りましょう?」
「え? もう帰るのか? もう少しゆっくり教会が見てみたい」
「まったく……。もう少しだけですよ」
「うん」
ノアはダルメア像の前まで出向き、静かに跪き指を組む。今までいくつかのダルメア像を見てきたが、こんなにも立派で、穏やかな笑みを称えたダルメア像をノアは見たことがなかったのだ。
「綺麗だなあ……」
誰もいない教会は静寂に包まれ、まるで異世界に迷い込んでしまったかのような錯覚に襲われた。
するとそこに、静かに近づく人影があった。ノアがその人影に気がつくと、目が合ったその人物は、恭しく一礼をしてくる。
「ノア様がわざわざ教会まで足を運んでくださるなんて恐縮です」
ノアはその顔を覚えていた。城に来たときに、美しい人だなと思った記憶がふと蘇る。
「あなたは確か……ソフィア司祭」
「覚えていてくださったんですか? 顔をお見せしただけでしたのに……改めましてノア様。このリヴィア教会で司祭をしております、ソフィアと申します」
「あ、えっと……はじめまして」
まるでダルメア神を連想させるような柔らかい雰囲気をもつ青年を前に、ノアは少しだけ緊張をしながらも頭を下げる。
「こうやってお会いできるなんて光栄です。以後お見知りおきを」
「あ、あの俺、そんなに凄い人間じゃないですから! ソフィア司祭、頭を上げてください」
自分に向かい深々と頭を下げるソフィアにノアが慌てふためていると、ソフィアがクスクスと笑い出す。
「ノア様はお優しい方ですね」
「そ、そんなこと……」
「ノア様のベゴニアの花のおかげで、小麦畑に芽が出たと農民たちが喜んでおりました。僕も花生みですが、ノア様ほどの力は生憎持ち合わせていません。ですから、本当にノア様を尊敬しているのですよ」
「そんな……。なんだか恥ずかしいです」
こんなにも綺麗なソフィアに面と向かって褒められると、なんだか恥ずかしくなってしまう。ノアの頬は徐々に熱を帯びていく。
「もし、よろしければ教会のお庭も見ていきませんか?」
「教会に庭があるんですか?」
「はい。今ではすっかり草花も枯れてしまいましたが……」
「そうですか。でも……」
ノアが隣にいるアッシュにチラリと視線を向けると、眉を顰めながらも「ご自由になさってください」と唸るように呟いた。
「よかった。じゃあ、決まりですね。ノア様、こちらへどうぞ」
「ありがとうございます」
ソフィアに腕を引かれ、二人で教会の庭へと向かう。その後ろを、ブツブツと文句を言いながらアッシュが続いた。
「これは酷い」
「今はこんな風になっていますが、昔はたくさんの花が咲き乱れる、それは美しい庭園だったのです」
ソフィアに連れられてきた庭は、教会のすぐ脇にあった。今、花壇にある草花はどれも枯れ果ててしまっているが、以前は様々な花が咲き誇る素敵な庭だったに違いない。それを思うと、ノアの心は締めつけられた。
「可哀そうに、土がやせ細っている。これではいくら種を蒔いたところで草木も育たないでしょう」
「ええ。僕の花生みとしての力がもう少し強ければよかったのですが……いくらを蒔いたところで、芽を出してはくれませんでした」
寂しそうに顔を歪めるソフィア。同じ花生みだからだろうか? ノアはソフィアに親近感を抱いていた。
「ソフィア司祭はどうやって花を生み出すのですか?」
「ふふっ。僕が花を生み出すところが見たいですか?」
「はい。是非見てみたいです」
「では、お見せしましょう。ただ、ノア様と違い立派な花を生み出せるわけではないので、笑わないでくださいね」
照れくさそうに頬を赤らめるソフィアを見ていると、ノアは意味もなくドキドキしてしまう。ソフィアは同性にも関わらず可憐な少女のようにも見えるのだ。
本当に、ダルメア神のようだ……と、ソフィアに見とれてしまった。
「では、いきますね」
ソフィアが両手を口元に持っていき、ふうーっと息を吐きだす。その時教会の庭に生えている木の葉がさわさわと音をたてて揺れた。
次の瞬間、ノアの周りを甘い花の香りが包み込んだ。
「はい。ノア様。これが僕の花です」
「わぁ、なんて綺麗なダリアなんだろう」
「ふふっ。僕は息を吐き出すことで花を生み出すことができるのですよ」
「凄い……。とっても綺麗ですね」
「でも、花を生み出す際に、強い痛みを喉に感じます」
「あぁ、やっぱり……」
ソフィアの両手には白やピンク、赤や黄色のダリアがたくさん載っている。その可愛らしいダリアの花に、ノアは目を細めた。
「でも残念ながら、僕のダリアを植えたとしても小麦を作ったりなどはできません——。だから、僕はノア様にとても期待をしているんです。ノア様、頑張ってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
お世辞かもしれないが、こんなにもの立派な司祭に褒められたノアは、天にも上ったような気分になってしまう。自分の力が誰かの役に立てる、ということが嬉しかった。
「ソフィア司祭。また明日ここに来てもいいですか?」
やりとりを見守っていたアッシュが、ぎょっとしたような顔をしたのを、ノアは視界の端に捉えていたが見なかったことにした。
「はい。是非いらしてください。今度はハーブティーをご馳走しますね」
「楽しみだなぁ」
ソフィアがノアを見つめながら、まるで可憐な花のように微笑んだのだった。
◇◆◇◆
「ノアよ、今日はやけに上機嫌ではないか?」
「別に、そんなことはないけど……」
公務を終えたイヴァンがいつも通りノアの元へとやってくる。それはもう毎晩の習慣のようになっており、いつしかノアもイヴァンを心待ちにするようになっていた。
「アッシュから聞いたぞ。今日リヴィア教会に行ってきたようだな」
「うん。ソフィア司祭と話ができてよかった。ありがとう、許可を出してくれて」
「随分ソフィアと仲良くなったみたいだな」
「あぁ。俺、クレーア城に来てから、他の花生みとちゃんと話をしたことがなかったから、ソフィア司祭と話ができて本当に嬉しかったんだ」
「そうか、それはよかった」
「あの人の生み出すダリアは、とても綺麗だったよ」
ノアの喜ぶ姿に、イヴァンが嬉しそうに目を細める。
「農民たちが其方のベゴニアの花を蒔いたところ、立派な芽が出たととても喜んでいたぞ」
「そうなんだよ。最近は体調もいいから、そろそろ花を生み出してみようと思って」
「そんな、無理をする必要はないぞ。ゆっくり療養をしたほうが……」
「無理じゃない!」
ノアは自分を心配するイヴァンの言葉を遮り、窓の方へと歩み寄る。ランタンが灯されている教会のステンドグラスは淡い光を放っている。幻想的な姿は思わず溜息が漏れるほどに美しい。
「俺、ソフィア司祭が花を生み出す瞬間を見て、凄く感動したんだ。それに、俺のベゴニアを待っていてくれる人もいる」
「そうか。でも、まだバースレスが良くなっていないのだから、無理だけはしないように」
「うん。わかってる」
そう頷きながらノアは床に視線を逸らす。ソフィアが生み出した美しいダリアの花を見た瞬間、感動と共にもう一つ芽生えた感情があった。それは、心の中に影を落としたまま、ノアを憂鬱にさせている。
「なぁ」
「ん? なんだ?」
ノアは照れ隠しから、イヴァンから視線を逸らしたままポツリポツリと言葉を紡いだ。
「前、俺のベゴニアを食べたときに美味しいって言ってただろう?」
「あぁ。其方のベゴニアは本当に美味しかったことを覚えている」
「じゃあ、ソフィア司祭のダリアは?」
イヴァンは訝しげに眉を寄せた。
「ノアよ、それはどういう意味だ?」
「だから……ソフィア司祭のダリアも美味しかったのか聞いてるんだよ!」
ノアは耳まで真っ赤にしながらイヴァンに背を向ける。こんなこと聞くんじゃなかった……と、今になって後悔したって遅い。恥ずかしさのあまり、唇をきゅっと噛み締めた。
「わ、な、なんだよ」
教会を眺めていたノアは、突然背中からイヴァンに抱き締められる。ノアのお腹の前できつく組まれたイヴァンの指に、ノアの鼓動が途端に速くなった。
「お、おい、急にどうしたんだよ?」
「其方のそれは嫉妬か?」
「え?」
「だから、其方はソフィアに嫉妬しているのかを聞いているんだ」
「そ、それは……」
「もしそうだとしたら、私は嬉しい」
首筋に顔を埋めるイヴァンの吐息をくすぐったく感じたノアは、思わず肩を上げる。それでも、天邪鬼であるノアが素直に「ソフィア司祭に嫉妬した」などと、口が裂けても言えるはずがない。自分のお腹の前で組まれたイヴァンの両手をそっと握りしめた。
「其方のベゴニアより、美味しい花などこの世には存在しない」
イヴァンの低くて優しい声が鼓膜に響く。
「あとさ……。お前とソフィア司祭はブートニエールじゃないんだよな?」
「当たり前だろう。私のブートニエールとなる相手は其方だけだ」
「そっか……」
イヴァンの言葉にノアの胸が熱くなる。
——本当にこの言葉を信じていいのだろうか?
素直に自分への思いを言葉にしてくれるイヴァンが愛おしいと感じると同時に、彼に心を許すことが怖くもある。
「早く、また花を生み出せるようにならないとな」
「焦るな。私は其方に無理などしてほしくはない」
イヴァンに抱き締められたまま顔を覗き込むと、苦痛に顔を歪めている。こんなイヴァンの顔など見たくはないと、ノアは思った。
「なら、今日もタッピングしてよ?」
「……勿論、喜んで」
イヴァンがノアの首筋に舌を這わせた瞬間「くすぐったい!」とノアが声を出して笑う。そんなノアを優しく抱き寄せてくれるイヴァンが、ノアは好きだった。
まるで揺り篭を優しく揺らされているようで、とても心地がいい。
「なぁ、明日もソフィア司祭に会いに行ってもいい?」
「そんなにアッシュをこき使ったら、奴が怒り出すぞ? 今日も子守が大変だったと立腹していたからな」
「でも行きたい。っていうか、ソフィア司祭に明日も来るって言っちゃったし。アッシュにお願いしておいてよ」
「……仕方がない。わかった」
「んッ、んぁ……」
イヴァンの唇が首筋から鎖骨に降りていく感覚に、ノアは甘い吐息を抑えることができない。
「ノア」
自分の名を呼ぶ声に熱が籠り、普段取り乱すことのないイヴァンが呼吸を荒くしながら自分を求めてくる。その美しい顔に欲情が浮かんできて——。ノアは夢中でイヴァンにしがみついた。
◇◆◇◆
それから毎日、ノアはアッシュと共にリヴィア教会へと足を運んだ。アッシュは毎回「なんでこの私が子守など……」とブツブツいっているが、教会に行くとソフィアはいつも「待っていましたよ」と笑顔でノアを迎えてくれる。ノアはそれがたまらなく嬉しかった。
やはり同じ花生みであるソフィアと過ごす時間は心地いい。
ソフィアはいつも花びらの形をしたクッキーと、ハーブティーをご馳走してくれる。今日のハーブティーはカモミールティーだったようで、爽やかな香りが口の中に広がっていく。
ノアが遠慮なく花びらの形をしたクッキーを頬張っていると、アッシュが眉間に皺を寄せながらノアに近づいてきて無遠慮に声をかけた。
「気が済んだのなら、さっさと帰りましょう」
「でも……」
「でも……ではありません。騎士団長である私の本来の仕事は、子守ではなく、陛下の護衛なのです。それに明日からは、しばらくここについてきてあげることができなくなりますから」
「え? そうなの?」
「私だって、そんなに暇ではないのです」
「えー……でも、まぁ、そうだよな……わかったよ」
「では教会の扉の所で待っていますから、それを食べ終わったら早く来てくださいね」
「うん」
ノアは残念そうに俯く。でも仕方がない。アッシュはこの国の騎士団長だ。そんなにも立派な役職についている人物が、自分に時間を割いてくれるだけ感謝しなくてはならないのだ。
「あんなことを言っていますが、アッシュだってノア様のことをとても気に入っているんですよ」
「え? そんなわけないですよ。逆に嫌われていると思います」
「そんなことはありません。ノア様はとてもお綺麗な方ですから。アッシュに誘惑されないよう、気を付けてくださいね」
「まさか、そんなこと……」
ソフィアが気を利かせてかノアの顔を見て微笑んだ。
「じゃあ、残ったクッキーを持ち帰れるように包んで差し上げますね」
「本当ですか? ありがとうございます」
「いいえ」
ソフィアはノアが食べ残したクッキーに、新しいクッキーを混ぜて綺麗な模様があしらわれたナフキンに包んでくれる。そんなソフィアの優しさが嬉しい。
「そう言えば、ノア様はもう花を生み出すことができるようになったのですか?」
「あ……はい。少しだけでしたら生み出すことができるようになりました。ただ、まだ花じゃなくて、蕾を生み出すことが多いんです。国王陛下が毎日タッピングをしてくれるので、少しずつですが、体も元気になってきました」
「国王陛下が、毎日タッピングを?」
「あ、えっと……、はい」
ソフィアに気を許していたせいなのか、なんとはなしに口走ってしまったことを、ノアは恥ずかしくなってしまい思わず俯く。それを見たソフィアが「ノア様は初々しくて可愛らしいですね」とクスクスと笑っていた。
「あんな大きな
「え? ……ソフィア司祭がなんで瓶のことを?」
ノアが不思議に思い顔を上げると、ソフィアがまるで悪戯を思いついたかのようにノアの顔を覗き込んだ。
「そんなことより、明日はアッシュのいないときに、こっそり教会に遊びにいらしてください。美味しいケーキを用意して待っていますから」
「で、でも、そんなことをしたら……」
「シッ、アッシュに聞こえてしまいます」
「あ……」
ノアは咄嗟に両手で口を押さえて、こちらに厳しい視線を向けているアッシュのほうを恐る恐る振り返る。
「いいですか、ノア様。誰にも見つからずあの塔から抜け出す方法をお教えします」
「え? そんなことができるのですか?」
「誰にも教えたことのない秘密の通路があるんです。なんだか冒険みたいでしょう?」
「はい! ドキドキします」
「その方法はね……」
ソフィアがそっとノアに耳打ちする。なんだか秘密の作戦を立てているみたいで、ワクワクする思いを抑えることができなかった。
◇◆◇◆
その日は朝から城内が騒がしい雰囲気に包まれている。
不思議に感じたノアがある家臣を捕まえて事情を聴くと、「隣国がこちらに攻めてくるという噂が流れているのです」と真っ青な顔をしながら教えてくれた。
「ノア様がクレーア城に来てくださったことで、一気に作物が育ち始めた。もしかしたら、ノア様の噂を聞きつけたのかもしれません」
「どうか、ノア様。この箱庭から出ないでくださいね。どんな輩が貴方様の命を狙っているかわかりませんから」
「私たちのノア様に、何かがあったら大変です!」
口々に自分のことを心配してくれる家臣たちに、胸が熱くなる。
それと同時に、イヴァンがなぜアッシュと一緒の時ではないとリヴィア教会に行ってはいけないと、あんなにも厳しく言いつけたのかが分かった気がした。
「そうか。俺は命を狙われる存在なんだ……」
改めてそれを感じたノアは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「そのため、今日はアッシュ騎士団長も国王陛下と共に、国内を巡回されるようです。ですから今日はリヴィア教会に行くことができません。私どもが時々様子を見に参りますので、どうぞ箱庭から出ないでくださいね」
「あぁ、わかった」
本当なら今日もリヴィア教会に行きたいところを我慢しながら、渋々と頷く。
ノアに与えられた箱庭はとても広い。大きくて綺麗な噴水もあるし、世界から集められたたくさんの花々が咲き誇り、甘い花々の香りが部屋中を充満している。
高価な家具が置かれ、時間になれば食事やおやつまで運ばれてくる。そんな何不自由ない生活。しかし、一度大空を飛ぶことを知ってしまった鳥には、この箱庭は小さすぎた。
「教会に行きたいな」
ソフィアは昨日、今日はケーキを準備して待ってくれていると言っていた。一体どんなケーキだろうか? そう考えると、ノアの心は疼き出す。
最近は少しずつではあるが花を生み出すことができるようになってきていた。昨日、ティーカップ一杯分のベゴニアの花を生み出したとイヴァンに見せたところ「頑張ったな、ノア」と、とても喜んでくれた。
今なら、リヴィア教会の庭の草花を復活させることができるかもしれない。もしあの広い庭に美しい花々が咲き乱れたら、どんなに綺麗だろうか。きっとあの美しいリヴィア教会が更に華やかになることだろう。ノアは、美しい草花に囲まれたリヴィア教会を見てみたかった。
『いいですか、ノア様。誰にも見つからずあの塔から抜け出す方法をお教えします』
その時、ふとソフィアの言葉が脳裏を過る。
果たして、本当に誰にも見つからずにこの塔から出ることができるのだろうか。そう考えるとノアは心にさざ波が立つのを感じる。
「ちょっとだけ行ってみようかな。すぐ帰ってくれば、きっとバレないだろう」
そう思い立ったノアは、静かに箱庭の扉へと向かったのだった。
箱庭は外から鍵がかけられているわけではないため、出ることは容易だ。ノアは家臣たちがやってこないことを見計らい、そっと扉から顔を出す。キョロキョロと辺りを見渡すが、遠くから人の声がするだけで近くに人がいる気配は感じない。
「今だ」
ノアは逸る気持ちを抑え廊下を走る。
箱庭の廊下を少し進んだところに、子どもが通れるほどの小さな扉がある。そこはいつも鍵が開いているため出入りは自由のようだ。元々は非常時に使う脱出用の扉だったようだが今は誰も使っていない。そこから、塔を抜け出すことができる——。ソフィアはそう教えてくれたのだった。
扉は想像以上に小さかったが、華奢なノアはなんとか通り抜けることができた。
——誰かに見つかったら終わりだ……。
ノアは扉を閉める前に、もう一度辺りを見渡し、誰もいないことを確認しながら音をたてないよう扉を閉める。
下りても下りても続く、急な螺旋階段上の石段を「見つかったらどうしよう」と冷や冷やしながらも下り続ける。息が上がり肩で呼吸をし始めたころ、ようやく外へ続く扉が見えた。
「よかった」
ノアが恐る恐るその扉を開けると、眩しい日差しが差し込んできたものだから慌てて両手で目を覆う。爽やかな風が吹き、ノアの銀色の髪をさらさらと揺らしていった。
「ここからだと教会はすぐそこだ」
ノアは嬉しくなってしまい、勢いよく走りだす。
ノアは教会の扉を開ける前にもう一度辺りを見渡し、誰かにつけられていないかを確認する。幸い人の気配を感じなかったため、教会の重たい扉を開いた。ゴゴゴゴッという重たい音と共に、ゆっくりと扉が開かれる。
ステンドグラスは変わらず日差しを受け、床にユラユラと美しい波紋を映し出し、優しい笑みを浮かべたダルメアの像がノアを迎え入れてくれた。
「相変わらず綺麗だな」
ノアはステンドグラスを横目に、ゆっくりと祭壇へと歩を進める。その厳かな雰囲気に、ノアの心が癒されていくのを感じた。
「おや、ノア様ではないですか?」
「あ、ソフィア司祭。今日はアッシュが来られないというので、ソフィア司祭が教えてくれた秘密の通路を通ってここに参りました」
「——そうですか。誰にも見つからず、上手くいったようですね。ではお茶の準備をしましょう」
「はい。ありがとうございます」
教会の奥にある部屋へと姿を消したソフィアを見送ってから、ノアはもう一度ダルメア像を見つめる。
「豊作の神、ダルメアよ。いつかまた、俺が花をたくさん生み出せるよう見守っていてください」
そう呟いたとき、教会の外が突然騒がしくなるのを感じる。大勢の人の声に、たくさんの馬の蹄の音。その異様な雰囲気にノアは息を呑んだ。
——一体なんだ……。
恐怖から、自然とノアの体に力が籠る。ソフィアが戻ってくる様子はないし、ノアがどこかに隠れようと辺りを見渡していると、バタンッと大きな音と共に、教会の扉が開け放たれた。
「わぁぁ‼ い、一体なんだ!?」
その扉を開ける大きな音に、ノアの体は大きく跳ね上がる。
「探せ‼」
という声と共に、大勢の人々が一気に教会へと流れ込んでくるのを感じた。
この場から逃げ出したいのに、足に根が生えてしまったかのように動くことすらできない。腰が抜けてしまったノアは、その場に座り込んでしまう。全身がカタガタと震え、声を出すこともできずに、その場に体を縮こまらせた。
「いました! 国王陛下!」
大きな叫び声と共に、自分の周りに人が集まったのを感じた。ノアはあまりの恐怖に顔を上げることすらできない。そんなノアの頭上から、聞き慣れた声が聞こえてきたのだった。
「こんな所にいたのか、ノアよ」
「こ、国王陛下……」
「其方の世話をしている家臣たちが、其方が箱庭からいなくなったと血眼で探しているぞ。まさか、こんな所にいたとはな」
「……ッ、ぁあ……」
今、目の前にいるイヴァンはノアが普段見ているイヴァンではなかった。
立派な鎧に身を包み、腰には大きな剣を下げている。それはまさに戦場へと出向く、騎士そのものだ。彼の後ろには大勢の騎士たちがおり、イヴァンのすぐ脇にはアッシュが立っている。
今自分を見下ろしているのは、普段のように柔らかな笑みを浮かべるイヴァンではなく、ノアの両親を殺めたイヴァンだった。
「ノアよ、其方はどうしてここにいる」
「あ、あの……」
「いいから答えるんだ!」
まるでその場の空気が震えるような大声に、ノアは恐怖から動けなくなってしまう。呼吸が上手くできなくて、息苦しい。
「其方の命を狙っている者がいるかもしれぬから、教会に来るときはアッシュに同行してもらうように言わなかったか?」
「でも、今日アッシュは忙しいからって……」
「そんな言い訳はいい!」
イヴァンは相当逆上しているようで、近くにある長椅子を力強く蹴り上げる。そのけたたましい音に、ノアの体は跳ね上がった。
ソフィアに教わった抜け穴を使った、などと言ったら、ソフィアがどんな罰を受けるか想像もつかない。絶対に言ってはならない……。ノアは唇を噛み締めた。
今のイヴァンは、あの日ノアの両親を殺めたイヴァンそのものだ。毎晩箱庭にやって来ては優しくタッピングを施してくれたイヴァンではない。やはり、今ノアの目の前で怒り散らす彼こそが本当のイヴァンなのかもしれない。
「国王陛下、どうかノア様をお許しください」
ノアの元へと戻ってきたソフィアがノアを庇ってくれるものの「貴様には関係のないことだ!」と華奢な体を突き飛ばした。
「ソフィア司祭!」
ノアがソフィアの元へと駆け付けようとしたとき、ものすごい力で体を何者かに引き寄せられた。
「お前は箱庭へと戻るぞ」
「で、でも……」
「私の言うことが聞けないのであれば、罰を与える。わかったな?」
ノアはあまりの恐怖に頷くことしかできない。
イヴァンはやはり国王陛下なのだ——と、今更ながらに思い知る。ノアはそんなイヴァンが恐ろしくてならなかった。
「ノアよ、箱庭に戻るぞ。皆が心配している」
「……はい」
ノアはイヴァンに腕を掴まれ、箱庭へと連れ戻されてしまう。心配になりソフィアを振り返ったが、不安そうな表情をしながらノアのことを見守っていた。
箱庭に戻ると、普段ノアの世話をしている家臣たちが真っ青になりながらノアのことを探していた。イヴァンにより連れ戻されたノアを見た家臣たちは、「ノア様、よくぞご無事で」「本当によかったです」と皆が皆、涙ながらに喜んでくれたのだった。
「いいか、ノアよ。これからもアッシュが同行する以外に箱庭の外に出ることは禁止とする」
「……わかった。心配をかけて悪かったよ」
ノアが素直に謝罪をすると、イヴァンは箱庭の扉へとさっさと向かっていく。その冷たい言動に、ノアは泣きたくなってしまった。
「それから、これからは勝手に箱庭から出られないよう外から扉に鍵をかける」
「え?」
「国王の命令に背いたのだ。これくらいの罰で済んだことを感謝してほしいくらいだ」
「わかった……」
言葉ではわかったつもりだが、ノアは悲しかった。これでノアの自由は完全に奪われてしまったのだから。
「今晩も、公務が終わったら会いに来るから待っていろ。いいな?」
「……はい」
「では私が来るまでここで大人しくしているんだ」
イヴァンが部屋を出た直後、外からガチャッと鍵を閉める音が響き渡る。その無機質な音にノアの心が締め付けられて、幾筋もの涙が頬を伝う。
「俺は、籠の中の鳥じゃない」
ノアの頬を伝った涙は美しいベゴニアの花へと姿を変えて、音もなく絨毯の上へと落ちていった。
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