第5話 タッピング

「こんなの、無理だ……」

 ノアは床に倒れ込む。

 あの大きな瓶いっぱいのベゴニアを、限られた時間内に生み出すことなどできるはずもなく、疲れ切った体は限界を迎えていた。

 ベゴニアを生み出すために、もうどれ程の涙を流したことだろうか? ノアの目は開けていられない程に腫れあがり、火傷をした時のように熱を帯びている。

 最後の力を振り絞り、大切にしているハンカチーフを持ち噴水へと向かった。噴水の水でハンカチーフを濡らし、それを目に当てる。

「気持ちいい……」

 冷たいハンカチーフは火照った目を冷やしてくれて心地がいい。それでも、すぐにノアの目の熱を奪って、温まってしまった。

「……もう、疲れた」

 噴水の袂に崩れるように座り込む。体を起こしていることさえ億劫だった。

 ノアがベゴニアを生み出すときには、強い痛みを伴う。それは、まるで目を抉られるような。熱した鉄を目に押し当てられるような。

 言葉には表せない程の苦痛だった。

 それでも、たくさんの人を幸せにしてあげることができる、と考えればその痛みを我慢することは、それほど苦しくはなかった。しかし、今は違う。

 あの大きな瓶をベゴニアでいっぱいにするなど、苦痛以外の何ものでもない。それでも、自分がやり遂げなければクレイン夫妻の命が危うい。そう思えば、泣き言を言っている場合ではないのに。

 一面の窓から差し込む日差しは、すでに赤く染まっていた。

「もうすぐ日が沈んじゃう……」

 ノアは鉛のように重たい体を無理矢理起こす。恐らくベゴニアは瓶の半分もないだろう。それなのに、もうすぐハッシェルがこの瓶を取りに来てしまう。

 それに、結局イヴァンは、あれから箱庭を訪れていない。

「花を生まなくちゃ……」

 ふと顔を上げると、目の前にはダルメアの像が優しくノアを見つめていた。箱庭にあるダルメアの像は、瓶を脇に抱えたまま、右手を前へと差し伸べている。

 思わず、その優しい手に縋りつきたくなった。

「駄目だ、花を生まなくちゃ」

 そう思うのに、涙は枯れ果ててしまったのだろうか? ノアの真っ青な瞳から涙が流れ落ちることはない。

「なんで、俺は花生みなんかに生まれてきちまったんだ。畜生、畜生……!」

 ノアはハンカチーフをきつく握りしめながら、自分の運命を呪ったのだった。


 ◇◆◇◆


「一体これは……」

 ふと、声が降ってくる。

 突然体を抱き起こされる感覚に、ノアは目を開ける。開けると言っても、泣き腫らした目を必死に開いたところで、目の前にいる男の顔さえよく見えない。

 でもノアには声だけで、それが誰なのかよくわかった。ようやく来たのかよ、と小さく呟く。これで、この地獄の苦しみから解放されるのだろうか? それとも——。

「ノア、これは一体どうしたんだ? 何が起きたというのだ?」

「なんだよ、お前があいつに命令したんじゃないのか?」

「あいつ? 命令だと? なんの話だ……おい、医師を連れてこい。今すぐにだ!」

「はっ!」

 イヴァンの後ろに控えていた家臣が、勢いよく部屋から出て行く。それを見たノアは、「あぁ、自分は助かるんだ」と薄れゆく意識の中で思った。

「ノア、大丈夫か? しっかりするのだ」

「これが大丈夫に見えるのかよ……お前の目は節穴か……?」

「すまない。公務が重なってしまい、なかなか其方の元へと来られなかったのだ。こんなに目が腫れあがって、しかも床に倒れているなど……一体何があったというのだ?」

「……突然、お前の一番偉い家臣とかいう奴が来て、あの瓶いっぱいになるまで花を生めって……。できなければ、クレイン夫妻に危害を加えるって脅されたから」

「なんだと?」

「……なんだよ? お前の命令でやったんじゃないのかよ?」

「私がこんな無茶な命令をするわけがないだろう?」

 その瞬間イヴァンの顔が強張る。綺麗な切れ長の瞳に怒りの炎が燃え盛り、明らかに逆上したことが見て取れた。

「ハッシェルの奴……。後で、キツイ罰を与えておく。それより、其方、体は大丈夫なのか?」

「だから、大丈夫じゃねぇって」

「そうか。可哀そうに……。無理をさせてすまなかった」

 ノアを抱きかかえ、優しく髪を撫でてくれるイヴァンの顔は、先程と打って変わってひどく優しい。まるでノアを労わるような抱擁に、全身から力が抜けていくのを感じた。

「ノア、少しだけ我慢してくれ」

「は……? ……なにを?」

「タッピングをする」

「……タッピ、ング、って」

 ノアは一瞬、何を言われているかわかりかねていたが、その単語を初めて聞いたときのことが、急激に記憶に蘇ってきた。

 あのときも、この男の口から聞いたはずだ。

「花食みである私の体液を、花生みである其方に分け与えることで、其方の体を癒してやることができるはずだ」

 突然近付いてきたイヴァンの顔を、ノアは思わず、両手で押しとどめた。

「た、体液だって……っ?」

 そもそも、タッピングの経験などないノアの鼓動はどんどん速くなり、頬に熱を帯びていく。イヴァンは至極真面目な表情で、小さく頷いた。

「其方と私はブートニエールではないが、それでも、花食みの体液であれば、多少は元気にしてやれる」

「だ、だからどうやって体液を分け与えるつもりなんだよ!?」

「口付けだ」

「くち、づけ……?」

 ノアの顔が一瞬で赤くなり、心臓が口から飛び出しそうになる。ノアは咄嗟にイヴァンから体を離そうとしたが、疲れきっていたこともあって、いとも簡単に腕の中に捕らわれてしまった。

「い、嫌だ、お前とキスなんてしたくねぇ!!」

「しかし、いきなり抱かれるよりはいいだろう?」

「だ、抱かれる……」

 心配そうに自分の顔を覗き込むイヴァン。緊張から、ノアの体が小さく震え出した。

「お前とキスするのも、お前に抱かれるのも絶対に嫌だ!!」

「しかし、其方の体が……」

「死んでも嫌だ!!」

「それは困ったな……。だからと言って、私以外の花食みと其方がタッピングをするなど、私には我慢できない」

 イヴァンは前髪を搔き上げながら大きな溜息をつく。その時、医師が部屋へと駆けつけてきた。助かった……とノアは安堵の息を吐く。ノアは藁にも縋る思いで医師を見つめた。


「とにかく、体に異常がなくてよかった。ハッシェルの処分は明日までに検討しておくから、今後はこのような無茶な命令には従わないように」

「わかった……もう、従わない」

「——すまない、キツイ言い方をしてしまったな。其方が悪いわけではないのに……」

 ベッドに横になるノアの頬を労わるように撫でてくれる。その優しい手つきに、思わず目を細めた。

「先程、瓶に入っていたベゴニアを食べてみたら、とても美味しかった」

「は? 食べたのかよ?」

「あぁ。其方が一生懸命生み出してくれた花を、無駄になんてできないからな。明日、その花を城内の畑に大切に植えよう。きっと、立派な作物が育つことだろう。ありがとう、ノア」

「べ、別に……お前の為じゃねぇし」

「ふふっ。相変わらず意地っ張りだな」

 イヴァンは床に跪き、ノアの額にそっとキスを落とす。

 それから幸せそうに微笑む。その笑顔にノアの胸が締めつけられた。

「タッピングは許してもらえなかったが、今晩一緒に眠ることは許してもらえるだろうか?」

「一緒にって……このベッドに?」

「ああそうだ。タッピングほどの効果は期待できないだろうが、花食みと花生みが触れあうだけでも、私の力を其方に分け与えることができるかもしれない」

「でも……」

「頼む。其方と一緒にいたいんだ」

 手の甲にそっとキスをされたノアの頬が、徐々に熱を帯びていく。大体一国の主が床に跪くなんてあり得ない話だ。あのハッシェルがこの状況を見たら「あぁ、嘆かわしい!」と、泡を吹いて倒れてしまうかもしれない。

 でも——。

「わかった。入れよ」

「ありがとう、ノア」

 ノアがベッドの隅によると、イヴァンが安堵したような顔を見せる。その穏やかな表情は、あの日ノアが見たイヴァンとはまるで別人だ。

「おやすみ、ノア。私の大切な花生み」

 イヴァンはノアをまるで大切な贈り物のように抱きしめてくれる。その温もりに、一日花を生み出し続けた体から一気に力が抜けていった。

 花食みの力が、体にジンワリと沁み込んでくるような感覚に陥る。

「あぁ……疲れたな」

 ノアは遠慮がちにイヴァンに体を寄せ、その胸に体を埋める。

 そんなノアを、イヴァンは朝まで抱き締め続けてくれたのだった。


「ノア、私は公務へ向かう。其方はゆっくり休むがいい」

「ん? もう行っちゃうのか?」

「ああ、其方はまだ休んでいるがいい。昨日、あれほど花を生み出したのであれば疲れたであろう?」

「んん……」

「行ってくる」

 額に柔らかなものが触れた気がしたノアは、そっと目を開く。視線の先には穏やかな笑みを浮かべたイヴァンがいた。イヴァンがノアから離れていこうとした折に、ノアは無意識にイヴァンの洋服の裾を掴んだ。

「これは……。随分と可愛らしいことをしてくれる」

 イヴァンが嬉しそうに笑うものだから、ノアは慌てて洋服から手を放す。少しでも「寂しい」と感じた自分が恥ずかしくなってしまった。

「大丈夫だ。今日は其方に無理などさせない。時々アッシュに其方の様子を見に来るよう伝えておく」

「……アッシュが?」

「私が最も信頼する家来だ」

「……そうか」

 イヴァンはそう言うが、ノアはアッシュという男が苦手だった。炎のように赤い髪に、岩のような体。それはまるで荒ぶる獅子のようで、彼に比べると自分がまるで子猫のように感じられる。

 いつもイヴァンの後ろから、自分を睨みつけているようで面白くないのだ。

「昨日其方が生み出してくれたベゴニアは、小麦畑に大切に植えさせてもらう。今年はきっと豊作になることだろう」

「そっか……。ならよかった」

 そっと頬を撫でられたノアは、くすぐったくて思わず目を細める。その光景を見たイヴァンが「可愛らしい」と微笑んだ。その笑みから滲む、彼からの愛情を、ノアは感じずにはいられなかった。

 ノアの枕元には、昨日目を冷やすときに使ったハンカチーフが、丁寧に畳んで置かれていた。

「では」

 そう言い残し、イヴァンは箱庭を後にした。

 イヴァンが公務に向かった後、すぐに豪勢な朝食が運ばれてくる。その光景は、まるで昨日の朝の繰り返しだった。

「さぁ、ノア様。今日も一流のシェフが心を込めて作った料理をお持ちいたしました。存分にご堪能くださいませ」

「はぁ……」

 ノアはこのテンションの料理長も苦手なのだ。

 農作物が育たないせいで、食事すら満足に食べられない人々はたくさんいる。その事実を知りながら、ご馳走を並べられたところで、「美味しい」と呑気に食事などできるわけがない。今も、お腹を空かせている人は、城の外に大勢いるのに——そう思うと、ノアの良心は痛むのだ。

 大きな溜息をつきながらフォークとナイフを持ったとき、勢いよく箱庭の扉が開く。ノアが眉を顰めながら扉の方を向くと、自分が苦手とする人物がこちらに近づいてくるのが見える。

「ついに来たかよ……」

 その場にいた家来たちが、一斉に深々とこうべを垂れるのを見たノアは小さく舌打ちをした。

「おはようございます。ノア様」

「お、おはようございます」

 背の高いアッシュに上から見下ろされると、全身に力がこもり委縮してしまうのを感じる。ノアが弱々しく睨み返したところで、アッシュは何も感じないことだろう。

 楽しくもない食事が、さらに憂鬱になってしまった。

「ノア様、全く食事に手をつけていないではないですか?」

「あ、えっと……。食欲がなくて」

「そんな風だから、女みたいに華奢な体つきをしているのです。さぁ、お食べください。ノア様が食事を召し上がらないと、陛下が心配されます」

「……わかってる」

「では、早く召し上がってください」

 アッシュは一礼してから、ノアの近くへとやってくる。その威圧感に押しつぶされそうになってしまった。

「大体、なんで騎士団の団長であるあんたが、俺の所に来る必要があるんだよ? あんたは国王陛下の傍にいて、国王陛下をお守りすることが仕事じゃないのか?」

 ノアは苛立ちを混ぜた口調で、アッシュへと問いかける。

 するとアッシュはその大きな両肩を竦ませたかと思うと、わざとらしく首を横に振った。

「はぁ……わかっていらっしゃらないのですね」

「……な、なんだよ。そのわざとらしいため息はっ?」

 大きく息を吐いたアッシュを見ているとイライラが更に募った。この男は、イヴァンに自分の子守をしていろとでも命令されたのだろうか? いちいち言動が鼻について仕方がない。

「貴方は本当にわかっていない。昨日のハッシェルの件をもうお忘れになられたのか? 今この城には、貴方のことを陥れようとする者がごまんといるのです」

 アッシュの言葉に、ノアは目を見開いて、遅れて息を呑むような音を喉から出した。

「陥れられるだけならまだしも、命を狙われたり、さらわれてどこかに売り飛ばされる危険だって否定できない。貴方は、今、自分がどんなに危険な状況にいるのかが全くわかっていない」

「…………」

「だから、こうやって私が貴方の護衛を、陛下より言いつけられたのですよ。おわかり頂けましたら、早く食事をお済ませくださいませ。私も暇ではありませんので」

「わ、わかったよ。食えばいいんだろっ」

 アッシュの口調は相変わらず高圧的で気に入らないが、彼ほど有能な護衛はいないだろう。ノアは渋々と食事を口に運ぶ。


 ◇◆◇◆


「痛ッ……」

 ノアは小さな悲鳴を上げて両手で自分の目を覆う。

 昨日体を酷使して花を生み出したノアの体は、想像以上にダメージを負っているようだ。花を生み出すために目に力を入れようとするだけで、頭が砕けてしまうのではないか、というほどの痛みが走る。

『ベゴニアが美味しかった』

 昨夜、そう言いながら笑うイヴァンの顔を思い出す。あんなにも大きな瓶いっぱいの花を生み出すことはできないが、自分が花を生み出すことでイヴァンが喜んでくれるのであれば——。そう思い、花を生み出すことを試みたものの、それは失敗に終わってしまう。

「当分花を生み出すことは無理かな」

 ハンカチーフを水で濡らし、両目に当てると冷たくて気持ちがいい。なんと自分は不甲斐ないのだろう……と、天井を仰げばダルメアの像がノアを見つめて微笑んでいる。その慈悲深い微笑みにノアは救われる思いがした。

 花生みは花を生み出すために、植物のように日光を必要とする。幸いこの箱庭には燦燦と日光が降り注ぐため、日光浴には困らない。ノアは大きなガラス窓から空を見上げる。

 こんなにも立派な箱庭を与えられ、国王陛下という偉大な花食みに囲われている自分は、果たして幸せなのだろうか。飛ぶことさえ許されない鳥のように、不幸なのだろうか……。それさえもわからなかった。

「よし、もう一度だけ」

 ノアはダルメア像の前に跪き、両手の指を組む。それからそっと瞳を閉じた。

「ダルメアの神よ、どうかご加護を」

 小さな声で呟くと目の奥が熱くなってくるのを感じる。

「グハッ! 痛いっ!」

 ノアは激痛を感じその場に蹲った。床には小さなベゴニアの蕾がひとつ、ポツンと落ちている。それにそっと手を伸ばしギュッと抱き締めた。

「今の俺には、こんな小さなベゴニアしか生み出すことができないのか……」

 ベゴニアの蕾を畑に蒔いたところで、作物が実ることはないだろう。ノアは自分の無力さが悲しくなってしまう。

 昨日一日泣き腫らした目は熱を持ち、視界がいつもより狭く感じる。あれほど大量の花を短時間で生み出したノアの花生みとしての力は、かなり弱ってしまっていた。

 今朝診察にきた医師に、今自分は「バースレスになっている」という説明を受けた。バースレスとは、花生みが精神的に強いショックを受けることで花を生みだすことができなくなる状態をいう。

 医師からは、花食みにタッピングをしてもらうことを勧められた。タッピングを行い花食みの体液を摂取すれば、花生みの体力が回復し再び花を生み出すことができる。そんなことはノアだってわかっている。わかっているのだが……。

「じゃあ俺は、一体誰とタッピングをすればいいんだよぉ!?」

「陛下に決まっているでしょうが?」

「は?」

「ノア様がタッピングをするお相手は、陛下以外にいらっしゃいません」

 ふと声がする方を向くと、そこにはアッシュが立っていた。ノアは思わずその姿に目を奪われてしまう。

 アッシュは立っているだけにもかかわらず威厳に満ち溢れており、ため息が漏れるほどだ。腰に下げられた大剣を扱う姿は、さぞや凛々しいことだろう。

「きゅ、急に部屋に入ってくるなよ!?」

「私は何度も扉をノックしましたが、泣いたり喚いたりされていたようなので聞こえなかったのでしょう?」

 アッシュの言葉に、む、とノアが口を曲げる。子供のようだと自分でも思ったが、ノアはそっぽを向いた。

「昼食はきちんと召し上がられましたか? きちんと食事を摂らないと、花を生み出すことはできません。さぁ。お薬をお持ちいたしました」

「薬かぁ……」

「早く元気になって、また美しいベゴニアの花を生み出してください」

「……わかってる」

「床になんて寝そべっていないで、ソファーに行きましょう」

 アッシュはノアの腕を引き、ソファーへと誘導してくれる。それから紙に包まれた薬をそっと手渡した。

 ノアは顔を顰めながらアッシュから手渡された粉薬を口に放り込む。じんわりと広がる苦みを感じる前に、一気に水で流し込んだ。

「たくさん日光を浴び、きちんと食事を摂れば、すぐに元気になることができるでしょう」

「あー、うん。でもさ……やっぱり花食みとタッピングすれば、一番早くバースレスが治るのか?」

「はい。私はタッピングの経験はありませんが、そうだと言われています」

「あ、あんたも花食みなのか?」

「えぇ。私も花食みです」

 自分の近くに跪くアッシュの姿をもう一度よく観察すると、なかなか整った顔立ちをしている。戦でできたのだろうか。小さな傷が顔にいくつも刻まれていた。

「だって、タッピングって花食みから体液をもらうんだろう?」

「えぇ。花食みの体液は、貴方たち花生みにとって重要な栄養源なのです」

 何を今更……と言いたげにアッシュが呆れたような顔をした気がして、ノアはついムキになってしまう。

「だって、体液をもらうってことは口づけとか、それ以上のことをするんだろう……」

 ノアの声はどんどん小さくなっていき、最後のほうは聞き取れないほどになってしまう。顔が熱くなってきたから、アッシュから視線を逸らした。

「あぁ、そういうことですか? ノア様は誰かと口づけをしたり、誰かに抱かれる、といった経験がないのですね」

「はぁ!? 悪かったな! 経験不足で」

「ふっ。いや、逆にそんなことで照れているなんて可愛らしいな、と思いまして。失礼いたしました」

 不貞腐れたノアの顔を覗き込むアッシュは、優しい笑みを浮かべている。

 ——こいつ、笑うことなんてあるんだ。

 この男はいつも鬼のような形相をして、自分を睨みつけているイメージがあったから、ノアは意表を突かれてしまった。

「早く元気になってください。陛下も心配されています」

「うん……」

「今日も公務が終わったら、すぐこちらに向かうと話されていましたよ」

「そっか……国王陛下が……」

 イヴァンの話を聞くだけで、ノアの心が温かくなる。

 早く会いたい……。それと同時に強い戸惑いを感じてしまうのだ。

「あのさ、俺が元気になったら、あの教会に連れて行ってくれないか?」

「リヴィア教会ですか?」

「あぁ、あの教会すごく綺麗だから、初めて見たときから行ってみたくて。それとも、俺はこの箱庭から出ることはできないのか?」

「そうですね……」

 顎に手を当て考え込むアッシュの顔をノアは覗き込む。いくらこんなにも立派な箱庭でも、ずっとここにいるのは正直息が詰まるのだ。

「では、陛下に聞いておきます。ですから、早く元気になってくださいね」

「あ、うん……。でも、当分花を生み出すのは無理かもしれない」

「焦る必要なんてありません。ゆっくり静養なさって、元気になってから、またたくさんの花を生み出してください。きっと陛下も、それを望んでいらっしゃいます」

「わかった。ありがとう」

 ノアは窓から見えるリヴィア教会を眺める。教会のステンドグラスが日に当たりキラキラと輝いて見える。その光を見ていると、ズキンズキンと両目が痛んだ。

 アッシュに視線を移すと、先程の笑みは影を潜め、いつもの仏頂面に戻ってしまっている。

 ——やっぱり、こいつが優しいわけがないよな。

 そんなアッシュを見て、ノアは肩を落とした。


 ◇◆◇◆


「もう夜か……」

 窓から外を眺めながら、ノアはポツリと呟く。空には満月が浮かび、ランタンに火を灯さなくても明るいくらいだ。

 ノアは、今日ベゴニアを一つも生み出すことができなかった。これでは何の役にも立てていない——と気持ちばかりが焦ってしまう。

 『公務が終わったら国王陛下はこちらに向かうそうだ』という、アッシュの言葉を思い出す。

 もし、ノアがたった一つのベゴニアも生み出すことができていないとイヴァンが知ったら、一体どう思うだろうか? 「バースレスなんて、この役立たずが……」と早々に城を追い出されてしまうかもしれない。

「もう一度だけ」

 ノアは満月に向かい祈りを捧げる。

「どうか、神のご加護があらんことを……」

 そう囁いた瞬間、目の奥で炎が燃え盛ったような熱さを感じ、割れてしまうのではないか、と思うほどの激痛が頭に走った。

「痛い、痛い……‼」

 ノアの頬を幾筋かの涙が伝い、それはベゴニアの花の蕾に姿を変え、音もなく絨毯の上へと落ちた。

 やっぱり駄目か……。ノアはあまりの激痛にその場に崩れ落ちる。痛みから体が震え、助けを呼ぼうとしても声を出すことさえできない。

「ノア、大丈夫か!? ノア‼」

 薄れゆく意識の中、誰かに抱き起こされる感覚に現実へと引き戻される。あぁ、温かい……。ノアは思わずその温もりに体を寄せた。

「其方、その弱り切った体で花を生み出そうとしたのか?」

「あぁ、やっと来たのか……。来るのが遅くて待ちくたびれたぜ」

「ノア、其方は……なんて無茶なことを……」

 ノアが倒れていたことに余程驚いたのだろうか。箱庭に飛び込んできたイヴァンは真っ青な顔をしている。

 そんな表情も初めて見るノアは、思わず小さく笑ってしまった。

「国王陛下のくせに、そんな顔をすんなよ。情けねぇなぁ」

「それどころではないだろう? 今其方はバースレスに陥っているのだ。こんなボロボロの体で花を生み出そうだなんて……無茶としか言いようがないだろう」

「だって、花を生み出せば、お前は喜んでくれるだろう?」

「私の為だと言うのか?」

「……べ、べつに、お前の為じゃ……」

 思わず口をついてしまった言葉は、今更取り消すには遅かった。恥ずかしくなったノアがイヴァンから体を離そうとしたとき、逆にギュッと抱き寄せられてしまう。そのあまりの力強さに呼吸ができなくなるほどだった。

「ありがとう、ノア。私の為に……」

「だから、お前の為じゃ……」

「ありがとう」

 イヴァンの声が少しだけ震えているような気がしたから、そっと頬を撫でてやる。こんなイヴァンを見ると、ノアはひどく戸惑いを感じてしまうのだ。

 この男は、本当に自分の両親を無慈悲に殺害したイヴァンなのだろうか? それとも……。いくら考えても答えなど出ないのだが、考えずにはいられない。その度にノアの心は張り裂けそうに痛んだ。

「……おい、そんな強く抱きしめられたら、苦しいよ。離せって」

「ノア、もう無理はしないでくれ」

「わかったから。もう無理なんてしねぇよ」

 夢中でノアに縋りつくこの男が一国の主だなんて……。考えただけで可笑しくなってくる。これでは、我儘を言って甘えてくる子どものようだ。

「ノア、其方にタッピングをしたい」

「は? ま、まだ諦めてないのかお前……」

「花食みとしての私の力で、少しでも其方に元気になってもらいたいのだ」

「でも……」

「早く、バースレスが治るように……」

 イヴァンの気持ちは痛いほど伝わってくるのだが、両親を殺めた男とタッピングをすることに、ノアは強い抵抗を感じた。

 今でもあの日の夢を見て飛び起きることがある。あの日の出来事を忘れることなんて、一生ないだろう。

「ノア、私に全てを委ねてごらん? このまま抱き締めていてあげるから」

「国王陛下……」

「体の力を抜き、其方が私に身を委ねることで、タッピングの効果は発揮しやすくなると言われている。……大丈夫だ、大切にするから」

 イヴァンがノアの目の前でふわりと微笑む。満月の光を浴びるイヴァンの姿が神々しくて、ノアの体から少しずつ力が抜けていく。まるで、ダルメア神のように美しい……。

「そう、いい子だ。そのまま私を受け入れるんだよ。花食みである私の力を、花生みである其方に授けよう」

「で、でも……」

「心配するな。口づけはしない」

「ならよかった……」

「ふふっ。唇には、な」

 あ……とノアが目を見開いた瞬間、額に柔らかくて温かなものが触れる。チュッという音と共にその温もりは離れて行ってしまった。

「そのまま私に身を任せているのだぞ」

 イヴァンの唇はノアの額にもう一度触れて、柔らかな唇は頬へと移動していく。何度か頬に口づけされた後、今度は首筋に温かな唇が押し当てられた。

「体液を与えているわけではないから、正式なタッピングとは言えないだろうが……。しないよりはマシだろう。なによりも、私が其方に触れていたいのだ」

「でも、俺も気持ちいい。体がポカポカして、眠くなってくる」

「このまま抱き締めているから、眠るがいい」

「ごめん。花を生み出すことができなくて。俺、本当に役立たずだよな……」

「別にそんなことは構わない。それより、早く元気になってくれ。私の可愛いノアよ」

 イヴァンが優しく微笑みながら、そっと髪を梳いてくれる。その整った顔立ちを見つめていると、不覚にもノアの鼓動が速くなっていく。

「気持ちいい……」

 その晩、イヴァンの腕の中でノアは眠りについたのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る