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「何があった?」
「別に、何もない。」
普段は丁寧な言葉を使う僕が、ぶっきらぼうにタメ口で返しただけで、目の前の教師は露骨に顔をしかめた。
「羽瀬くん。いろいろ言われて腹が立つのはわかる。けど、優秀な君ならわかるだろ?世の中にはグッと堪えなきゃいけないこともあるんだよ。」
"グッと堪えろ?"
大切な玲衣を、勝手に頭の中で穢されても、黙っていろと言うのか。
そんなこと、無理に決まっている。
おかしなことを言う教師に、思わず笑いそうになった。
冷静になって振り返っても、むしろあのときこそ、堪える必要なんて全くなかったとすら思っている。
「今の成績なら、未来は保証されている。問題を起こすのは、賢明じゃない。そう思わないか?」
"思わないよ"
成績なんか、僕にとってなんの価値もない。
玲衣という存在と、同列に語られるなんて心外にも程があると思った。
「……よくわかりました。」
「お、そうか。さすが学年トップの羽瀬くんだな。理解が早い。とりあえず今日のことはご家族に———……」
「僕と玲衣は、退学します。」
こんな低俗な学び舎に、もう1ミリも未練はない。
「っ、羽瀬!」
慌てて僕を呼び捨てにする教師に、すでになんの感情も湧かない。
一気にすべてがどうでもよくなった。
確かに教師の言う通り、僕は"賢く"なんてなかったのかもしれない。
けれども、玲衣のことだけは———僕が命を懸けてでも守りたい、たった一つの存在だ。
どんな犠牲を払っても、傍にいたい。
それが、僕にできる"唯一"のことだから。
玲衣の苦しそうな顔が浮かんできて、今すぐにでも会いたくなる。
「勉強はどこでもできるけど、ここでは何も得られなさそうなので、もう辞めます。得られないどころか、大切なものまで奪われてしまう……それが我慢ならないんですよね。どいつもこいつも低脳すぎて。」
僕の言葉に唖然とする教師の反応なんて、もはやどうでもよかった。
「だから、もっと常識的で理性的な教師と生徒がいる学校に、転校します。」
ようやく、いつもの"王子様スマイル"を浮かべながら、非常識なこの教師に向かってそう告げた。
その出来事からまもなく、僕たち家族は都内のタワーマンションへ引っ越し、僕は公立高校へと転校した。
退学について、両親は一切反対しなかった。
世間一般から見れば、"甘すぎる"と言われるかもしれないけど、両親のような常識的で理性的な大人になりたいと、僕は本気で思った。
心の底から尊敬できる両親を持った僕は、とても幸運な人間なのではないかと思う。
それからおおよそ1年たったころ、僕はそのまま同じ高校の2年生に進級した。
そして、玲衣はしばらく学校を休んだあと、都内の女子校に転入したのだ。
1年間、どこにも所属せず休んでいた彼女は、結果的に僕と同じ学年になった。
家族はみんな心配したけれど、今では彼女も新しい生活に馴染み、悪夢やパニックに襲われることもほとんどなくなった。
ようやく、平穏で安定した日常を送れるようになったのだ。
*****
あのころも今も、玲衣のことになると必死になりすぎるところは全く変わらない。
怒って退学を決意するなんて、若さの極みだったとしか言いようがなく、思い出すだけでも笑ってしまう。
もちろん、今あの状況に戻ったとしても、僕は迷わず同じ選択をするだろう。
僕が人生のすべてを決める基準は、いつだって"玲衣"なのだから。
4歳から30歳になった今も、それだけはずっと変わらない。
———こんなに愛しているのに。
暴力夫に死ぬ寸前まで傷つけられた状況下でさえ、玲衣はなぜ僕を頼ってはくれなかったんだろう。
不意に、あの頃の玲衣の笑顔が脳裏に浮かんだ。
『じゃあ悠人の好きなタイプは?』
新しい生活が始まって間もなく、玲衣がそう聞いてきたとき、初めて僕は真正面から答えた。
『玲衣。』
驚いて目を見開いた玲衣のその表情は、今でも鮮明に思い出せる。
『4歳からずっと……玲衣しか見てないよ。』
ようやく伝えられた告白だった。
高校生になった僕の気持ちは、もう止まらなかった。
まだ若くて、失うことの怖さを知らなかった僕は、玲衣を少しずつ追い詰めていった。
『玲衣と僕は、血が繋がっていない。』
その言葉は、玲衣に言い聞かせているようで、実は自分自身に言い聞かせていたように思う。
———だから、恋愛してもいいんだよ。
一度吐き出してしまったこの想いは、もう止まらない。
喉の奥に戻すには大きすぎて、無理やり押し戻したとしても、もう、心臓まで到底届きそうになかった。
その想いをしまっておく場所なんて、すでに僕の中のどこにもない。
初めて玲衣の唇に、自分の唇を重ねたとき、その甘さに心底驚いた。
"やめて"と静かに抵抗する玲衣に、"ここまできて逃がすかよ"と思った。
そっと頭を抑えながら優しく束縛し、夢中になって奪った初めてのキス———
初めてのキスにしては、しつこく奪ったことを覚えている。
夢中だった。
しかし、あれは仕方なかったと思う。
だって、僕はそれまで、この世にあんなにも甘美な味があることを知らなかったのだから。
そのキスから始まった———名前のつけられない僕たちの関係は、ずるずると何年も続くことになるのだ。
遺伝子化学的には他人でしょ? 櫂悠里 @kai_yuuri
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