P.9 Episode 9:桜の凶報

January 15th, 2005

晴れ

Kure, HIROSHIMA

海上自衛隊 呉基地 付近



 イラクの乾いた砂塵は、呉の海沿いの街の、湿り気を帯びた冬の空気に変わっていた。


 あれから半年。風間が率いるアルファ分隊は、英雄としてではなく、ただの帰還兵として、日本の土を踏んでいた。彼らのイラクでの「戦闘」は、分厚い機密のベールに覆われ、公式には存在しない出来事とされた。


 その夜、風間、倉本、中村の三人は、基地近くの、赤提灯が心もとない光を放つ小さな居酒屋にいた。熱燗の湯気が、三人の間に立ち上っては消える。


 「……しかし、平和だよな、日本は」


 倉本が、テレビのバラエティ番組を眺めながら、手酌で酒を呷った。彼の身体には、イラクで負った傷が、今も生々しく残っている。だが、その表情は、どこか穏やかだった。


 「ああ。この平和を守るために、俺たちはいるんだ」


 中村が、焼き鳥を頬張りながら、静かに頷いた。


 風間は、何も言わず、ただ、二人のやり取りを目を細めて見ていた。部下たちの、この何気ない日常。それこそが、彼が命を懸けて持ち帰った、何よりの戦果だった。


 だが、その、つかの間の平穏は、テレビ画面に踊った、緊急速報のテロップによって、無慈悲に引き裂かれた。


 『――速報です。イラク国内で活動していた日本人NGO職員、木村祐一さん(24)が、武装勢力に拉致された模様です。犯行グループは、インターネット上に、木村さんと見られる人物の映像を公開し……』


 店の空気が、一瞬で凍りついた。


 画面に映し出されたのは、オレンジ色の囚人服を着せられ、怯えた表情で座らされた、若い日本人の姿。その背後には、黒い覆面をした男たちが、AK-47を構えて立っている。


 三人の脳裏に、サマワの、あの灼熱と硝煙の匂いが、鮮烈に蘇った。


 「……またかよ」


 倉本の、グラスを握る指に、力がこもる。


 中村は、言葉もなく、ただ、画面の中の、絶望に満ちた青年の瞳を、見つめていた。


 風間は、静かに立ち上がった。


 「……帰るぞ。すぐに、招集がかかる」


 彼の声は、すでに、居酒屋の客ではなく、戦場の指揮官のそれに、戻っていた。



January 17th, 2005

曇り

Ichigaya, TOKYO

防衛庁 統合幕僚会議



 市ヶ谷の空気は、鉛のように重かった。


 風間は、ただ一人、統合幕僚会議の、巨大な円卓の前に立たされている。彼の周囲を、制服組と背広組のトップたちが、まるで査問会のように取り囲んでいた。


 「――交渉は、暗礁に乗り上げている」


 情報本部長が、苦々しい表情で言った。


 「犯行グループは『神の聖槌』を名乗る、アルカイダ系の新興勢力だ。身代金の要求には応じているフリをしているが、その真の目的は、日本政府を交渉のテーブルにつかせ、その事実を全世界にアピールすることにある。彼らに、人質を解放する気はない」


 「……それで、我々に何をしろと?」


 風間の問いに、部屋の主である、内閣官房副長官補が、重々しく口を開いた。


 「……アメリカ側と、話がついた。NAVY SEALsが、人質奪還作戦を実行する。君たちSBUには、その作戦に『協力』してもらう」


 「協力、ですか」


 「そうだ。表向きは、あくまで米軍主導の作戦だ。万が一、我が国の隊員が作戦行動中に死傷したとしても、それは『米軍の作戦に、自衛官が巻き込まれた』という形になる。……分かるな、風間三佐。これは、そういう『政治』だ」


 風間の全身を、冷たい怒りが駆け巡った。まただ。また、この男たちは、現場の兵士の命を、自分たちの「体面」を守るための駒として使おうとしている。


 「……作戦の指揮権は?」


 「共同指揮となる。現場での判断は、君と、SEALsの指揮官に一任する。我々は、結果だけを求める。……日本の、国民の命が、君の双肩にかかっている。失敗は、許されん」


 それは、あまりにも身勝手で、そして、あまりにも無責任な命令だった。だが、風間に、拒否するという選択肢はなかった。画面の向こうで、一人の日本人が、死の恐怖に怯えている。


 「……作戦名(オペレーション・ネーム)は?」


 「――バビロンの桜」


 その、あまりにも美しく、そして不吉な響きを持つ作戦名を、風間は、唇の奥で、静かに反芻した。


 江田島に戻った風間は、アルファ分隊の全員を、ブリーフィング・ルームに集めた。


 彼は、作戦の全貌と、その裏にある政治的な欺瞞を、一切、包み隠さず部下たちに話した。


 「……これは、我々が今まで経験した、どの任務とも違う。我々は、ゴーストになる。もし捕虜になっても、国は、我々の存在を認めないだろう。事実上、片道切符の任務だ」


 風間は、隊員たちの顔を一人一人見つめた。


 「だが、俺は行く。一人の日本人を、見殺しにはできない。……この任務に参加したくない者は、今、この場で申し出ろ。俺は、それを、臆病者だとは、決して思わん」


 しんと静まり返った部屋。


 最初に、一歩前に出たのは、倉本だった。


 「冗談きついっすよ、隊長。SEALsの連中と、本物の戦争ができるんでしょ? こんな面白いパーティー、俺がパスするわけないじゃないっすか」


 彼の瞳には、恐怖ではなく、狂気にも似た、歓喜の光が宿っていた。


 続いて、中村が、静かに一歩前に出た。


 「……俺も、行きます。あのテレビの青年を、俺の家族だと思ったら、ここに残るなんてことは、できません」


 彼の言葉に、他の隊員たちも、次々と、無言で、しかし力強く、一歩前に踏み出した。


 誰一人、脱落者はいなかった。


 風間は、そんな部下たちの顔を、誇らしげに、そして、どこか哀しげに見つめた。


 彼は、この、国を信じ、仲間を信じる、あまりにも純粋な魂たちを、これから、地獄の最も深い場所へと、連れて行かなければならないのだ。


 桜は、最も美しく咲き誇った瞬間にこそ、散る運命にある。


 その、あまりにも残酷な真実を、彼は、この時、予感していたのかもしれない。

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