P.6 Episode 6:最初の銃声

April 15th, 2004

晴れ

Samawah, IRAQ

ユーフラテス川に架かる橋梁



 イラクに来て、二ヶ月が過ぎた。


 サマワの日常は、灼熱と、砂塵と、そして、じりじりと神経を削るような単調な緊張感に支配されていた。風間たちが警護する、ユーフラテス川に架かる橋は、日本のODAによって建設された、この地域の復興の象徴だった。だが、その袂に築かれた検問所で、彼らは日に何百台という車両を検問し、日に何千人という、友好的とも敵対的ともつかない視線に晒され続けていた。


 「……またガキどもが来たぜ」


 検問所の土嚢の陰で、倉本が吐き捨てるように言った。橋の向こうから、数人の子供たちが、物乞いなのか、あるいはただの好奇心か、こちらへ向かって走ってくる。


 「追い払うなよ、倉本」


 中村が、水筒の水を飲みながら、静かに言った。彼は、この二ヶ月で、子供たちの顔と名前をほとんど覚えていた。


 「アリ、今日は学校はどうだった?」


 中村が、片言のアラビア語で話しかけると、アリと呼ばれた一番年長の少年が、はにかみながら「楽しいよ、ナカムラ」と答えた。その光景は、一見すると、心温まる交流に見えた。


 だが、風間は、その光景から目を離さなかった。彼の目は、子供たちの背後、陽炎のように揺らめく街並みの、さらに奥を見据えている。


 (……空気が、違う)


 いつもの喧騒がない。人々が、家の奥に引っ込んでいる。まるで、嵐の前の静けさ。


 その、風間の直感が警鐘を鳴らした、数分後だった。


 橋の向こう側から、一台の古びたピックアップトラックが、猛然とスピードを上げて検問所へと突っ込んできた。


 「車両接近! 止まれ!」


 陸自隊員が拡声器で叫ぶ。だが、トラックは止まらない。


 「……RPG!」


 中村の絶叫と、トラックの荷台からロケット弾が発射されたのは、ほぼ同時だった。


 轟音。


 検問所の脇に設置されていた監視塔が、オレンジ色の閃光に包まれ、鉄骨を軋ませながら崩れ落ちる。


 それを合図に、橋の両側、そして川岸の葦の中から、潜んでいた武装勢力が一斉に火蓋を切った。AK-47の甲高い発砲音が、一帯を支配する。


 「敵襲! 敵襲! 全員、応戦せよ!」


 風間の怒号が響き渡る。


 SBUアルファ分隊は、瞬時に反応した。他の陸自隊員が混乱する中、彼らだけは、まるで訓練通りであるかのように、冷静に、そして機械的に動き始めた。


 「倉本、橋の西側を制圧! それ以上、一匹も近づけるな!」


 「おうよ! やっとパーティーの始まりか!」


 倉本は、獣のような笑みを浮かべ、土嚢から飛び出すと、遮蔽物から遮蔽物へと滑るように移動しながら、MP5の弾丸を、正確に敵の頭部へと送り込んでいく。彼の牙が、ついに剥き出しになった。


 「中村、負傷者を下がらせろ! 民間人を巻き込むな!」


 「了解!」


 中村は、銃撃に怯えて泣き叫ぶアリたち子供を、自分の身体を盾にするようにして、安全な場所へと誘導する。そして、被弾した陸自隊員に応急処置を施しながら、冷静に援護射撃を続けた。彼の盾が、この地獄の中で、か細い生命線となっていた。


 だが、敵の攻撃は、あまりにも組織的だった。これは、単なるゲリラではない。高度な軍事訓練を受けた、プロの部隊。


 「隊長! 敵の一部が、川下からボートで接近! 橋脚を狙っています!」


 中村の報告に、風間は歯噛みした。敵の本当の狙いは、検問所の突破ではなく、この橋そのものの破壊。復興の象徴を断ち切ることだったのだ。


 「……東京、応答せよ! こちらアルファ! 敵の攻撃を受け、交戦中! 橋が危険だ、航空支援を要請する!」


 風間が、衛星無線で司令部へ絶叫する。


 だが、返ってきたのは、絶望的な言葉だった。


 『……許可できない。ROE(交戦規定)を厳守せよ。あくまで、警護活動に徹しろ、とのお達しだ』


 「ふざけるなッ!」

 風間の怒りが、爆発した。この期に及んで、まだ政治の論理を口にするのか。


 その時、風間の視界の隅で、信じられない光景が映った。


 川岸のボートから降りた数人の敵兵が、先ほど中村が飴玉を渡した少年、アリを捕らえ、その身体を盾にしながら、橋脚へと近づいてくる。


 「……健太! 撃つな!」


 倉本が、アリの姿に気づき、絶叫する。


 中村は、ライフルを構えたまま、凍りついていた。スコープの十字線の先に、恐怖に歪む、アリの顔が見える。引き金を、引けない。


 敵兵は、アリの頭に銃口を突きつけながら、橋脚に爆薬を設置しようとしている。


 万事休す。


 誰もが、そう思った瞬間。


 風間の、89式小銃が火を噴いた。


 それは、二発の、神業的な狙撃だった。


 一発目の弾丸が、アリの頭を、ミリ単位でかすめ、背後の敵兵の眉間を正確に貫いた。


 二発目の弾丸は、その兵士が持っていた爆薬の起爆装置を、弾き飛ばしていた。


 一瞬の静寂。


 アリは、その場にへたり込み、そして、残りの敵兵たちは、信じられないものを見たという表情で、散り散りに逃げていった。


 戦闘は、終わった。


 後に残されたのは、数名の負傷者と、薬莢の匂い、そして、泣きじゃくるアリの、甲高い声だけだった。


 中村は、震える足でアリのもとへ駆け寄り、その小さな身体を力強く抱きしめた。


 倉本は、何も言わず、ただ、風間の、信じられない狙撃の腕前に、呆然と立ち尽くしていた。


 風間は、ライフルの銃口から立ち上る、細い硝煙を見つめていた。


 東京が定めたルールは、破られた。彼は、自らの判断で、攻撃的な狙撃を行ったのだ。


 だが、彼の心に、後悔はなかった。


 (これが、俺たちの戦場だ)


 非戦闘地域という、政治家たちが作り出した陽炎は、この最初の銃声によって、完全に消し飛んだ。


 彼らは、この砂塵の大地で、初めて、本当の意味で自らの存在理由を証明したのだ。守るべきもののために、牙を剥き、盾となる。ただ、それだけのために。

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