P.5 Episode 5:サマワの陽炎

February 10th, 2004

快晴

Samawah, IRAQ

陸上自衛隊 イラク復興支援群 宿営地



 航空自衛隊のC-130輸送機の後部ハッチが開いた瞬間、彼らの身体を叩きつけたのは、熱した鉄の塊のような、乾ききった熱風だった。日本の湿った空気とは全く違う、鼻腔の奥を焼くような砂塵の匂い。そして、どこまでも続く、白茶けた大地。


 そこが、彼らの新たな戦場、イラクのサマワだった。


 陸上自衛隊が設営した宿営地は、砂漠の真ん中に突如として現れた、日本の秩序そのものだった。整然と並ぶプレハブの兵舎、高くそびえる給水塔、そして周囲を囲む、分厚い防爆壁と有刺鉄線。


 「……ここが、俺たちの城か」


 倉本が、物珍しそうに周囲を見渡しながら呟いた。


 「城であり、鳥籠でもある」


 風間は、厳しい表情を崩さずに応えた。彼の目は、すでに壁の向こう側、陽炎のように揺らめくサマワの市街地を睨みつけていた。


 彼らSBUアルファ分隊の任務は、この宿営地を拠点として、給水活動やインフラ整備を行う陸自部隊を、あらゆる脅威から守護すること。だが、東京が定めた「非戦闘地域」という言葉は、この地では虚しい蜃気楼(ミラージュ)に過ぎなかった。IED(即席爆発装置)によるテロ、宗派間の小競り合い、そして、復興支援という名の「占領」に反発する地元住民の、見えない敵意。死は、常に日常のすぐ隣に潜んでいた。



February 28th, 2004

晴れ

Samawah, IRAQ

市内



 その日、彼らに初めての市街地警護任務が下った。陸自の施設科部隊が、浄水施設の建設予定地を視察するための警護だ。


 風間を先頭に、倉本がポイントマン(先頭斥候)を務め、中村が後方の警戒を担当する。他の数名の隊員たちが、その周囲を固め、扇状の警戒網を形成していた。高機動車の上で、重機関銃の銃座についた隊員の目が、神経質に周囲の建物の屋上を走査する。


 サマワの市街地は、混沌としていた。土埃の舞う通り、スパイスと汚水の匂い、そして、こちらを値踏みするような、現地住民たちの視線。子供たちは、物珍しそうに後をついてくるが、若い男たちの目には、明らかに敵意が宿っていた。


 「……健太、三時の方向、屋上。怪しい人影」


 倉本の、ヘッドセットを通した低い声が飛ぶ。


 「……確認した。ただの洗濯物だ。落ち着け、倉本」


 中村が、冷静に応じる。彼の目は、脅威だけでなく、この土地の人々の生活そのものを見ようとしていた。瓦礫の山で遊ぶ子供たち、井戸の周りで談笑する女たち。その、あまりにも普遍的な日常の光景が、この場所が戦場であることを、逆に際立たせていた。


 中村は、ポケットから、日本から持ってきた飴玉を一つ取り出すと、後をついてくる子供の一人に、そっと手渡した。子供は、一瞬怯えたような顔をしたが、やがてはにかむように笑い、それを受け取った。


 その光景を、倉本は、ヘルメットの下で忌々しげに見ていた。


 (お人好しが……)


 彼にとって、この土地の人間は、友好的な者も含めて、すべてが潜在的な脅威にしか見えなかった。


 視察が無事に終わり、宿営地への帰路についた時だった。


 部隊が、狭い路地を抜けようとした、その瞬間。


 「待て!」


 風間の、鋭い声が響いた。


 全隊員の動きが、ぴたりと止まる。


 風間の視線の先、数十メートル先の道端に、不自然に土が盛り上がった箇所があった。そこから、細い導線のようなものが、近くの廃屋へと伸びている。


 IED。


 この地で、最も卑劣で、最も一般的な、死の罠。


 「……クソが」


 倉本が、悪態をつく。


 風間は、動揺する部下たちを冷静に制すると、即座に命令を下した。


 「中村、爆発物処理班(EOD)に連絡。座標を送れ。倉本、俺と来い。周囲を警戒する。残りの者は、この場で防御態勢を維持。何があっても、動くな」


 じりじりと、アスファルトを焼く太陽。どこからか聞こえる、祈りの時間を告げるアザーンの響き。そして、いつ爆発するとも知れない、死との睨み合い。


 隊員たちの額を、汗が伝う。それは、暑さのせいだけではなかった。


 数十分後。到着した陸自の処理班によって、IEDは無事に処理された。


 宿営地に戻った時、彼らは、全身が砂埃と、そして、精神的な疲労で、まるで鉛のようだった。


 その夜。


 中村は、一人、兵舎のベッドで、故郷の両親への手紙を書いていた。『――こちらの生活にも慣れました。人々は皆、親切です』と。


 倉本は、独り、暗いトレーニングルームで、サンドバッグに怒りをぶつけるように、拳を叩きつけていた。


 そして風間は、司令室で、今日のルートを選定した自分自身を、静かに、そして厳しく問い直していた。


 彼らは、まだ一発の弾丸も撃ってはいなかった。


 だが、彼らの戦争は、すでに始まっていたのだ。


 東京が描く「人道支援」という名の陽炎の向こう側で、彼らは、本物の死の感触を、その肌で、確かに感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る