P.4 Episode 4:政治の季節

September 11th, 2001

晴れ

Etajima, HIROSHIMA

海上自衛隊 特別警備隊 隊員宿舎



 その日、世界は変わった。


 江田島の隊員宿舎にある食堂のテレビが映し出したのは、ニューヨークの摩天楼から黒煙を上げる、この世の終わりのような光景だった。バラエティ番組が流れているはずだった画面は、現地の悲鳴と怒号、そして燃え盛るビルの轟音だけを、ただひたすらに垂れ流していた。


 箸を止め、画面に釘付けになる隊員たち。その中で、倉本は興奮を隠しきれないといった様子で、隣に座る中村の肩を叩いた。


 「おい、健太……見たかよ。戦争だ。本物の戦争が、始まるぜ」


 彼の瞳は、恐怖ではなく、自らの牙を試す場所を見つけた獣のような、危うい輝きを放っていた。


 「……黙れ、倉本」


 中村は、画面から目を逸らさずに、静かに、だが強い口調で言った。


 「死んでいるんだぞ。俺たちと同じ、普通の人たちが」


 彼の言葉に、食堂の空気はより一層重くなった。


 少し離れた席で、風間竜司は、ただ無言でその光景を見つめていた。彼の頭脳は、すでにこの事件がもたらすであろう、世界のパワーバランスの変化、そして、日本の、自衛隊の未来を冷静に分析していた。


 (……時代が、動く)


 それは、もはや誰にも止められない、地殻変動の始まりだった。



March 20th, 2003

曇り

Ichigaya, TOKYO

防衛庁庁舎



 二年半の歳月が流れ、イラク戦争が勃発した。


 市ヶ谷にある防衛庁庁舎の一室では、見えない硝煙が立ち込めていた。背広姿の官僚と、制服組のトップたちが、分厚い資料を前に、終わりの見えない議論を続けている。議題は一つ。イラクへの自衛隊派遣。


 「……あくまで、人道復興支援が目的です。活動は、非戦闘地域に限定する」


 内閣府から派遣された官僚が、眼鏡の奥の冷たい目で言った。


 「非戦闘地域だと?」


 制服組の一人が、苦々しく反論する。


 「今のイラクに、そんな場所がどこにあると言うんですか。机上の空論だ。隊員の命を危険に晒すことになる」


 「だからこそ、特別警備隊に白羽の矢が立ったのでしょう」官僚は、表情一つ変えずに続けた。「彼らは、そのためのプロフェッショナルだ。それに、これは決定事項です。国際社会における、我が国の立場を示すための、高度に政治的な判断だ。……現場は、黙って駒として動いていただければいい」


 その冷酷な言葉が、この国の「正義」の正体だった。現場の隊員の命は、国際社会での日本の「体面」という天秤の上で、常に軽く扱われる。



November 10th, 2003

晴れ

Etajima, HIROSHIMA

SBU ブリーフィング・ルーム



 風間が率いるアルファ分隊の隊員たちが、張り詰めた空気の中で整列していた。倉本と中村も、その中にいる。彼らの前で、風間は、東京から送られてきたばかりの命令書を読み上げた。


 「――以上だ。我がアルファ分隊は、陸上自衛隊イラク復興支援群の先遣隊として、サマワに派遣される。任務は、宿営地の警備、及び、関連施設の安全確保。交戦規定(ROE)は、極めて限定的だ。我々は、あくまで『自衛』のためにのみ、武器の使用が許される」


 その言葉に、隊員たちの間に、かすかな動揺が走った。


 「……つまり、撃たれてからじゃねえと、撃ち返せねえってことですか?」


 倉本が、納得のいかないといった口調で尋ねる。

「そうだ」風間は、静かに頷いた。「俺たちは、戦いに行くんじゃない。国が定めた『非戦闘地域』という名の舞台の上で、平和を『演じ』に行くんだ。だが、忘れるな。舞台の上でも、飛んでくる弾丸は本物だ。俺の仕事は、この理不尽なルールの下で、お前たち全員を、無事に日本へ連れ帰ること。そのために、俺の命令は絶対だ。いいな」


 「「「応!!」」」


 分隊員たちの、腹の底からの声が、ブリーフィング・ルームを震わせた。


 その夜。


 倉本と中村は、アルファ分隊の他の隊員たちと共に、黙々と個人装備の最終確認を行っていた。


 「……なあ、健太。俺たち、本当に生きて帰れんのかね」


 珍しく弱気な倉本の言葉に、中村は、愛用の89式小銃の薬室を入念に確認しながら、静かに答えた。


 「分からない。だが、俺は、俺の盾で、お前の背中を守る。お前は、お前の牙で、俺の前を切り拓け。……二人一緒なら、どこでだって生きていけるさ」


 その言葉に、倉本は、ふっと悪態をつくように笑った。


 「……言ってろ、優等生が」


 だが、その横顔には、安堵の色が浮かんでいた。


 風間は、独り、司令室でイラクの地図を睨みつけていた。サマワ。非戦闘地域。その言葉が、まるで蜃気楼のように、彼の目には虚しく映っていた。彼は、これから向かう場所が、決して安全な場所ではないことを、誰よりも理解していた。そして、部下たちの命運が、己の双肩に、そして、東京にいる官僚たちの、都合一つにかかっているという、その残酷な事実も。


 数日後。


 夜の滑走路から、航空自衛隊のC-130輸送機が、重いエンジン音を響かせて飛び立っていった。


 風間、倉本、中村。そして、彼らの仲間たちを乗せた鉄の鳥は、日本の平和な夜景を後にし、砂塵と、見えない悪意が渦巻く、イラクの空へと、その機首を向けた。

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