P.3 Episode 3:南海の牙

June 18th, 2003

快晴

Off the coast of the Bashi Channel

海上自衛隊 護衛艦「いかづち」CIC



 マラッカ海峡へと続く、バシー海峡。アジアの海上交通の要衝であるこの海域は、しかし、法の光が届きにくい無法の海でもあった。護衛艦「いかづち」の戦闘指揮所(CIC)は、青いレーダーの光と、無数の計器類が放つ電子音に満たされ、外界の灼熱の太陽とは別世界の、冷たい緊張感に支配されていた。


 その中央に立つ風間竜司の顔は、能面のように硬い。彼の背後の大型スクリーンには、東京・市ヶ谷の統合幕僚会議の会議室が、衛星回線を通じて映し出されている。画面の向こう側で、仕立ての良いスーツに身を包んだ防衛官僚が、感情の乗らない声で告げた。


 『――以上が政府の最終決定だ、風間三佐。人質の安全確保を最優先とする。犯人側が投降に応じない場合に限り、やむを得ない場合にのみ、限定的な武力行使を許可する。ただし、船体への損傷は最小限に。国際社会への配慮を忘れるな』


 「……それは、事実上、我々の手足を縛るということですか」


 風間の声は、静かだったが、その奥には鋼のような怒りが込められていた。数時間前、日本の大手海運会社が所有する大型貨物船「あかつき丸」が、国籍不明の武装集団にシージャックされた。乗組員二十名は、全員人質。犯人グループは、高度な軍事訓練を受けたプロと見られ、身代金の要求もなく、沈黙を続けている。


 『言葉に気をつけろ、三佐』官僚は、画面の向こうで不快げに眉をひそめた。『これは、君たちが手柄を立てるための戦争ではない。あくまで、警察権の延長線上にある、警護活動だ。その点を、ゆめゆめ忘れるな』


 一方的に通信が切れる。風間は、無言で受話器を置いた。CICの空気が、鉛のように重くなる。

「……だ、そうです」風間は、背後に立つ二人の部下、倉本と中村に振り返り、自嘲気味に言った。「『やむを得ない場合に限り』、か。ずいぶんと、現場を信用してくれているらしい」


 「言ってくれるじゃんか、東京のお偉方はよぉ!」


 倉本が、吐き捨てるように言った。彼の指が、戦闘ベストに装着されたナイフの柄を、神経質に撫でている。


 「『穏便に』だと? だったら、自分たちで丸腰で説得に行ってみろってんだよな、健太!」


 「……まあ、落ち着け、倉本」


 中村が、冷静に親友をなだめる。彼の目は、すでに目の前のモニターに映し出された「あかつき丸」の設計図を、分析するように見つめていた。


 「彼らには、彼らの戦い方がある。そして、俺たちには、俺たちのやり方がある。そうだろ、隊長」


 「……ああ」


 風間は、短く頷いた。彼の頭脳は、この絶望的な制約(ルール)の中で、いかにして完璧な勝利(ゲーム)を収めるか、そのための盤面を、すでに描き出し始めていた。


 「作戦を開始する。中村、最終的な突入経路(アプローチ・ルート)を割り出せ。倉本、お前の牙を研いでおけ。今夜、派手に狩りをするぞ」


 その言葉に、倉本の瞳に獰猛な光が戻り、中村は静かに、しかし力強く頷いた。


 彼らは、国家という巨大な機械の、一つの歯車に過ぎない。だが、彼らは、自らの意志で、その暗く、血に濡れた場所で、回り続けることを選んだ、誇り高き歯車だった。



June 19th, 2003

新月

Off the coast of the Bashi Channel

周辺海域



 夜の海は、インクをぶちまけたように、どこまでも黒かった。


 月明かりすらない闇の中を、一隻の複合型高速艇(RHIB)が、エンジン音を極限まで殺し、波を切り裂いていく。乗っているのは、風間、倉本、中村を中核とするアルファ分隊の隊員たち。黒いウェットスーツに身を包み、彼らは一つの影となって闇に溶け込んでいた。


 前方の闇の中に、貨物船「あかつき丸」の巨大なシルエットが、まるで伝説の怪物のように浮かび上がっていた。


 「……これより、最終接近(ファイナル・アプローチ)を開始する」


 風間の囁きが、ヘッドセットを通じて全隊員の鼓膜を静かに震わせる。


 RHIBが、音もなく船体へと接舷する。隊員たちが、特殊な吸盤が付いたワイヤーを投げ、船の側面に固定。風間たち三人を先頭に、分隊は、そのワイヤーを伝い、巨大な鋼鉄の壁を登り始めた。


 甲板に降り立った瞬間、彼らは、完璧に統制された戦闘ユニットと化した。


 倉本が、音もなく先頭に立つ。彼の両手には、サプレッサーを装着したMP5が握られている。中村が、その後方をカバー。そして、風間が、最後尾から全体の状況を把握し、ハンドサインだけで指示を送る。他の隊員たちが、彼らの周囲を固め、死角のないフォーメーションを組んでいた。


 彼らは、三位一体の、完璧な殺戮機械だった。


 船橋(ブリッジ)へと続く通路。角の向こう側に、敵の歩哨の気配。


 倉本が、壁に背をつけ、指で「二」とサインを送る。


 中村が、静かに頷き、反対側の壁に移動する。


 風間の、かすかな合図。


 倉本と中村は、同時に角から飛び出した。


 緑色の視界の中で、二つの影が驚愕に目を見開く。だが、彼らが声を上げるよりも早く、二つの、抑えられた発砲音が闇に響いた。歩哨たちは、声もなく、その場に崩れ落ちる。


 彼らは、船内を、まるで自分たちの家のように進んでいく。中村の記憶した設計図が、彼らの脳内で完璧なナビゲーターとなっていた。


 そして、ついに、人質が監禁されている船倉へとたどり着いた。


 分厚い鉄の扉の向こう側から、複数の話し声と、人質の怯えたような気配が伝わってくる。


 風間が、扉の隙間に、極小のファイバースコープを滑り込ませた。


 『……敵、五名。人質は、奥に固められている。全員、生存を確認』


 倉本が、扉に小型の指向性爆薬(ブリーチング・チャージ)を設置する。


 中村は、閃光弾を構えた。


 風間が、カウントダウンを開始する。


 『……スリー、ツー、ワン……マーク』


 轟音。


 鉄の扉が、内側へと吹き飛ぶ。


 中村が投げ込んだ閃光弾が、船倉内を純白の光と轟音で満たした。


 その光が消えるか消えないかのうちに、倉本が、弾丸のように内部へと突入した。


 緑色の視界の中で、混乱する敵の影が、彼のMP5の弾丸によって、次々と沈黙していく。


 「クリア!」


 突入から、わずか十数秒。


 船倉内には、硝煙の匂いと、呆然と座り込む人質たち、そして、五体のテロリストの亡骸だけが残されていた。


 中村が、銃を構えたまま、ゆっくりと人質たちに近づく。


 「……大丈夫ですか。我々は、自衛隊です。助けに来ました」


 その、穏やかな声に、人質たちの間から、嗚咽が漏れ始めた。


 夜が明け、水平線が白み始める頃。


 風間たちは、解放された乗組員と共に、護衛艦「いかづち」へと帰還した。


 作戦は、完璧な成功に終わった。


 艦上で、風間は、東京への報告書を、淡々と作成していた。


 その横顔に、英雄的な高揚感はない。ただ、自らの職務を、寸分の狂いもなく遂行した、一人の職業自衛官の、静かな疲労と、そして、誇りだけが刻まれていた。


 だが、彼はまだ知らなかった。


 この完璧な成功体験こそが、後に彼らを、より深く、そして救いのない地獄へと導く、最初の道標となることを。

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