P.2 Episode 2:牙と盾

July 10th, 2002

曇り時々雨

Etajima, HIROSHIMA

海上自衛隊 特別警備隊 訓練施設



 梅雨明けの湿った熱気が、江田島の訓練施設に纏わりついていた。風間の命令でバディを組まされてから三ヶ月。倉本と中村の関係は、水と油だった。いや、むしろ発火寸前のガソリンと、それを必死で鎮めようとする水、と表現する方が正確かもしれなかった。


 衝突は、室内近接戦闘(CQB)訓練の場で起きた。


 「――突入!」


 風間の号令と同時に、倉本がドアを蹴破り、閃光弾を投げ込む。だが、彼は中村とのブリーチング(突入)のタイミングを無視し、単独で内部へと突進した。


 「うおおぉぉッ!」


 獣のような雄叫びを上げ、倉本は部屋の中にいたテロリスト役のダミー人形を、一瞬で無力化していく。その動きは、常人離れした反射神経と、獰猛なまでの攻撃性に満ちていた。


 だが、彼が最後のターゲットの首にナイフを突き立てた瞬間、背後のドアから突入しようとしていた中村の足元で、センサーが赤い光を放った。倉本が確認を怠った、ブービートラップだ。


 「……倉本、アウトだ」


 訓練終了後、風間は、汗だくの倉本に冷たく告げた。


 「はぁ!? なんでだよ、隊長! 敵は全員、俺一人でやったじゃんか!」


 「その結果、お前の背中を守るはずだった中村が死んだ。戦場で最初に死ぬのは、お前のような英雄気取りの馬鹿だ。自分の強さに溺れ、仲間の命を勘定に入れられない兵士は、牙ですらない。ただの狂犬だ」


 風間の言葉は、鋭利な刃物のように倉本のプライドを切り裂いた。


 その夜、整備室で、中村が黙々と濡れた装備を拭いている倉本に、静かに声をかけた。


 「……今日の動きじゃ、俺はお前の背中を預けられない」


 「あぁ!? てめえ、俺の足手まといだったくせに、何言ってんだ!」


 「足手まといで結構だ。だが、死んだ仲間は戻ってこない。俺は、お前と死ぬのはごめんだ」


 中村の瞳は、どこまでも冷静だった。倉本は、怒りに顔を歪ませ、整備用のオイル缶を壁に叩きつけた。


 二人の間の溝は、決定的になったかのように見えた。



August 2nd, 2002

台風接近

Etajima, HIROSHIMA

SBU 無人島サバイバル訓練区域



 SBUの基礎訓練の集大成、「試練」と呼ばれる七十二時間の無人島サバイバル訓練。台風が接近する中、候補生たちは、ナイフ一本と最低限の装備だけで、この極限状況を生き延びなければならなかった。


 倉本は、持ち前の野生の勘で、食料となる動植物を見つけ出し、初日は優位に進めているように見えた。だが、二日目の夜。吹き荒れる暴風雨が、容赦なく彼の体温を奪っていく。彼の強さの源泉であったはずの肉体が、自然という抗いようのない暴力の前に、悲鳴を上げていた。


 低体温症と疲労で、倉本の意識が朦朧とし始めた、その時だった。


 「倉本、しっかりしろ!」


 背後から、中村が、彼の身体を力強く抱きかかえた。中村は、風上に洞窟を見つけ、そこを避難場所として確保していたのだ。


 「……うるせえ……俺は、まだ……」


 強がる倉本の口に、中村は、自分が苦労して手に入れた木の実と、沸かした雨水を無理やりねじ込んだ。


 「食え。そして、寝ろ。火の番は俺がやる」


 洞窟の中、焚き火の心もとない光が、二人の疲弊した顔を照らし出す。倉本は、寒さで震える身体を、中村に預けるしかなかった。中村は、そんな倉本の身体を、自分の体温で温めながら、静かに言った。


 「……お前の牙は、確かにすごい。俺にはないものだ。だがな、牙だけじゃ、嵐の夜は越えられないんだ」


 その言葉は、倉本の心の、最も柔らかい場所に、静かに突き刺さった。彼は、初めて、自分の弱さを認めた。そして、隣にいる男の、決して折れない精神という「盾」の、本当の強さを知った。



August 4th, 2002

快晴

Etajima, HIROSHIMA

海上自衛隊 特別警備隊 訓練施設



 嵐が去り、嘘のような青空が広がっていた。


 訓練の最終日、最後の課題は、高さ二十メートルの断崖絶壁を、バディのザイル確保のみを頼りに登攀することだった。


 先に登るのは、倉本。彼の回復した肉体は、水を得た魚のように、軽々と崖を登っていく。


 だが、彼が頂上まであと数メートルという地点で、足をかけた岩が崩れた。彼の身体が、宙に投げ出される。


 「うおっ!」


 全ての体重が、一本のザイルに、そして、そのザイルを確保する中村の両肩にかかった。


 「ぐっ……!」


 中村の身体が、地面を削り、崖下へと引きずられそうになる。だが、彼は歯を食いしばり、決してザイルを離さなかった。その顔は、苦痛に歪み、腕の筋肉はちぎれんばかりに盛り上がっている。


 「……倉本!」中村が、絞り出すように叫んだ。「お前の牙を、信じろ!」


 その声に、倉本は我に返った。彼は、宙吊りのまま体勢を立て直すと、崩れた岩盤の、僅か数センチの突起に、指先を食い込ませた。そして、獣のような咆哮と共に、一気に身体を引き上げ、崖の頂上へと転がり込んだ。


 訓練を終え、泥だらけで帰投する二人。


 先に口を開いたのは、倉本だった。


 「……悪かったな、健太」


 「何がだ」


 「……いや、別に。……サンキュ」


 倉本は、照れくさそうに、そっぽを向いて言った。中村は、そんな親友の横顔を見て、初めて、悪戯っぽく笑った。


 「どういたしまして、狂犬殿」


 遠くの監視塔の上から、風間が、その二人を双眼鏡で静かに見つめていた。彼の口元に、誰にも気づかれないほどの、微かな笑みが浮かんでいた。


 鋭すぎる牙と、優しすぎる盾。


 二つの魂は、互いの痛みと強さを認め合い、この日、ようやく一つの、かけがえのない戦士へと生まれ変わろうとしていた。


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