創造者

是永是之介

創造者

イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。

「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

                             —ヨハネの福音書



一四九八年、欧州ロンバルディア地方ミラノ公国は、人口十二万五千人を抱える大都市であった。人々が行き交うこの都市は、多種多様な人材で溢れており、芸術・文化面で栄華を極め、中世後期に欧州で広がった、「古代再生」と称される運動の一端を担っていたと言っても相違ない。 

 大都市ミラノ公国を治めていたルドヴィーゴ・スフォルツァ公は、かねてよりミラノ公国の実質的な支配者であったが、彼が正式にミラノ公に座したのは近年のことである。ミラノ公国は花の都フィレンツェとは政治体制が異なり、商人による共和制ではなく、君主制を敷いていた。圧倒的な軍事力によって、君主として国を機能させていたミラノ公は世襲制で、古くはヴィスコンティ家より、その後はスフォルツァ家の当主が務めることになっている。ミラノ公継承のため血みどろの横行を強いたルドヴィーゴ・スフォルツァはイル・モーロと呼ばれたわけだが、それは彼の肌の色からそう呼称されるのか、それとも、彼の残虐な人間性からなのかは定かではない。彼は虎子眈々とミラノ公国君主の地位を狙っていた。彼の現実的で加虐な性質は人となりとしては悩ましいところだが、畢竟、政治の上では功を奏し、その才を遺憾なく発揮させた。いつしか彼はミラノ公国の統治者となった。彼の実地的支配によって、ミラノ公国は敵国に牽制し、敵国の矛先をかわし、戦争から遠ざかった。ルドヴィーゴは他国より学者や芸術家を集め、自らの権力を誇示し、威信を高め、国の地位を盤石なものにさせていった。そして、自国繁栄へと繋げた。ゆえに、ミラノは文化人が数多く往来する大都市となっている。

 ミラノ市街の通りに目を向ければ、その活気に圧倒される。荷車を引く運搬屋、いななく驢馬、野菜を売る商人、喧嘩をする若人、子供の手を引く母親、石工や画家、淫売婦の女達、通りは人波に溢れている。そこはまさに行人絡繹と言った様子で忙しなく、喧噪が絶え間ない。その騒々しさは一様ではない。荷車が転がれば軋む音が鳴り、騾馬が通れば蹄鉄の地面を踏む音が鳴る。商人の威勢の良い文句が街路に響き渡る。集う女性達の噂話は耳に入る。子供の泣き声は否応にも聞こえてくる。学徒らの知性を携えた議論は今日もやかましい。あらゆる音が総合し、騒々しさが通りに表れているのだ。

 賑わう民衆の声色は依然として明るく、今日も快活とした面持ちを浮かべながら各々励んでいるように見える。しかし、その声の奥に、表情の奥に、行動の奥に、一抹の不安の影がときおり窺える。皆、その内部に、これから先の世に起こるかもしれない何かを恐れているのが、声から、表情から、仕草から、行動から、かすかに伝わる。

 それには幾つかの要因がある。一つ目の理由が黒死病である。黒死病は欧州で猛威を振るっていた。人々に急速な勢いで感染し、今日の医学では抑えようがない伝染病だった。ミラノもその脅威に敵わず、至る所で感染者が倒れていた。赤黒い皮膚の感染者は惨たらしく横倒れ、苦しみ、生死を彷徨っている。医療の施しようもない黒死病感染者は、ただ、十字を切り、神に祈ることしかできなかった。

 二つ目の理由は飢えである。ミラノ市民の中には飢えを余儀なくされる者もいた。体つきを見れば、ある程度その者の暮らしぶりが想像できる。仕事がある者は幾ばくかの蓄えがあるが、仕事のない貧者は飢餓に苦しみ、残飯をあさることで何とか空腹を凌いでいた。痩せ細った貧者の肉体。彼らの犬猫のような暮らしぶりは、ミラノ市民の悲観的な想像をかき立てていた。

 三つ目の理由は戦争の予感である。モーロ公の冷徹で無慈悲、狡猾な性格は、他国の反感を買う理由にもなり得た。これまで近隣諸国と上手く同盟を組み、自らを優位に進めてきたモーロ公だったが、フランスとのいざこざには頭を抱えていた。シャルル八世没後、新たなフランス王に座したルイ十二世は、第一次イタリア戦争の結果より、ルドヴィーゴ・スフォルツァに対して強い因縁を持っていた。ルドヴィーゴは、これまでミラノ公国の裏の支配者として軍事を機能させ、自国防衛を果たし、国民に安寧をもたらしてきたが、彼がミラノ公に即位したころより、フランスに動きが見え始め、政治の雲行きが怪しくなっていた。そして、その状況は宮廷にいる貴族や知識人だけでなく、ミラノ市街に住む民衆も、にわかに感じ取っていた。このきなくさい空気感がミラノ市街の中で蔓延しており、皆、心を落ち着かせられなかった。

 何か大きな事が起こりそうな空気感。それが自分らの生活を脅かすかもしれないという恐怖感、不安は、皆を混乱に導く。異端審問、魔女狩り、世紀末思想…。人は人を疑い、裏切り、欺く。厭世観から脱するため、ミラノ市民は各々、神に祈ったり、妻と愛し合ったり、友と酒を交わしたりしながら、時代を享楽的に生きようとした。ゆえに、街は一見賑やかに思える。しかし、不安から解放されている者はいない。祈りを捧げること、愛すること、慕うこと、あらゆる「信頼」には、わずかに疑いや裏切りの可能性が孕むことを、皆、心の暗部でわかっていた。

 ミラノ市街は今日混沌とし、落ち着きがなく、張り詰めた形相を漂わせていた。




 さて、宮廷に焦点を当てる。宵のスフォルツァ城の広間には多人数が集っていた。枢機卿から将軍、廷臣などのお役人、さらに天文学、医学、数学等々あらゆる専門学者がそこにはいた。また、モーロ公の姿もそこに見られた。彼らは声高らかに弁舌する芸術家の言葉に耳を傾けていた。

 一人の詩人が言った。

「僭越ながら、私は、あらゆる芸術の中で最も優れているのは、詩学ではないかと存じ上げております。」

「その意は?」

 司会者が問うた。

「詩は、我々を想像の世界へ誘います。会ったこともない過去の人物が、今まさにここにいるかのように感じられるのは、彼らの言葉を聞けるのは、詩があるからではないでしょうか。古代ギリシアの数多の知恵や知識を学べるのも、アレクサンダー大王や英雄カエサルの伝説を、彼らの言葉を聞けるのも、文学の産物と言えるのではないでしょうか。」

 おお、と感嘆する声があがった。詩人は自身の論述を誇示するかのように、にんまりと笑みを浮かべ、さらに発言した。

「我々に多大なる影響を与えたダンテの神曲。我々はその詩に触れることで、時に天国、時に煉獄、そして天国まで足を運ぶ。そのような事象を起こせるのは、ありとあらゆる芸術の中で詩だけではないだろうか。」

 彼はまさに詩を吟ずるかのような熱烈な口調で、意見を論じ上げた。今夜の議題の解はあげられたような空気感に包まれた。

 宮廷では、討論の夕べが催されていた。宮廷に集った芸術家や貴族らが議論好きなのは言うまでもない。スフォルツァ城内ではダンテの詩の解釈、聖書についての討論などが、連日どこからともなく聞こえてくる次第であった。

特に、哲学や天文学から芸術など、ありとあらゆる学問の相対的価値を議論する「パラゴーネ」は、今、まさに宮廷で熱狂している議題である。今宵の宮廷では幾何学、彫刻、音楽、絵画、詩歌のどれが最も優位であるかの討論が行われていた。芸術家からは各々、自らが精通している芸術の優位性を主張していた。

 詩人の説得力極まる弁舌で、場は収められようとしていた。

「やはり詩歌で決まりだな。」

 と詩人が勝ち誇ったような一言を述べたとき、

「いや、」

 と、その場の誰かが、詩人の結句を制した。

「私は詩歌よりも絵画の方が優れているというふうに承知していている。」

 広間の端から主張する者がいた。

 声をあげたのは、金色の巻き髪を胸まで流した、長身痩躯の存在感を有した男。鷲鼻で彫りの深い眼窩に太い眉。長い顎髭を蓄えている。その美貌、壮年の風貌、自身に満ちた態度から、男の着る庶民風のチュニックもブーツも豪奢なものに感じられる。

 周囲の視線がその男に集まった。その場がざわつき始める。方々から忍び声でレオナルド先生だ、と声が漏れ、注目は男に集中する。 

 フィレンツェで名を上げ、ミラノでも名声を博している、まさに、時代の寵児と言える芸術家の名は、レオナルド・ダ・ヴィンチ。ミラノ市民は、彼の一挙手一投足に瞬きを忘れて、目を凝らせている。

「その意は?」

 司会者がおずおずと問う。

「私は語感の中で最も優れている感覚機能は、視覚であると承知している。眼は心の鏡だと言われるように、視覚で捉えたものは心に直接的に訴えてくる。聴覚は視覚ほど優れてはいない。音は誕生した途端に死に絶え、その生と死は同じくらいにあっけない。」

「ほう。」

 司会者や周囲がうなずく。

「詩は作者の作品、すなわち人間の作品を、言葉を用いて表現する。人間の舌を通り、耳から読者の想像のうちに作品の事柄を並べる。それに対し、絵は作品を鑑賞者の目の前にとても実体的に写し出す。自然さながらに。絵は視覚を通じて表現する。詩は聴覚。ゆえに、詩歌より、絵画の方が優れているのではないだろうか。」

 方々から深く納得し、レオナルドの意見に同意する声があがった。

「なるほど。しかし、」

 詩人の男が反駁する。

「私の学では、虚構によって、人々に喋らせたり、論じさせたりする。天体や自然、技術など、ありとあらゆることを述べることができる。絵画はどうか?」

 これを受け、レオナルドはすこし黙し、口を開いた。

「もし、天文学を語るなら、それは天文学から剽窃してきたことにすぎない。哲学について語るなら、哲学から剽窃してきたのだ。各種の職人の商品をかき集めて、そのまま語っていては詩歌に価値はない。絵画はあらゆる学問から剽窃するのではなく、結合する。幾何学を用い、数学的側面から素描する。あるいは、光の角度や現象を観察し、光学の側面から描く。他の学を用い、関係し合うことができる。」

 詩人はレオナルドの論説に面を喰った。

「絵画が自然や他の学問と関係するのも、結局は視覚による行いだからだ。やはり、耳は第二義的で、眼が第一義的な道だと言える。絵画は人間の最も高貴な眼の感覚に仕えているため、作品に美的な調和が生まれるのだろう。」

 レオナルドが口を閉じると、自然と拍手があがった。周囲は感嘆し、うなずいた。モーロ公も感服といった様子でレオナルドを拍手で称えた。

 だれもがレオナルドの意見に賛同し、今夜の討論は幕を閉じることとなった。催しが終結しても、皆、交流のために広間に屯している。レオナルドの元には、大勢のパトロンが集合していた。レオナルドは仰々しく、それぞれに挨拶を交わした。パトロンらは作品を描いてもらうべく、積極的に彼に話しかけた。レオナルドはそれらに懇切丁寧にこたえた。

 多勢を相手にしたレオナルドは、少し疲弊した。すると、レオナルドの元に一人の僧服を着た男が近づいてき、レオナルドの顔がほころんだ。

「今夜のそなたの演説、見事であったな。」

「あまり私を褒めるな。少し論説したまでだ。」

「いや、いや。レオナルド先生あっぱれであったぞ。実に見事。特に、数学を用いた点は私としても嬉しい限りだ。」

 レオナルドと親しげな僧服の男は、ルカ・パチョーリ。彼は数学者であり、スフォルツァ宮に仕えている。レオナルドは数学に関心があったため、ルカ修道士と親交を深めていた。

「絵画は数学や光学などと蜜月な関係にある。」

 レオナルドが言うと、

「まさしくその通りだ。」

 とルカ修道士は深くうなずいた。二人は幾何学的研究を進める中で、数学の合理的な美学が芸術に反映されていることに、つよく感動していた。

「ときに、レオナルド氏。今、そなたが進めている、例のあれにも、黄金比率など数学的要素を用いるのではないか?」

 ルカ修道士が言うと、レオナルドはほくそ笑み、

「その答えは完成してからの愉しみだ。」

 と言った。ルカ修道士はレオナルドの言う愉しみに、自身の予想と期待を託した。

「なるほど。期待せずにはいられないな。また暇ができたら二人で酒でも飲み交わそう。新しい謎かけも考案した。」

「ああ。そうだな」

 ルカ修道士はレオナルドの元を離れた。レオナルドは一人になり、少し思索に更けた。レオナルドの頭の中には、例のあれ、の事があった。それは彼を執拗に悩ませていた。レオナルドは創作の苦悩のまっただ中にいることを誰にも話せずにいた。レオナルドは寂しく、独り、創作の孤独に耐えていた。




 サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ・ドメニコ修道院長は表敬訪問としてミラノ城に赴いた。彼はモーロ公に自身の不満を告げようと考えていた。院長は長時とある疑念を抱いており、そしてその疑念はやがて苛立ちとなり、ついにしびれを切らし、モーロ公へ直接訪問せずにはいられないほどになっていた。

 モーロ公は彼を室内に招き入れた。モーロ公は、修道院長が自身の元にわざわざ尋ねてくるということは、つまり、例のことではないか、と予測していた。そして、修道院長の強ばった表情を読み、予測は確信に変わった。

「今日は貴重なお時間をいただき、誠に感謝しております。公爵閣下。」

 修道院長は恭しく挨拶を述べた。

「まぁそう堅くならずに、修道院長殿。斯くして、今日は何の用で?」

 モーロ公は鷹揚な態度で訊いた。院長は自分が時節の挨拶を告げる前に、モーロ公が本題を訊ねたので、公爵が今日の件の内容をある程度察していることに気がついた。ゆえに、すぐに院長も本題について語った。

「教会の例の壁画についてでございます。」

 院長は剣幕な調子で言った。声がかすかに震え、語気はつよい。教会の例の壁画とは、サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会の食堂にて、レオナルドが手懸けている、最後の晩餐の壁画のことである。

「彼は作品を仕上げる気はあるのでしょうか?数日間教会に姿を見せず、街でふらふらしている様子も目撃しております。また、来たかと思えば、ただ壁の前でぼうっと何もせず、もはや、筆ももたずに、佇んで帰ってしまうこともあります。彼の気まぐれな性分はいかがなものかと思われます。彼は作品を途中で投げ出すこともあると耳にしておりますゆえ、私どもからすれば、彼は職務に対し全うに行っているとは言いがたく、彼の仕事に対する乱雑さには呆れてしまうばかりでございます。」

 院長はここぞとばかりに意見を述べた。

「院長殿の言うことはわかる。レオナルドはかなり制作の速度がゆるい。しかし、私は彼がたしかな才を有しているゆえ、気性の変化が常人より激しいのだと思っている。」

 モーロ公は院長を宥めるように言った。

「彼の才は私も認めています。しかし、今回はあまりにも身勝手で自分本位です。彼は制作の一切を放棄したのではないかと、私は思っています。」

 院長のひどく憤慨した姿に、モーロ公は少し同情した。実はルドヴィーゴ自身も、レオナルドの筆の遅さには、思うところがなかったわけではない。

「彼は何か複合的なことを仕掛けているように、私は思います。」

 言葉を挟んだのは、宮廷詩人ベルナルド・ベッリンチョーニ。彼はかつてレオナルドと共作を施した経験から、レオナルドの狙いを読んでいる。

「ほう。」

 モーロ公は訝しげに相槌した。

「幾何学、光学、色彩、遠近、人体…。数多の学問を研究しているのは、全て絵画に還元するため。あらゆる学を踏襲し、総合的な絵画の完成を試みているのだと思われます。彼の目指している創造は、常人にはとても理解し得ない。遅筆はそのためかと。」

 ベッリンチョーニの意見に、院長は容易に頷けなかった。的を得ているのかもしれないが、それにしても制作が遅々とし過ぎていると、院長は考えているからだ。

「彼自身に訊いてみようではないか。」

 公爵はついに、レオナルド本人を呼び出した。

 使者に続き、レオナルドが悠然とした足取りで、大広間に現れた。レオナルドが現れたという空気が、大広間に伝わった。彼の風格は威厳を保ち、その存在感は貴族達をも圧倒する。彼が来たことで緊張感が一層その場に伝播する。レオナルドは恭しく公爵と修道院長にお辞儀した。

「よく来てくれたレオナルド。今日は神父様がわざわざお出でくださっているのだ。そなたの創作について話してくれないだろうか。」

 モーロ公がレオナルドに言った。

「もちろんでございますとも。如何様ごとでもお答えさせていただきます。」

 レオナルドは慇懃に答える。

「では、訊かせていただくが、レオナルド氏、あなたは作品をいつ完成させるおつもりでしょうか?あなたは神のご加護に誓って、サンタ・マリア・デッレ・グラーツェ教会に類を見ない崇高な作品を制作すると約束したはずです。しかし、制作は滞ったまま。数日間教会に姿を見せない事だってある。これをどう説明できるというのでしょう。まさか、制作を放棄されたのではないでしょうね。」

 修道院長は捲し立てるように、レオナルドに向けて言った。

 レオナルドはわずかに黙し、

「私は、」

 と、やおらに声を発した。大広間の緊張感が彼の言葉で一層厳粛なものとなる。

「昼夜問わず、描いております。制作は前進している最中と言えるでしょう。」

 レオナルドは力強い声色で、冷静な返答をした。あまりにも自信に満ちた返答に、院長は驚きを隠せずにいた。

「まさか!壁の前に兀立しているだけで、なぜ描いていると言えよう!言い逃れも甚だしい。いったい、いつになったらキリストやユダが現れるというのです!」

 修道院長は憤慨し、冷静さを欠いた様子で、レオナルドに厳しい言葉を投げかけた。対し、レオナルドは全く動じず、臆すことのない姿勢を見せている。

「レオナルドの主張を訊こう。」

 モーロ公は中立の立場を保って、レオナルドに意見を求めた。

「お言葉ですが、私は修道院長様の創作への造詣の浅薄さを、鑑みざるを得ません。」

「レオナルド、言葉がすぎるぞ。」

 レオナルドの辛辣な意見を、モーロ公は制した。院長は言葉を受けて、憤然の域である。「失礼致しました。私の創作は順次進んでおります。私は頭の中で描いているのです。あの絵を。思考している時こそ、創造の時間なのです。ただ色を塗るだけでいいと言うのならば、そこらの塗り師に依頼すればいいのかと思われます。」

 レオナルドの正当な主張は有無を言わせぬ説得力があり、修道院長も口を噤んでしまった。

「しかし、レオナルドよ。」

 モーロ公が言った。

「そなたの意見は尊重するが、今世は何が起こり得るかわからない動乱の世。こちらもいつまででも待てるわけではない。完成までいったいどのくらい時間がいるのだ。」

「そうです!我々はいつになったら完成した姿を見られると言うのです!」

 モーロ公に次いで、院長が口早に言った。レオナルドは少し黙し、

「そうですね。もう少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか。まだ、ユダの顔が浮かんでこないのです。私がユダを捉えることができた時、描ききる事ができるでしょう。それとも、」

 レオナルドはわずかに笑みを浮かべた。

「どうしても早急さを求めると言うのであれば、ユダの顔を修道院長様のお顔にすることもできますが…。」

 モーロ公はこの皮肉に、思わず吹き出した。院長は歯を食いしばり、苛立ちを隠せずにいた。

「いずれにしても、もう少しなのです。もう少々お時間をいただきたく存じます。」

「わかった。」

 モーロ公の許しを得て、レオナルドは速やかに大広間を退出した。彼は外出した後、携えている手帳に、すらすらと、怒りに満ちた修道院長の姿と表情を素描した。




 サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会は、今朝から人が多く落ち着かなかった。地面からブーツの踏む音が鳴り、方々から小声が止まない。修道僧のみならず、街の雑多な人々がそこにはいた。早朝だというのに人が行き交うのは、教会にレオナルドの姿が見えたからだ。レオナルドは今朝から現場に入り、足場を組み、壁画と対峙していた。

回廊には刺激臭が立ち籠めていた。顔料の臭いである。漆喰、亜麻仁油、ニス、腐卵臭、絵の具の臭いが混合し、見物人の鼻をさす。とても食堂とは思いがたい異臭が現場に漂っている。レオナルドの弟子達はこれらの臭いにも慣れており、しかめた面も見せず、せっせと顔料を溶いている。慌ただしく弟子らが現場で準備をする中、レオナルドだけは超然とした様子で壁画を見つめ、その場に佇んでいた。

 レオナルドは今、自身の経歴の中で最大の大作と向き合っていた。スフォルツァ公から、教会の食堂に、最後の晩餐の絵画を描いてほしいと命じられた時、彼は身震いがした。要請の規模の大きさと依頼を受けたことの光栄さ。巨大な画角。壁画への挑戦。なによりも、これまで名だたる芸術家、聖者達が描いてきた、最後の晩餐の一幕を描くことへの恐れと期待。まさに、今、自身が積んできた経験を、この作品へと昇華する。レオナルドは並々ならぬ意識で最後の晩餐に向き合っていた。

 レオナルドは描きかけの壁画と向かい合った。そして、彼は厳しい形相を浮かべ、思い詰める。彼は苦心していた。キリストやユダの表情や行動を捉えることができず、筆が止まっていた。なぜ、ユダはキリストを裏切ったのか。キリストとユダの接吻の意味。キリストには何か思惑があったのだろうか。使徒達とユダの距離感。

レオナルドは物語の心髄に迫ろうとしていた。そして、真意を突き詰めようとすればするほど、それは遠のいていく。

 レオナルドは辺りをそぞろに歩き、考えあぐねた。そして、彼はふと、教会の南側に目を向けた。そこには、ジョバンニ・ドナート・モントルファーノが描いた、キリストの磔刑図の壁画があった。責め苦を負わされたキリストの姿がありありと描かれている。レオナルドは磔刑図を見つめ、キリストに尋ねる。主よ、なぜ、ユダはあなた様を裏切ったのでしょう…。私は彼がただ自身の私利私欲のために、幾ばくかの金貨のために、あなた様に背いたとは到底思えないのです…。レオナルドがいくら尋ねても、答えは返ってこない。いくら唱えても答えのない問答に、レオナルドは耐えかねていた。彼の創作への足取りは依然として重かった。

 レオナルドが思考する側を、幾人かの修道僧が通りかかった。ドメニコ修道会の者だ。彼らは制作過程を眺めながら、互いに耳打ちを始めた。

「つい先日、修道院長がレオナルド殿の筆の遅さに耐えかねて、公爵様の元に尋ねられたようだ。そして、院長はレオナルド殿に論駁され、さらには公爵様の目前で、彼から辱めの言葉を浴びさせられたようだ。」

「院長はかなりご立腹だ。」

「如何様なことを言われたのかわからないが、この遅筆さにはこちら側も思うことがある。レオナルド殿は口が立つと聞く。詭弁を言って公爵様を騙して、身勝手に制作しているのだ。」

「しかし、なぜ斯様なまでに遅いのだろう?」

「聞くところによると、レオナルド殿は素養があまり備わっていないらしい。神学にもあまり精通していないとか。」

「なるほど、ゆえに。神学や聖書への理解が乏しいとなれば、宗教画も描けますまい。」

「フィレンツェのサン・ドナート・ア・スコペート修道院の三王礼拝の祭壇画も結局未完成なのは、彼の学位のなさに違いない。」

「そうだろう。たしかに、レオナルド殿は絵を実物のように描くことには長けているのかもしれないが、教養こそないとなると、最後の晩餐を描くことは厳しいだろう。どうせ、ジョットやカスターニョの絵画の焼きまわしにしかならないと、私は見る。」

 修道僧らは忍び声で、口々にレオナルドのことを言った。自身への陰口は否が応でも耳に入ってくる。レオナルドには修道僧らの小声が聞こえていた。

 言葉を受け、レオナルドには思うことがあった。たしかに、自分は素養を身につけずに育ってきたところがある。ラテン語も未だに習熟していない部分が多い。神学や哲学、代数なども充分に備わっていない。しかし、自分は独自的に自然を観察することによって、あらゆる学びを得た。そして、それを創作へと昇華してきた。ただ、学びを得、知見をひけらかしたいだけの知識人とは違う。知識を有し批評するだけで、何も生んでいない者には創作の心得が欠片もない。創作とはあらゆる知識を持ち、過去の作品群を踏襲して、行っていくものである。そのことを彼らはまるでわかっていない。自分が遅筆なのは、芸術に対してそういった心得や誠意を持って取り組んでいるからだ。

 レオナルドは思った。自分は幼少からずっと絵を描いてきたのだ。さまざまな空想を描き、あらゆる創造物を生んできた。だれよりも想像し、筆を執り、地味でささいな鍛練を積み、失敗し、そのたびに悶え苦しみ、思考し、他の方法で挑戦し、作品を造ってきたのだ。作品に向き合う時は独りだ。この孤独の営みを経験せず、何かを宣う者を黙らせるには、やはり、圧倒的な作品を造り上げる他ない。誰もが納得せざるを得ないほどの、究極の美術を完成させる。自分が創作に向き合った時間や熱意を作品に落とし込む。レオナルドは静かに情熱を焚き付けっていった。

「先生!」

 レオナルドは突如自分を呼ぶ声に反応し、俯いていた顔を徐に上げた。高く甘い声音で先生と聞こえたので、レオナルドは即座に誰であるかを認識した。レオナルドの目の前には、物憂げな顔に、天使のような巻き毛をした青年がいた。華奢な体躯や顔つきのあどけなさが俗らしくなく、優美である。

「サライ。」

 レオナルドが呼ぶと、青年はいたずらに笑みを浮かべた。ジャン・ジャコモ・カプロッティは歳が十八の幼げを面に残した青年である。彼はその小悪魔のような笑みや相貌から、レオナルドよりサライと称されていた。

「先生、また、鬱々としたお顔をされています。すこし外へ出て歩きませんか?」

 サライに言われ、レオナルドは一度手を止め、街へ出ることに決めた。外へ行き、ユダの顔をした者を探すのが良いと思考した。

「そうだな。休憩しよう。」

 レオナルドは軽い身支度をし、サライと共に教会を後にした。




 レオナルドとサライは、教会通りに続く街路の店先でパンを買い、簡単な食事を済ませ、往来を歩いていた。

「この前も私は上手く歩兵らを出し抜き、金貨をいくらか抜き取ることに成功しました!」

「全く、お前の手癖の悪さには、ほとほと呆れてしまう。」

「そう言いながらも先生は私がこの手の話をすると、楽しそうにされています。」

 サライは饒舌で、その悪戯な性分から、なにかと体験話をつくっては、それをレオナルドに話していた。レオナルドは嬉々と喋るサライが好きだった。創作事で凝り固まった頭の中を、サライは全く別のところへ誘ってくれる。レオナルドにとってそういった人材は周りに多くはなかった。レオナルドは業績を上げ、ある程度の名誉を得たがために、近づく者のほとんどは彼に芸術や創作と言った類のこと聞きたがった。それはレオナルドの創作的思考を休めるのには至らなかった。しかし、サライは創作とはかけ離れた会話ばかりするので、それがレオナルドの意識を彼方へ飛ばし、彼の頭を休める程よい機会となっていた。

「お前は本当に世渡り上手なやつだ。」

 レオナルドは弟子の中でも特にサライを可愛がった。サライはレオナルドからの寵愛を感じ、優越感を抱かずにはいられなかった。

 二人が大路へ行くと、人の賑わいがあった。数十人が集まっており、中心で僧服の男が何かを唱えている。

「天災、疫病、戦争…!我々を脅かす数々の事象。これは神の定めである!今にまた、ミラノを、我々を震撼させる脅威が起こるだろう!いずれ天が裂き、人々は炎に焼き尽くされる!」

 僧服を纏った説教師が興奮しながら叫んでいた。レオナルドとサライは溜まりに近づき、説教師の予言に耳を傾けた。

「暦はもう、世紀を収めようとしている…!この世は一変する。我々は運命を選択しなければならない!信じる者だけが救われるのだ!」

 その場の数人が説教師の言葉に頷いた。レオナルドは説教師のことを疑って見ていた。根拠のない終末論を唱える者が、ここ最近市街で多く散見される。精神が不安定な市民は、彼らの言葉をいとも容易く信じてしまうのだろう。

「見よ、そこに横たわる男のありさまを。彼は清貧を否定し、豪奢な生活を送っていた。信仰を怠り、享楽的に過ごした結果、神の審判によって、彼の皮膚は黒く蝕まれていったのだ!」

 説教師の指さす方に、黒死病に罹り横たえる男の姿があった。皮膚が黒に侵されていた。場がどよめく。皆、男から離れ、自らの体を見、戦慄する。

「信じる者だけが救われる!さあ、我々とともに信仰を捧げよう!」

 賛同する声が上がった。説教師はまるで聖職者のように見える。

レオナルドはサライの腕を引き、その場から離れた。

「なんだか異様な雰囲気でしたね。穏やかでないというか。私はあの説教師が大袈裟なことを言っているように思いましたけど。」

 サライが言った。

「彼が言っていることは非合理的で信じがたいな。宗教世界を否定するわけではないが、今の演説は自然科学に反している。」

「病を恐れ、思考が乱れる。災害って人を簡単に混乱させますね。」

「ああ。そして、混乱は人の倫理感を容易に崩壊させる。今、世界は、人は非常に危うい状況にさらされている…。」

 レオナルドは人々がこの混乱の渦から抜け出すためには、真実の物語が必要だと考えていた。深く、広い価値観を有した物語…。

二人は辺りを散策していると、道角で僧服を纏った集団が、一人の青年を囲っている状況を目にした。

「貴様、その本はなんだ!怪しい本だ!」

 僧服の集団が糾弾するように青年に迫った。

「これはパリで手に入れた、神学を研究するための本です!危険な物ではございません!」

「まさか、貴様、カタリ派を追随している者ではないだろうな!その本をよこせ!」

「やめてください!」

 僧服の集団は、強引に青年から書物を取りあげようとした。青年は押され、地面に倒れてしまった。

「やめなさい。」

 レオナルドは場に駆け寄り、暴力的に青年に迫る僧服の集団を止めた。

「レオナルド殿…!」

「異端にかけようものなら、神の名の下もっと誠実に行うべきだ。これはあまりにも強引で

ある。」 

レオナルドが言うと、僧らは口ごもり、その場を去って行った。

「助けていただき、ありがとうございます!」

 青年は立ち上がり、レオナルドに感謝の意を伝え、往路に駆けて行った。

「ドメニコ会の集団ですね。」

 サライが言った。

「彼らはいささか過激なところがある。」

「先ほどのように少しでも疑いがあれば、だれこれ構わずに異端審問にかけようとしている場面をよく見ます。今の青年だって、ただ神学を追究したいだけかもしれないのに。」

「奴らは神の名を巧妙に利用し、自分達の思うように地域を治めようとしている。自分達とは違う教えを拒み、危険思想と見なして糾弾する。清貧を謳い、神を信仰する貧者に犬猫同然の扱いを強いて、貧者から学ぶ権利を剥奪している。あまりに偏った考えだ…!」

 レオナルドは熱い口調で訴えた。サライはレオナルドの意見を聞き、ふと、ある言葉が浮かんだ。

「すべての者は生まれながらに知恵を求める。」

 サライが呟いた。

「アリストテレスか…。」

 レオナルドは、サライが古代の偉人の言葉を用いたことに、驚いた。

「人は皆、知りたいんです。森羅万象、今世のこと。世界の行く末、人間の運命。生きる意味や愛する意味や信じる意味。今、世界で何が起きているか。神の存在。今は人文主義の時代です。神道を貫き、神の教えだけを追求するのも良いですが、もっと広い考え方を持った方が良いかもしれません。」

 厳しい形相を浮かべていたレオナルドの口元が、わずかに緩んだ。レオナルドはサライの純真な精神が宿った瞳を見つめ、笑みを浮かべた。




 レオナルドとサライは街を歩き、夜が更けてくると宮廷の自室に帰った。レオナルドにとって、サライと共に過ごす時間は、束の間の憩いとなった。

 自室にて、レオナルドは頭に浮かんでいた空想を描きたい衝動に駆られ、サライを使って素描した。サライはレオナルドの指示で、肢体を交互に動かし、あらゆる体勢を構えた。

「顔をやや下に。手は開けて、甲を見せて。」

 レオナルドは指示し、サライの体つきや動きや表情を正確に観察し、手帳に描いた。諦観したような、慈しみを覚えた目を潜ませた、中性的な人物を描くのが、レオナルドの理想としてあった。サライはまさに、その理想像として最適な人材であった。レオナルドの手帳にはサライの絵がいくつもあった。

「先生、もういいですか?疲れました。」

 レオナルドが時間を忘れて素描していたので、サライはついに疲弊し、くたびれてしまった。

「すまない。ありがとう。」

 レオナルドが言うと、サライはすぐに体を緩ませ、その場に沈み込んだ。

「しかし、先生は体の動きに関した指示が他の画家より多いですね。手の動きの注文はかなり細やかです。」

「そうだね。手や仕草は心の動きを表すからね。」

「心の動きを?表情からではなく?」

 サライは首を傾け、眉間にしわを寄せた。

「そう。手や仕草、人体の動きが、心の動きと連動していると、私は思っている。顔だけなぞっても本当の心の動きは表現できない。」

「なるほど。」

 サライは納得した様子で両手を合わせた。その仕草を見、レオナルドはサライに近づいた。

「それにしても…。」

 レオナルドはサライの右手を掴み、両手で指に触れた。

「そなたの指は綺麗だ。」

 レオナルドが言った。

 サライの指は女性のように細く、また、骨骨しく長く伸びていた。爪甲が人一倍長く、優美であり、官能さも含んでいた。

「そんなにまじまじ見られると、恥ずかしいです。」

 サライは顔を赤らめ、レオナルドから視線を外した。

「素晴らしい事だ。サライ。いいかい。」

「はい。」

 サライはレオナルドの方へ顔を向き直した。レオナルドの温かく、鋭く、深い目がサライの視線とぶつかった。

 レオナルドはサライの手を握り、サライを正面から見つめ、伝えた。 

「表現は恥ずかしければ恥ずかしいほど、美しい。世界で一番恥ずかしい人間に、表現の才能は宿るんだよ。」

 レオナルドの真理を得た言葉がサライの心の的を捉えた。サライは胸が熱くなり、瞬間、身震いを覚えた。そして、気づけば、涙が頬を伝っているのを実感した。

 レオナルドはサライの頬に手をやり、涙を拭いた。そして、そのまま頬に手を置き、幾ばくかの間サライを見やった。レオナルドは徐に顔を近づけ、サライに接吻をした。さらに、レオナルドはサライを自分の方に引き寄せた。サライの体はわずかに震えていた。

「怖いか。」

 レオナルドが言った。

 サライは首を横に振った。

「私はそなたを愛している。」

 レオナルドは耳もとでそう告げた。サライは動悸がし、言葉の意味を心の中で自身に問うた。

 レオナルドはサライを寝台に誘った。サライは寝台の上で仰向けになった。サライは目をつむり、レオナルドに体を委ねた。レオナルドは上から覆い被さり、口元に接吻をした。レオナルドの左手が首から肩、腕へと伸びる。サライの緊張がレオナルドに伝わる。レオナルドは首に口づけをし、舐めた。サライの息づかいが荒くなる。レオナルドは顔を胸元に寄せ、乳首を吸った。乳首が固くなっていく。行為は徐々に上半身から下腹部の方へ降りていく。サライの陰茎は膨張し、隆起していた。レオナルドは陰茎を指先で器用に撫で、刺激した。陰茎から液が漏れていく。サライの喘ぎが徐々に昂ぶっていった。レオナルドは勃起した陰茎の竿を、根元から舌で舐め上げた。さらに、液で蕩けた亀頭を舌で濡らした。そして、レオナルドは陰茎を口腔の中へと入れた。刺激に耐えられなくなり、サライはついに絶頂を迎えた。放たれた精液がレオナルドの口腔の中で広がる。レオナルドは精液を飲み込んだ。そして、レオナルドは、果て、弛緩したサライのあどけない面を見、もう一度、彼に接吻した。




 レオナルドが現場に姿を見せなくなってから数日が経った。彼は相変わらず自身の想像と向き合い、理想を求め、悩んでいた。レオナルドは連日街へ繰り出し、ユダの顔を探していた。裏切りを胸に孕ませた吝嗇家の男の肖像を求めて、街を彷徨うのだが、理想とする者は現れなかった。それもそのはず、レオナルドは未だ、ユダがキリストに背いた理由を明確にすることができていなかった。それがゆえ、彼がキリストの顔やユダの顔を想像し得ることは不可能だった。つまり、街人の顔を遮二無二に見ようとも意味がなかった。 

レオナルドは何も得られず、思い詰めたまま、自室に戻った。彼は羽織っていた外套を脱ぎ、眼前にあったリラを徐に手に取った。レオナルドが弓を引くと、甲高い雅やかな音が鳴った。彼は何も考えず、思いのままリラを弾いた。音が緊張しながら、伸びやかに、部屋に広がった。リラの調べは彼の脳髄に響いた。リラの音は彼の寂しさを煩わせた心の琴線に触れた。

 音がレオナルドを記憶の彼方へと誘う。彼が青春時代に過ごしたフィレンツェ。郷愁にかられ、思いを馳せる。まだ若き、青々とした自分の姿が蘇ってくる。

 花の都フィレンツェはその名の通り、文明が開花した刺激が多い都だった。芸術家から知識人や職人らが多く在住し、文化の華やいだ都市だった。色づいた麗しき暖色の街並みが記憶に蘇る。通りで兄弟子と音楽を奏でた日々も懐かしい。トスカーナ地方のにおい、音、空気。故郷だけが持つ自分を許した空気が恋しい。

 ヴェロッキオ工房での日々は忙しく、険しくも充実していた。レオナルドは師から多くを学び、仲間と切磋琢磨していた。ボッティチェッリやペルジーノらと競い合った日々も懐かしい。レオナルドはリラやその他の楽器を彼らに教わった。彼にとって仲間と制作し、酒を交え芸術談義を交わし、時に喧嘩をし、夢を語り合った時間は、まるで、薔薇色の日々だった。

 フィレンツェにいた頃、レオナルドは孤独を感じる事があまりなかった。隣で同じように創作に励むだれかがいた事で、寂寥を覚えずに済んだ。手詰まりになれば、師に教えを請い、仲間と悩むことができた。また、その時は彼もまだ経験則がなかった。それがレオナルドに自信を与えていた。描けば描くほどに上手くなっていく。成長をそのまま体感できた。筆を執った時、かつてない創造を起こすことができるという予感に、思わずほくそ笑むことすらあった。この微笑も今のレオナルドにとっては懐かしい。

 レオナルドは追憶に耽っていた。彼は若き日の情熱を持った自惚れを失っていた。あの頃の興奮は何にも代え難い。レオナルドは茫漠と天井の一点を見つめながら、寂しさを、独りでに拭った。 




 宵に上がった月は煌々と輝き、燦然と煌めく星々の中心で、妖しくもその美しさを余すことなく発揮していた。満月であった。あまりにまばゆいその円光は、人々が抱える秘密さえも暴いてしまいそうなほどだった。隠しておきたい嘘事を暴かれぬよう手を伸ばしても、月は逃げていく。満月は誰に奪われることもなく、ミラノの一夜を明かしていた。レオナルドは夜空を眺め、満月の特別で静謐な輝きに魅了されていた。

「先生!」

 レオナルドの元にサライが駆け寄った。

「全く、お前はどこで何をしているのか。」

「すみません!銭の鳴る音がしましたから、つい、気をとられてしまって。先生を見失ってしまいました!」

「お前の耳は、勉学は受け付けないのに、銭の音はめっぽう聞き入れるのだな。」

 サライは頭を掻き、照れた。レオナルドは呆れたように両手を広げた。

 レオナルドはまたユダの肖像を追い求めて、サライを連れ、街に繰り出していた。しかし、大きな報酬は得られず、やがて日は落ちた。レオナルドは茫洋とし、思い悩んでいると、サライといつの間にかはぐれてしまっていた。

「また、月を見ていたのですか?」

 サライが訊いた。

「ああ。」

 二人は夜空を見上げた。

「月は尊い。かつて、もう遠くにいる同僚達と、並んで月を見ていたのが懐かしい。古代ギリシア、ローマ人の真似事だ。あの満月を眺めていると、孤独を忘れられる。」

「孤独…?」

「そうだ。」

「今、先生は独りなのですか?」

「創造者は常に独りだ…。」

 サライは月を眺めるレオナルドの横顔を見た。レオナルドの崇高な瞳に、満月が写っていた。鏡面に写る満月はその世界を反転させていて、サライはレオナルドの瞳に写る満月が、真実なのだと信じていた。

 ひとしきり月を見、二人は帰路につくことにした。街路の異臭は未だ止むこともなく、至る所から放たれていた。残飯を漁る乞食達。夜は市街の外観のむごさが一層剥き出しになる。二人はそれを横目に帰路を辿っていた。そして、薄暗い路地にて、泣き崩れる男を見た。男は嗚咽を交え、むせび泣いていた。レオナルドは気がかりになり、男に尋ねた。

「もしもし、大丈夫ですか?」

 男は顔を上げた。褐色の肌をし、顎髭を蓄えた、鷲鼻のどこか胡乱げな目をした男だった。男は言った。

「ああ、なんと言うことだろう!この痛み、この憎しみ、この悔い!この辱め!胸が焼けるほどの苦しみ!これなら黒死病にやられた方がましだ。ああ、神よ!主なる神よ!なぜ、このような運命を私に与えるのです。私は、耐えられない!彼女は、私を愛してなどいなかった!」

 男はつらつらと自分事を吐いた。

「彼女は、彼女は、端から、私のことなど愛していなかった。彼女は私のことを一欠片も思ってはいなかった。彼女は、私に、嘘をついていた。ああ、あの瞳、あの声、天使のごとき微笑み。どうか忘れる事ができたなら。彼女の言葉は何もかも嘘だった!私は騙されていた!許せぬ!だから、私は彼女を欺いた!裏切った!自分が裏切られる前に!私は彼女を愛していた!彼女を愛して止まぬ衝動が、私を興させた!愛するがあまりに、裏切った。ああ、何という運命。なんという真理。これが愛情なのだろうか…。」

 男の激白にレオナルドは少し狼狽えた。レオナルドは項垂れる男をなんとか起こし上げた。男は涙を拭い、たちまち路地裏に消えていった。男の顔が、姿が、激白がレオナルドの脳裏に焼き付いた。一瞬の衝撃だった。レオナルドは涙の訳を聞けなかった。

「解せぬところがある。愛するがあまり、裏切るとは?」

 レオナルドはつい、頭に浮かんだ疑問を呟いた。すると、サライが言った。

「私には、少しわかるところがあるように感じます。」

 サライは深く自問した心中を抱えた様子だった。

「ほう。」

 サライが心中告白した。

「相手を思えば思うほど、慕えば慕うほど、相手の事がわからなくなる。全ての言葉の裏を解こうとしてしまう。やさしい言葉の裏に、瞳の奥に、冷たさを感じてしまう。誰かに奪われるくらいなら、自分がどんな形でも特別な存在になりたいと思う。人間の真心の裏に、そういった心理が内包されている気がします。そんなことを誰もが考えてしまう夜があると、私は感じます。」

 告白に、レオナルドは少し狼狽えた。サライの表情は常のように明るくはなかった。レオナルドにはサライの言葉が深く染みていた。




 レオナルドとサライは宮殿に帰った。サライはすぐに自身の寝床に行った。レオナルドも一度は寝床についたが、目をつむるとサライの言葉が蘇り、眠ることができなかった。レオナルドは起き上がり、外套を纏い、宮殿の庭へと向かった。

 宮殿の庭にある池をレオナルドは眺めていた。水面には、天面に昇った満月が反射して写っていた。風が吹き、満月が揺れた。波が広がる。レオナルドは幼少から、水という流体に魅かれていた。彼は水が生み出す波の曲線に、どうしようもなく魅かれた。水は戯れに遊び、その実体を捉えることが難しい。それが、人の心のようだと彼は感じていた。

 褐色の男とサライの言葉が反芻する。愛するがあまりに裏切った…!誰かに奪われるくらいなら、自分がどんな形でも特別な存在になりたいと思う…。興じ動じる褐色の男の表情、崩れた姿勢。俯き悩むサライの表情。震えた体、手、指。レオナルドは彼らの心理を読もうとした。

 天から一粒の水が、レオナルドの目の前の水面に落ちてきた。波紋が生じた。水面は揺らぎ、輪が広がる。レオナルドは広がる水紋を眺めていた。すると、そこに人が映った。長髪の人物。赤と青の衣。卓の前に手をつき、指を広げ、右手は甲を見せ、左手は手の平を見せている。肩は落ち、落ち着いた態度を保っている。俯き、何かを悟った面をしている。口がわずかに開いている。レオナルドはたちまち気が付いた。これは、この顔は…!

 刹那、レオナルドの脳裏に幻影が過った。裏切りの予告、驚く者、怯える者、慌てる者、銀貨を握る者、尋ねる者、黙す者、疑うもの、苛立つ者、保身をする者、伝える者、考える者、論じる者…。園での深い祈り…。裏切り者との接吻…。十字架上への磔…。悔み、苦しみ、嘆く、裏切り者…。白楊の木で首をつる背徳者…。愛のまにまに…。

 レオナルドは意識を取り戻した。水面には、こけた自分の顔が映っていた。一瞬の幻だった。ふと、レオナルドの頭に何かが閃いた。頭に浮かんだ一点の兆しは、迷宮と化していた思考の出口への道筋を、一筋に照らした。



 

 明け方、小鳥のさえずる時刻、現場ではレオナルドがひとり、黙々と筆を走らせていた。

 レオナルドの流麗な筆捌き、神をその右手に宿している。神業の術で壁画は描かれていく。レオナルドの眼光、万物の真理を覚えたがごとく、描写の細部を捉え逃さない。彼は鬼気迫る形相で自身の想像と相打っていた。

 昨夜、レオナルドに閃いた想像は紛れもなく、これまでの鬱々とした苦悩を打開する、一条の光だった。レオナルドは知り、気づいた。ユダはキリストを愛していた!愛するが故に、キリストを裏切った。誰もが、心の中にユダを抱え、愛し、愛される煩悶と苦痛に悩んでいる。人間関係が生んだ運命と皮肉の物語。主よ、この悲しき結末をあなたは見据えていたのでしょうね。

 レオナルドは津波のように押し寄せる想像を取りこぼさぬよう、筆を止まさない。彼はついに神人の世界に没していた。外野の声など一声も聞こえない。彼は精神の世界へと没入していた。

 周りの声など気にするな。自分を信じろ。深く、深く、探求するのだ。焦る必要はない。一歩一歩、前進していくのだ。造り上げるのだ、今世紀最大の奇跡を。自分には大した教養はない。高貴な身分の生まれでもない。肉体的に秀でているわけでもない。自身の性的嗜好から、子孫を残すこともできない。しかし、幼少からずっと描いてきたのだ。ずっと創作してきたのだ。自分には創作しかない。創造してこそ、レオナルド・ダ・ヴィンチ。逃すな、この一瞬の流れ。描ききるのだ!

 絵と対峙する巨匠の口元には、にわかに綻びがあった。これはこの瞬間、創造者が無我夢中で没頭する域に達した時にしか生まれない、偶発的な笑みである。彼は幼き頃のように、純真な心と不可思議な興奮を持って、筆を握り、絵を描いていた。




 一四九九年、フランス王ルイ十二世はヴェネツィア共和国と密告を結び、アルプスを越えミラノへ進軍した。ルイ十二世は強い因縁を持って、攻め入る時期を今か今かと待っていた。そして、ついにミラノ公国に進軍し、制圧した。

戦争に敗れ、ルドヴィーゴは側近や親族だけを連れて、ミラノを脱出した。彼はミラノを捨て、アルプスを越えた神聖ローマ帝国に逃げ込んだ。最後の晩餐の壁画を完成させたレオナルドも弟子を連れ、早急にミラノを逃れ、故郷フィレンツェに舞い戻った。

 戦禍を被り、ミラノのあらゆる芸術品や建造物が崩壊してしまった。レオナルドが制作していたスフォルツァ騎馬の粘土像も、フランス軍兵士たちによって破壊された。しかし、最後の晩餐は奇跡的に、その完成体を残した状態であった。

 ルイ十二世は噂に聞く、巨匠の残した今世紀最高と称される絵画とやらを人目見ようと、サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会を訪れた。焼けた戦地の中に、煤けた教会がなんとか佇んでいた。

 ルイ十二世が教会の食堂に足を踏み入れた時、目の前には、壮大な規模の壁画が現れた。その巨大さ、劇的さ、斬新さ、迫力、物語性。十二人の使徒達の動き。キリストの存在感。類を見ない構図。動と静の両立。精神の内奥、混乱、混沌。画の調和と統一。神話性と写実性を融合させた世界線。絵画だというのにも関わらず、劇場にいるかのような臨場感。この世界の行く末を示唆する予言的絵画。イエスの言葉が蘇る。

「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

 混沌の現世を写し出した、真理の絵画。

 ルイ十二世は圧倒され、目を見張った。激しい電撃のようなものが彼の全身に走った。瞬時に鳥肌が立ち、彼の体は震えた。動悸がし、息をするのも忘れるほど、彼は壁画を見やった。あまりの衝撃に脳髄を打たれたルイ十二世は、呆然としかできずにいた。

「おい。」

 ルイ十二世は側に仕える侍従に訊ねた。

「はい。」

 侍従はルイ十二世の言葉に耳を澄ませた。

「この絵を描いた者の名は何と言う。」

 侍従は徐に、その名を答えた。

「レオナルド・ダ・ヴィンチ。稀代の創造者です。」


















参考文献

『レオナルドのユダ』 レオ・ペルッツ著 鈴木芳子訳 2001年 クイックセンテンス出版株式会社

『レオナルド・ダ・ヴィンチ』上・下 ウォルター・アイザックソン著 土方奈美訳 2019年 株式会社 文藝春秋

『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたいレオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と作品』 裾分一弘監修 2006年 株式会社 東京美術

『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』上・下 杉浦明平訳 1954年 株式会社 岩波書店

『イラストで読むルネサンスの巨匠たち』 杉全美帆子著 2010年 株式会社 河出書房新社

『レオナルド・ダ・ヴィンチ ミラノ宮廷のエンターテイナー』 斎藤康弘著 2019年 株式会社集英社

『はじめて読むレオナルド・ダ・ヴィンチ』 石崎洋司著 2023年 株式会社 講談社

『キリスト教とは何か』Ⅰ・Ⅱ ペン編集部編 2022年 株式会社 CCCメディアハウス

『新共同訳 聖書』 日本聖書協会

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

創造者 是永是之介 @tatsutan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ