第14話 さらば、ひとり旅
夜が明けたら、出発だ。
深夜2時をまわった。
ケイの手元には、5杯目のピートコーヒーが、湯煙とともに芳醇な湿地の香りを立ち上げていた。エストニア、カナダ、チリ、ニュージーランドと世界を巡ってきて
――5杯目のこれは、日本の北海道だ。
店の外は、まだ真っ暗。
街路灯の下には、明らかに“制服の人”がいた。
ふと振り向くと、さっきマフィンに呪われていた学生風の男は、ジャケットを羽織って成人に“擬態”していた。彼も深夜3時までいるあたり、なにか家に帰れないか、明日早朝の便に乗らなければいけないかの事情があるのかもしれない。
ただその様子からわかるのは――こんな夜中にいれば、しばしば補導されることだ。
――市警か。
白っぽい軍服風のジャンパー。
裾は少しよれて、くすんだ灰色に近い。
艶消しの布地。クリスタルな街にただひとつ混じった、濁りだった。
そのくせ、腕章だけはやけに新しく、ぎらりと反射して妙に浮いている。
大して忙しそうでもないくせに、そういうときだけは仕事熱心だ。
硬い靴音がコツコツと響き、足元をタップしている。
一人を楽しみたいケイにとっては、心底不愉快な音だった。
そして――ひとりで座っているケイにちらちらと視線を寄越してくる。
しばらくして、扉が開いた。予想通り――もしくは、2時59分までは泳がせておいて、3時ちょうどになったら突入する、という打ち合わせでもあったのかもしれない。
制服の男が入ってきて、あたりを見回す。
目が、あってしまった。――というより、目を、合わせられた。
「こんばんは、ぼく。ひとり?」
やれやれ、いつものことだ。
「はい。二十四ですが、なにか」
――ついでにいえば、性別も違うぞ。
運転免許証を見せると、男は一瞬だけ絶句した。
それから、ごまかすように愛想笑いを浮かべた。
「いやぁ、若く見えるね。未成年補導の報告が入ってね、つい」
ケイは会釈で済ませた。”ピートコーヒー”はもうぬるいし、口の中が渋い。
――実際、こういうのは慣れっこだ。運転しているとしょっちゅう止められるし、いいかげん顔認証で「この顔を見たら子供モドキです」と周知してほしいのだが。
アトラス、どうせ見てるんだろう?
まあ――何よりこの時間に、手荷物一つで、ぽつんと街にいるのがいけないのはそうだ。
しかし、それをどうこう言うのは外見差別ではないか?
市警は隣に座ってピートコーヒーを一杯頼み、話しかけてきた。
「俺、気づいたら、すっかりおっさんになっちゃってさあ。気付いたらもうアラサーだよ。夜歩きする側が、いつの間にか取り締まる側になっててさ。…で、深夜まで残業さ。」
…なれなれしい。
でも、たぶんこれは私のことを心配して言ってるわけじゃない。
ただ、誰かに言いたかっただけなのだ。
——ナンパとか、そういうのでもないと思う。免許証に性別が書いてあったのもまた、昔の話だ。
「で、こんな夜中に話す相手もいないってわけさ。補導にしてもアトラスにやらせりゃいいって意見には、反対だな。そもそもアカウントをもってないんじゃ、ねえ。」
ケイは思う――アカウントを再発行したら、またマークされる。されなくても、マークされる。――再発行の翌日に、姿を消した人の話は聞いている。
どこへ行くのかは誰も言わない。戻ってきた人も、いない。
少なくともBANされたまま何もしなければ、消えることはない
――いまのところは。
ケイは、口を開けなかった。
「あと俺はさ、やっぱり人と話すのって大きいと思うわけよ。誰にも返事しない、通知を見もしない奴もいるだろ?でもこうやって顔を見りゃ、ああ、生きてんなってわかる」
ケイは目を合わせず、リグニン樹脂のカップに目を落とす。
冷めかけたピートコーヒーを、また一口だけ飲んだ。
市警はそれを合図ととったのか、軽く手を上げて出ていった。
彼が出ていくと、マフィンに呪われ君はほっと息をついていた。
誰にも話しかけられたくない夜は、決まってこんなふうに、誰かが話しかけてくる。
夜が、少しずつあけていく。
まだ青とも黒ともつかない空の下で、ケイはゆっくりと立ち上がった。
背中のリュックが、わずかに重みを伝える。
12個あるポケットのうち、すぐ右腰のそれに指を差し入れて、中身を確かめる。
汎用情報端末──入っている。
そのすぐ横に、いつも持ち歩いている高強度型の小型カメラ、HP-5。
カメラの角が、指先に冷たく当たる。
ちゃんと、ある。
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