第13話 泥炭コーヒー。
明日から、過去への旅が始まる。
半日早く出発し、重層都市を離れ、海沿いの干拓地、通称“新市街”に一息。
明日の明け方に出発してもよかったのだが、わざわざ来たのは――夜景をみたいだとか、空を見たいとかいうよりも――ただ、出発直前にそわついて、ちょっと一人でふらつきたくなったのだ。
なんというだろうか――旅というのは一人を楽しむものであって、二人以上は、どうしても“仕事”のように感じてしまう。だから――楽しめるうちに、一人の時間を楽しみたかった、のかもしれない。
そして、結局重層都市でも行きなれた、サンバースト・コーヒーに足を運ぶのだった。
ケイは、カップにそそがれた、黒々とした液体を覗き込む。
中にそそがれた「ピート・コーヒー」に、コーヒー豆は含まれていない。
コーヒーを模した、代替物である。
値段はコーヒーの1/3くらいで、眠気覚ましの効果はほとんどない。
コーヒー農場に疫病が流行った際に発明されたものだという。
元々はタンポポの根を泥炭でスモークして作られていたそうだが、最近では蒸留泥炭と麦芽、タンポポの根をベースにしたブレンドらしい。
甘くスモーキーな香りが、鼻腔をくすぐる。
ちらりと、店内の会話が耳に入る。
「この前「本物」のコーヒー飲んだんだけどさ、あれ苦くて。苦み抜き!ってオーダーしたら、そんなことはできません、「本物」のコーヒーですからね、って…」
本物のコーヒーとくらべても遜色ないどころか、むしろ上回る地位を獲得している。なにしろ、オーダーメイドで渋みやコク、香りの甘さやミネラル感を調整できるのが大きい。
不味いかもしれない「本物のコーヒー」をわざわざ頼む気が起きないのは、わかる。
ただ――毎度「全部おすすめで」と流してしまうケイには、関係のない話だった。
それに、自宅では調節が難しいため――ピート・コーヒーは店で飲むもの、という地位を確立し、大量生産も容易であるため、チェーン店がこぞって有力産地を取り合っている。北欧、シベリア、チリ、などなど――。
「ちょっと北欧のはスファグナムが多いから酸っぱいんだよね」というような会話が一般にされているのは、ちょっと滑稽であった。
なにせ、聞いてみると彼らはスファグナムがミズゴケであることも、果てにはそれが植物であることすら知らないのだから。
そのくせ、「湿原の冷気のような軽やかさ」とか言ったりする
――寒地の湿原は、甘い。けれど――実際に訪れずにいろいろ言われるのは、ちょっと歯がゆい。五年前に歩いた、足元のふんわりとした、しかしジワリと靴の中に水がしみ込んでくる感触が、まだ足の裏にこびりついている。
ミズゴケとスゲと、あとは周囲の落ち葉がなす高緯度の香りは、そんな地の果てまで旅に行かずとも、ここにくればカップの中でこだましている。
コーヒーの香りを楽しむというよりも、むしろかつて訪れたフィールドを味わっているような気がして、気づくと目頭が熱くなっていた。
――浴びるように通ったフィールドも、就職してからはすっかり足が遠のいていた。
ふと、カウンター横の新作告知が目に入る。
「限定入荷! Carboniferous ブレンド」
余韻が吹き飛ぶ。瞳孔が、その告知をしっかりとロックオンしていた。
どこの泥炭だろう。
メニューを見ると、小さく「現アパラチア」、とある。
その一行だけで、胸の奥がざわついた。
アパラチア炭田――かつて最高級の石炭を産し、19世紀後半から20世紀にかけて、アメリカの産業革命と鉄鋼業の発展を支えた名だ。
石炭としての特徴は、瀝青炭が中心であり、とくに硫黄分が少なく、灰分も少ない。
石炭の顕微鏡的構成要素を、マセラルという。この構成要素は、植物のどのような遺骸が変性して石炭ができたのか見えてくる。
アパラチア炭田の場合――リグニンなどの木質変性産物であるビトリナイトが大部分を占め、火災によって生じた木炭成分を基とするイナーチナイトや、樹脂を基とするリプチニットは少ない。
このことは――アパラチア炭田がもともと、極めて貧栄養な環境に高純度の植物遺骸がおそらく急速に堆積し、しかも火災にはあまり見舞われなかったことを意味する。
リプチニット、とくにセクレチナイトが少ないことからは、大量の樹脂を含むメドゥロサ類よりも、リンボク類がおそらく石炭の生成に関与していただろうことがうかがえる。瀝青炭が中心なのは、その後の変性が高度であることをあらわしている――そして石炭を含む層の厚さは、この炭田が恐ろしいほど長い期間にわたって堆積し続けたにもかかわらず、火災に見舞われなかったこと――つまり、地盤が徐々に沈下しながら、水位上昇の中で泥炭が堆積し、常に水に保護されていたことがわかる。
このように、石炭ひとつとっても、当時の湿地帯がどのようなものであったのか見えてくる。
さて、Carboniferous ブレンドに戻ろう。
咄嗟に頼んでみようとも思った――が、ちょっと躊躇した。
なぜなら、これから本物の石炭紀に行くのに、地球で石炭紀の香りを感じてから行ってしまうと――なんというか、旅の気づきが失われてしまうような気がしたからだ。
この旅から帰ったらしっかり楽しみつつ、石炭を作った森に思いをはせたいものだ。
ケイの隣の席では、学生風の男が、がっくりとカウンター前で項垂れている。
聞くとはなしに、耳に入る。「また品切れだよ。なんで俺の時だけ……」
どうも、“おまかせ生成”のマフィンが目当てだったらしい。
少なくとも、ここには知っている人はいない。
何の陰口も気にしないで済むし、妙な羨望のまなざしもなければ、妙に持ち上げられることもない。ただ一人で、世界を見て、考える時間。
そこがケイには、とても心地よかった。
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