第6話 石炭紀、行かない?
本物の太陽に照らされた、重層都市礁のてっぺん。
ケイはただ、カフェの内装に見とれていた。
大梁が天井を横切り、樹齢数百年の柱が黒く艶を放つ。
黒々とした梁と柱が行き交う先に、屋根の裏の骨組みまで続く、ひたすら高い空間がむき出しになっている。
ただし、それらはほとんどどれも、厳密な意味で真っ直ぐではなかった。
柱はねじれ、わずかに曲がり、梁は大蛇のようにうねっている。
よく見てみれば木材は釘ではなく、パズルのように嚙み合わせて組まれており――それらを組み合わせる穴もまた、適切な位置に、適格に設けられているのだ。
そして、事実として――建物自体がゆがむことなく、かっちりと数百年も成立している。
――ケイは、驚きを隠せなかった。
自然の木々の曲がりをデザインとして取り入れるために、ここまでやったのか?
それとも、当時はそうせざるを得なかったのか?
もしくは、敢えて曲がった気を使うことに、強度的メリットがあったのか?と。
天井と屋根に見惚れてしまったが――まだ、席にもついていなかった。
タールで真っ黒に染められたテーブルが鈍く艶を放ち、歪んだ偏光有機ガラスを通った光が、ところどころ虹色の輝きを映していた。
そして、アリアの姿があった。
アリアはコーヒーを一口含み、目を閉じて香りを確かめた。
その瞬間、眉がふっと持ち上がる。
ケイは思った。
前頭筋が疲れないのだろうか……。
――そして、気づく。また、やってしまった。どう申し開きをするべきか――。
「ごめん、遅れた」
――いや、違う。遅れた、わけではない。ただ――ひとを待たせておいて、ものに見惚れていたのだ。
「この建築を見れただけでも満足だよ」
――いやそれだけはだめだ。
結局、口をつぐんだまま、気まずい沈黙だけが残った。
アリアは椅子を引き、真正面に腰を下ろす。
背が高い。顔をぐい、と上げなければ、胸元しか見えない。
そして――合ってしまう。
琥珀色の瞳に、真っ直ぐ射抜かれる。
よく見知った友人だとわかっていても、ケイは会うたび、背筋をピンと伸ばして一瞬、石化してしまう。
陽光を受けてはちみつ色に揺れる、明るくやわらかな髪の一本一本すらも、ケイにはメドゥーサの頭のように映った。
アリアは眉をふっと上げ、口元に笑みを浮かべ――口を、開いた。
澄んだ、よく通る声。梁の間を通り越し、天井にこだまする。
「次の調査取材――石炭紀にしようと思って。ケイも来るよね?」
ケイは一瞬、ぽっかりと口を開けてしまった。
ござを敷いた座面の傾きが、やけに気になって仕方なかった。
アリアは、一瞬眉を顰める。
ほんのわずか眉を上げて、もう一度。
「来る・・・よね?」
世界が、一瞬だけ明るくなった気がした。
しかし、口はそのまなざしに縫い付けられ、返事を探す唇は、固く沈んだ。
――行きたい、でも、正直言うと、厳しい。
お金も、時間もない。打ち上げ代、法外。ゲート代は法外、便は月に一度だけ。
片道だけでも、二週間以上。
代金は、片道だけでも、貯金総額の何年分だろうか。
コーヒーの味が、急に苦くなったような気がした。
「・・・正直言うと、無理」
――それが、ケイにとって最も現実的な答えだった。
「職場を最低でも1か月は休まなきゃならない。一週間でも迷惑をかけるのに、一か月なんて・・・帰ったころには、ポストはないよ。」
「そうなったら、どうするかって…古書堂の店員は二人もいらない。叔父と売り上げを分け合ったら――ふたりして、深層の民として生ごみをあさるしかない」
アリアは身を乗り出し、両手を大きく広げてテーブルに置いた。
琥珀色の瞳がまっすぐ射抜き、眉が力強く跳ね上がる。
唇はきっぱりと開かれ、言葉の一つ一つが空気を切り裂いてケイに降りかかる。
「Hey Kei, it's not about money or work or any of that.」
(ねえケイ、お金とか仕事とか、そういうことじゃないの。)
「 You can’t just keep making excuses and rotting away on this planet forever, can you?」
(そんな言い訳ばっかりして、いつまでもこの星で腐ってていいってわけ?)
ケイは思わずのけぞり、手汗がにゅるりと滑った――それが叱責なのか励ましなのか。
ただ、鬼気迫る表情と声量に、心臓が胸の奥で跳ね上がるのを抑えられなかった。――逃げられない。
「……第一層の住人が、よく言うよ」
小さく吐き捨てるように。
「でも、ボクたちには――無理なんだ」
アリアは目をキラッと大きく見開き、両眉をぐいっと跳ね上げた。
にやりと笑って、テーブルをコン、と叩く。
「Guess what? The tickets are already ours.」
(聞いて?チケットはもう、手配済み!)。
咄嗟に口をついて、「そこまでして、なんでボクを?」
という言葉が出てしまったとき、ケイはあらためて、どうでもいいことを不思議に思った。
なぜ自信を卑下するときには、一人称が私からボクになるのだろう、と――
アリアはコーヒーカップの縁を、指ではじいた。
カラン、と短い音が響いたあと、琥珀の瞳がまっすぐ射抜く。
「Why? Because I can’t think of anyone better for the job.」
(なぜかって?そりゃ、適任がほかに思いつかないからに決まってるじゃない)
口角と眉は上がっていても、声は笑っていなかった。
アリアは、少なくともその道では有名人である。
古脊椎動物――とりわけ恐竜類に関しては屈指の研究者だが、それ以上に人々の記憶に残っているのは、動画配信者としての姿だ。現地でのフィールドワークを、そのまま荒々しく映した冒険動画は、恐竜を「博物館の古びた骨」から「会いに行けるサファリ」へと押し上げた。アリアは気絶銃<ノッカー>を片手に、泥にまみれながら追いかけ、記録し、捕獲し、計測する。吐息を浴び、時には食われそうになる。
そしてそのままを、映し、届ける。
野生に生きる、地球史で最も大きく偉大なる獣の姿を。
それを見た者たちは、どんなにそれが法外な旅費であっても、一度は過去の世界へ旅したいと思うようになるのだった。
その美貌と176㎝というスタイルの良さも大きいだろう。
要するに、スターである。
しかし――ケイにとっては、違った。
ケイにとって、アリアは大学の時の同級生だ。
出会ったときは確かに、鮮烈だった――突然クーラーボックスいっぱいのアンモナイトをもって部室に現れ、アンモ焼きパーティーをやる!と宣言したときは。確かにスターだと思った。
しかし――その後、その本性をよくよく知ることとなる。
講義をさぼっていつも調査に出て、赤点すれすれで試験直前に駆け込み、ノートをせびる存在だった。
それに、異世界は必ずしも、ゲートの向こうに広がるものだけではない。現代の地球にもまだまだ様々な、まだ見ぬ生き物がいる。
それに――この重層都市の最下層、かつての旧東京市街がなす炭酸塩台地の地下水にもまた、まだ見ぬ種がうようよしている。
そういうきめ細かな自然は、過去の世界ではめったに取り上げられない――だから、法外な旅費を使って過去の世界で恐竜を追いかけるのは――どこか、大味で雑に思えてしまうことがあった。
――そうか。
「ボクが面白いと思うものは、視聴者には面白くないと思うよ」
アリアは、コーヒーカップを置く音も荒々しく、即座に顔をしかめた。
「No, Kei. That’s exactly why You’re interesting.」
(違う、ケイ。むしろ君のそこが面白いんだよ。)
「たしかに、もうファンがついている中でやるなら、視聴数が稼げるかもだけど――ボクみたいなちんちくりんが画面に映って、客が離れないかな」
その言葉を聞いた瞬間、眉がぐいっと吊り上がり、机に置いた指がカンッと大きな音を立てた。
「Stop. Don’t you dare call yourself that.」
(やめて。自分のことをそんなふうに言わないで。)
声は低く、しかしひとつひとつの音が強く響く。
琥珀色の瞳は怒りとも情熱ともつかない光を帯び、ケイの胸の奥を撃ち抜いた。
アリアはタブレット端末を取り出し、指先でスワイプして一枚の画像を呼び出した。
わずかに眉を寄せ、ケイに差し出す。
「So… this is from when I went to the Carboniferous. Honestly—what do you think?」
(これは以前石炭紀に行った時の写真。正直――どう思う?)
写真には、トンボに似た昆虫――翅の途中にヒンジ部がないことが大きく違う――が、わしづかみにされていた。大きさは――大体、両手のひらくらいか。
「Meganisoptera。Namurotypusに似ているけど翅脈がはっきり見て取れない。翼開長は、25㎝くらい?翅脈にピントが合ってなくて、よくわからないけど…この画像3D静止画だよね、深度補正してみてもいい?」
「That’s exactly what I mean. And—just now, you said twenty-five?」
(そこよ。あとさっき、25って?)
アリアはカップを人差し指と親指でちょこんとつまみ、肩をすくめて小さく首を傾けた。
「I measured it. Thirty-one.」
(これ、測ったら31㎝あったのよ)
アリアはコーヒーカップを指先でつまんだまま、にやっと笑った。
「You know why? …I’ve got big hands.」
(私、手が大きいの)
彼女はカップをそっと置き、両手を広げてみせる。手のスケール感が、違っていた。
「わかった。要するに、スケールぼけすると」
たしかに――25㎝と推測したのは、自分の手を無意識に参照していたからだ。
アリアの手は――5㎝大きい。
これは、小さな生き物を扱うときには致命的な差だ。
ケイが専門とする非脊椎動物――無脊椎動物などという差別用語では呼びたくない――にとって、5㎝を超えるものは「大型種」なのである。
「そういうこと。」
そして、アリアはカップを唇に運びかけて――そのまま、動きを止めた。
笑みはふっとほどけ、唇がわずかに開く。言葉が、喉の奥で拮抗している。
「“…I thought I was chasing the things I wanted most.”」
(……ずっと、自分がいちばん見たいものを追いかけてきたつもりだった)
声はかすかに震え、端がほつれるように掠れていた。
「But lately… it all feels hollow.」
(でも――最近は、どこか空っぽに感じることがあるの)
ケイは目を瞬かせた。
らしくない。
高級カフェをわざわざ予約する、いつも見栄っ張りだったくせに今回は弱音を吐く。
――本気で悩んでいるんだな。
脳裏に、ふと、セピア色の古紙が浮かぶ。20世紀初頭、A. C. SewardのFossil plantsと、21世紀初頭、Taylor &TaylorのPaleobotany。
石炭紀――それは、人類を根っこから変えた時代だ。
もし石炭紀の北米とヨーロッパが当時の赤道にないか、そこにちょうどパンゲア中央造山帯による巨大な前縁盆地がないか、そこに森林が発達しなかったかすれば――産業革命は起きず、いまも我々は牛馬にまたがり、畑を耕し、空を見上げるしかなかっただろう。あるいは、欧米中心でない、まったく異なる社会体系ができていたかもしれない。
そして、そこで語られる史観もまた、まったく異なったものだろう。
石炭紀の記述は、高等教育までの教科書には二行しかない。
「石炭紀には森林が発達しました。植物が枯死して沼地などに堆積すると、地中で石炭が形成されます。人類が利用してきた石炭の多くは、この時代のものです。」
――これだけ、である。
石炭エネルギーという物自体、過去の遺物としてしか習わない。
人類にとって最も影響が大きい時代。
にもかかわらずほとんど語られず、その恩恵すら忘れられた時代。
ケイはちょっと目をそらしながら、ぼそぼそっと口走った。
「行きます。――いや、行きたい――です。石炭を作った――森に。」
蚊の鳴くような、声。
しかし――頬が少し、赤らんでいた。
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