第7話 書架の探索者
職場を飛び出した足は、速く早くとそそのかす。
現在と、現実と、光から逃げ出そうと。
重力井戸に引きずり込まれるように、階層を降りていく。
その先こそが、彼女にとっての楽園だ。
第十二階層、旧神保町古書堂の最奥。
太陽光は遥かに遮断され、模造された夜が、空間を閉じ込めていた。
照明は青黒く落ち、有機ELにちらちらと光る自発放電が、星空を演出している。
その中に、一つの小さな明かりがともっている。
そう――ケイである。
どこまでも続く、巨大な書架の列。
紙と糊が部分的に分解された、少し甘くスモーキーな香り。パルプに含まれるリグニンが、わずかに、わずかに分解されてバニリンやベンズアルデヒドとなり、鼻腔をくすぐる、らしい。
この綺麗な香りを黴のにおいだという人は――本が好きでは、ないのだと思う。
その間に、画面が2つ、光っている。
表示端末には、補正前のスキャン画像。机の上にはOCRされた文面。
右と左を見比べ、対応する文字を重ねて表示させ――一字一句、確かめる。
仕事は、AIが自動認識した文字に誤りがないか。
人は笑うだろう。しかしながら、こうした地道な作業こそが、知識を支えている。
ずっと昔の話だ。AIが今のように人の言葉を話し始めたころ。
世の中には、無料で誰でも閲覧できる電子活字情報が溢れていたらしい。
――今となっては、信じられない話だ、とケイは思う。
その意味では、当時に暮らしたかったとすら思う。
ただ当時は人口が今の三倍もいたと聞くと、やっぱりあきらめたくもなるが。
なぜ無料だったのか――にわかには、信じがたい話だ。
当時は誰でも投稿できる無料の電子活字が書かれた記事があったという。Webサイト、といったらしい。
財源は?
いまとなってはなぜ成り立つのか、にわかには信じがたいが――広告料で成り立っていたという。
その記述――Webサイトを訪れた人が目にとめることを期待して、広告会社がシステム整備のための資金を供給していたため、ユーザーは無料で閲覧できた、というわけである。
つまり、個人が電子活字を能動的に探し回ること――昔の人は、ネットサーフィンと読んだらしい――により、あたかも電車や道端の広告のようなものに目を止めるのに期待し、無料で誰でも使えるインフラを資金面で支えていた、ということである。
しかし。
そんなユートピアは、何世紀も前に失われてしまった。
それもそうだ、AIは広告を読んでも、その店を訪れてお金を払ったりはしない。
情報の地下水位は、過剰灌漑されたかのように低下した。
AIは既存の文字情報を食いつぶし、電子の世界が電子の世界を参照して書いた文章が、電子世界を埋めつくした。
増幅を繰り返すうち、いつしか、それは現実世界とは乖離したものになっていき――電子の世界でだけ成り立つ論理が、現実世界をも浸食し始めた。
現実の人間が書いた文章が軒並みWebサイト閉鎖で失われたとき、現実世界を書き記した言葉は、紙の資料や学術論文の中にしか残らなかった。
――この事態に、最も危機感を抱いたのは、AI会社である。
「一字千金」
という言葉がある。
むかし、呂不韋なる人物が百科事典「呂氏春秋」をまとめた際、一文字でも書き加えられるものには千金をやる、という意味であったらしい。
それが、AI会社のとった戦略だった。
正確な情報を、高額で買う。
すると、重要で正確な記述であればあるほど、高額に「売れるようになった」。
すると、情報は高騰し、より一層AI会社に情報を頼らざるを得ない構造が出来上がったというわけである。
新しい記述だけではない。過去人類が書き記してきたあらゆる記述に金銭的価値が生まれ、その真正性にこそ資金が投じられるようになった。
紙の資料は、どうしても画像認識という工程を挟む。
工程を挟めば挟むほど、エラーが生じる。何万文字に一つというエラーでも、高精度なAIは見出す――わけではない。むしろ、「それっぽい」ものに置き換えてしまう。
1文字の誤植は、時に大きな文意の差を生む。
それを無視せず、勝手に置き換えず、きちんと確認できるのは――人間の、読者だ。
***
人工の夜は、気温までリアルだ。
夜中、ツン、と冷え込む。
毛布を肩にかけながら、夜の書架を、ふらつく。
本を求めて。
検索機能もいい、配架AIに聞くのも、確かにいい。
――が、内容ごとにある程度まとまった書架をぶらぶらと歩くこと、これに上回るものはない。
もともと手に取らなかったつもりの本が、見えてくる。
そして――新たな出会いが、あるのだ。
石炭紀、という時代に行く前に、目を通しておきたい本が、幾らかあった。
まず「石炭紀」Carboniferous というのは、現在も使われている地質学的時代の中で、最も由緒正しいものである。
ウィリアム・ダニエル・コニベアおよびウィリアム・フィリップスによる「石炭紀」という概念の初出、
「OUTLINES of the Geology of England and Wales. WITH AN INTRODUCTORY COMPENDIUM of the GENERAL PRINCIPLES OF THAT SCIENCE, and Comparative views of the Structures of Foreign Countries.」
が、この旅の出発にはふさわしいようには思えた。
ケイはずっしりとしたその古書の横に、ぴっと1枚張り出したバーコードを端末でスキャンする。
<PAGE VIEW with UNCORRECTED OCR>
<CHECK INCOMPLETE>
ページビューを確認しながら、OCRとの乖離がないかどうか確認しながら読み進める――それが、仕事である。
要するに、ほとんどただの読書だ。それで雀の涙ほどでもお金がもらえるのなら、これ以上の天職はないと思う
――が、生計を立てるには、あまりにも細かった。
この本の書き出しは、あまりにも滑稽だ。
「旅行者の便宜を考慮し、本書は小さな活字と薄手の紙を用いて印刷された。旅の途上で、この一冊が興味深い伴侶となることを期待しているのである。」
――この、五百ページ以上もある、みっしりと文字の敷き詰められた本が?
あるいは、人間が読める文字数というのは、時代につれて退化しているのかもしれない、と思うこともある。1万字ぽっちしかない資料を「長いですね!要約しますか?」とAIがいちいち聞いてくるような環境で、長文を読むということへの耐性がはたして、どれだけつくだろうか。
さて、本書はグレートブリテン島のイングランドおよびウェールズという地域の地質について述べている。
グレートブリテン島というのは、そこまで大きな面積ではない。世界の島の中ではトップ10の大きさには入るようだが、それでもぎりぎりの第九位である。
――そんな島が、かつて世界の陸地の四分の一ほどを征服していた。本書が書かれたころの大英帝国は、カナダ、中米、西アフリカ、南アフリカ、インド、東南アジア、オーストラリアに至るまで、地球規模の植民地ネットワークを持っていたという。地球の裏側までを支配する、まさしく「太陽の沈まない帝国」だったのである。
その原動力は、「産業革命」これであった。
世界に先駆けた、蒸気機関による機械工業の発展。
イングランドは、「世界の工場」となり、そこで作られた製品を、世界中の植民地に売りつけて回ったのである。
豊かな国では、豊かな文化が発展する。
19世紀における自然科学におけるイングランドの存在感が極めて大きいのも、その繁栄と直結していた。
――なぜか。
コニベアは、石炭紀について、こう書きはじめている。
“この系列の記述に入るとすぐに、私たちは先に扱った地層群に比べて、統計的・経済的観点において遥かに大きな重要性をもつことに驚かされる。これまでに触れてきたのは、建築材料として使えるいくつかの石材の種類にすぎず、鉱物資源としての価値があると一般にみなされるものについては、ごくわずかな金属鉱床が新赤色砂岩に付随して産出する例を示した程度であった。しかしここからは、まったく新しい局面に入る。”
――そう、「石炭紀」という地層は、グレートブリテン島においてほかの時代と比べ物にならないほど重要な鉱産資源だったのである。そして、彼は続ける。
“この島の製造業の繁栄——それが築き上げた巨大な産業の構造——は、実際にはほとんど全て、この地層系列に対する幸運な地質的配置に依存している。もし石炭鉱床が枯渇するようなことがあれば、その基盤は瞬時に崩壊するであろう。そして言うまでもなく、その影響は国民経済にとどまらず、私生活や家庭の快適さにおいても同様に致命的であろう。我々は高度な文明の多くの利点を失い、耕作地の大部分は再び森林に覆われ、現在の人口の一部が燃料を得るために伐採を余儀なくされるに違いない。“
つまり、「石炭」が大英帝国を支えていたのか?
いや、それだけではないのだ。石炭紀という時代は、さらなる恩恵をもたらした。
“これらの地層のほかに、**粘土鉄鉱(clay-ironstone)**が、連続した層をなして、あるいはノジュール(球状・団塊)の列(courses)として、石炭田によく見られる。平均して金属(鉄)を約30%含有しており、地方的には「Mine(鉱石)」「Pins」などと呼ばれている。
このように、最も重要な金属である鉄が、それを製錬するために必要な燃料(石炭)、そしてその製錬を助ける石灰岩と、直接結びついた形で同じ地層内に存在するという事実は、人類の産業活動にとってきわめて都合よく調和した配置の一例である。したがって、もしこのような地球の原材料の分布が、人類の便宜を考慮して定められたと考えるとしても、それは「目的因(final causes)」を持ち出しすぎであるとは言えないだろう“
――石炭紀を制した大英帝国が、世界を制したのだ。
その恵みは、まさに当時の人々にとって、あまりにも都合がよかった。
同様の炭鉱は、ヨーロッパ各地、そして北米でも開発され、欧米諸国は文化的にも、経済的にも、世界を染め上げることとなる。
――これらはすべて、石炭紀という時代があまりにも特殊で、あまりにも人類にとって恩恵のある存在であったからである。
その世界に、行く。
セピア色のページは無限かのようにすら思う。
そして読めば読むほど、前提知識が必要になって、調べる。
読み終わるには、まだしばらくかかりそうである。
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