第4話 メッセージ
古びた紙のにおいが、どこにでもしみついている。
地表から数えて、第十二層。
ほかに住む人もおらず、灯の光も届かないこの階層に、旧神保町古書堂街がある。
もはやかつての街並みの面影はない。
癒合を繰り返し、巨大なサンゴ礁のように成長した都市の、てっぺんから数えて50m。実質的に地下だ。そんな真っ暗闇の階層に大量の古書を収蔵した収蔵庫が延々と並んでいて、ぽつぽつと、最低限の明かりがともっている。
そのさらに奥に、ケイの住む場所がある。
古書堂に関係する者たちが過ごすための、手を広げれば両側の壁に届いてしまいそうな、居住スペースだ。
ごくごく、小さい。
壁は、薄い。
いつぞやの居住者が癇癪を起して開けた穴が、まだひゅうひゅうと風を切っていた。
小さな部屋は、ふつうベッドがあって、寝るだけで目いっぱいだ。しかしその中に、まるで倉庫のような一角がある
――ケイの部屋だ。
ベッドは、ない。そもそも空いているスペースが、ない。
単管パイプで組まれた棚のようなスペースには、薄いマットと毛布が敷かれている。
そして猫のように、小柄な体躯を、にょろりと滑り込ませるのである。
毛布にくるまって丸くなる。手足を伸ばせば、棚はすぐいっぱいになってしまうから。
――しかし、今日は勝手が違った。
腹の底から、突き上げるような痛みが襲ってきて、ジワリと冷や汗が頬を伝う。
棚にかけられた梯子を駆け降り、廊下にダッシュした。
額に汗を浮かべながら便器に滑り込んだとき、はっと気づく。
通勤カバンに、かのサンプル瓶を入れたままだったということに。
取り出して、内容物を便器に注がねば――
そう、フィールドワーク中に身に着けた、動物やサーモカメラに狙われないよう、サンプル瓶に放尿して後で捨てるというライフハック。
それが、フィールドに出なくなったいまも、日常を生き抜くために有効活用されてしまっている。
腹を抑えながら部屋に駆け込み、鞄から黄褐色の液体の入ったサンプル瓶をとりだすと、また急に下腹部の鈍い痛みが襲う。
鳥肌を立てながら今日の尿をようやく捨てると、はらわたの中もすっかり空っぽになるくらいに、出た。
石炭の煙のせいか、マツオウジの生焼けのせいか。
視界に、TWINSの文字列が浮かぶ。
《家でよかったですね。社内じゃトイレ、使えませんから》
ケイは、返事もせずに目を閉じた。
会社で飲み食いをしないのは、女子トイレに行かずに済むためである。もはや出禁といっても等しいほど、悪意に満ちた視線をむけられるのだ。誰もいないときにこっそり入っても、気が休まらなくては出るものも出ない。
腸管の中身が軒並み搾り取られると、ふいに、あのいまいましいヒト型端末の顔が浮かんだ。
――ケイは思う。自分でも不思議だが、こういうとき、ほかの社員の顔が浮かぶことはまずないのである。
そんなことはさておき、ケイは額に滴る汗をぬぐい、ようやく寝床に入った。
その周囲には――所狭しと、網やウェーダー、ピッケル、ロープ、テント、リュックサック…などなど、数知れぬ探検道具、そして無数のサンプル瓶と標本が埋め尽くし、保存用の樟脳のにおいが古書堂からの紙のにおいとまじりあって、得も言われぬ独特の香りを醸し出していた。
もう何百年も、なにひとつ変わっていないものばかりだ。骨董品というか、オールドファッションというか。いいものは――何年たっても、変わらない。新しい合成繊維の軽量ギアを揃える余裕もないし、第一、ケイにはそこまで必要を感じていなかった。
貧乏探検家にとって、装備とは「使えれば十分」であり、軽さとかそれ以上の快適さは贅沢だった。
おかげで――筋肉がついて、余計に男と間違われるのだが。
細長い有機ELテープが、ぼんやりと、黄色味を帯びた光を広げる。
この部屋には、ほとんど影ができない。ものをなくしたとき見つけやすいように、何度も光源の位置を調節した成果だった。
棚のような片隅に、また、体をひょいとねじ込む。
こういう隙間にすっぽり収まると、身を隠しているような気がして、気が安らぐのだ。
むしろ、だだっ広いところで大の字になって寝ているのがよいという人間は、外敵に襲われる危険を忘れてしまった自己家畜化動物だと思ってしまう。
毛布が一枚置かれただけの寝床から、ぬっと手を伸ばしてスイッチを切る。
部屋はしんと、暗くなり、意識がすっと遠のいて、眠りの底へと落ちていった。
***
夜中、沈黙の中、端末の画面が、ぱっと青白い光を放つ。
真っ暗な部屋に、ぽっと沸いた、流れ星のようだった。
ケイは、光に敏感である。
眠い目をこすって毛布の中から手を伸ばし、端末を手探りで掴む。
大学の友人、アリアからだった。
【カフェの予約、とっといた。日曜14:00にRustic。来られる?】
ケイは短いメッセージを二度読みし、深く息を吐いた。
「また、呼び出しか……資料調査の相談かな」
アリアからの呼び出しは、いつも唐突だ。
空港の乗り継ぎロビーに呼び出されたこともあれば、古書堂に突然押しかけてきたことすらある。
それで、言われたとおりに行ってみたら、いなかったりする。
年に二度は、そんな無茶をされる。慣れたといえば――慣れた。
傍からは、いつも彼女は考える前に、行動で全てを決めるように見える。
しかしその本性は――単に、忙しいのである。
調査のため一年中飛び回っていて、何とか空けられた時間に、ひょいと現れるか、突然、来いと連絡をよこすのだ。そして、来ないな、と思っていると「ごめん!!用事が入っちゃって!!また!」などと、メッセージが届いている。
その時、部屋の端に置いたARグラスが点灯し、小さな文字が流れた。
《ご主人様。あのアリア女史が、わざわざ一週間も前から計画的にカフェを予約するなど、ありえます?》
「まあ……そういう時もある、んじゃないかな」
ケイは毛布をかぶり直し、また何やら文字を表示し始めたグラスを反転させた。
***
時流というのは、時の流れと書きながらも、あまりにも過ぎ去るのが早いもの。
ウッカリすれば、置いて行かれてしまうもの。
あのメッセージが来てから、心臓がいやな不協和音を立てることが度々だ。
――たしかにTWINSがいうとおり、あの一文は、アリアにしてはやや、妙なのだ。
ケイは会社のデスクにつくと、汎用人工知能「アトラス」の社用アカウントを開いた。
そして、待ち合わせ場所として提示されたRusticなるカフェについて尋ねる。
というのも、いま最新の情報を知るにはこうするほかないのである。
いろいろあって、ケイの個人用アカウントはBANされたまま、もう何年も解除申請を出していないのだ。
ケイがこの理由に言及したことは少ない。
「あれは――ある種の、言論統制か、もっと恐ろしいものだった。だからもう、アカウントを預ける気が起きない。」
そう、親しい友人として、アリアに話したことがあった。
回答が生成された。
《アトラス:Rusticは旧東京市街から移築された文化財級の古民家を活用したカフェです。創建は二十世紀初頭と推定され、外観は黒漆喰の壁と燻した木材、瓦屋根をそのまま保存。内装については、当時の構造ができる限り保存されています。大梁や床板には、当時の加工痕や経年変化が見られます。
《立地は第一層、すなわち陽光層の庭園区域に隣接しており、昼間は直射光が差し込みます。周辺は富裕層邸宅や大使館的施設に囲まれており、文化的・景観的に重要な一角とされています。》
《予約状況についてですが、通常は三〜四週間先まで満席です。予約は提携カード会員向けの優先枠を通じてのみ確保可能です。口コミ平均評価は4.8/5で、特に“本物の木の香りがする”という点と、陶芸家による手焼きカップの使用が高く評価されています。》
《参考までに:ご主人様の現在の勤務先アカウントからは直接予約を取ることはできませんが、既に予約が成立している場合には、問題なく入店可能です。》
――やっぱり、おかしい。
そもそもこれ、予約するだけでも相当だぞ。
あと――この建築、見たい。
ケイはデスクに突っ伏して、そのまま目を閉じた。
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