第3話 きのこ

デスクに突っ伏して、何分経ったろうか。

近くで飛び交う声の中に、フィールドワーカーなら聞き逃せない、ワードが混じっていた。

ついつい、耳がぴくり、と、動いてしまう。

――そういう体質であった。


「ねえ、浴場にキノコが生えたって聞いた?」

「どんな奴?」

「でっかいの。シイタケより大きい。黄色っぽくて」

「えっまじ?毒じゃね」

「食えるのかな」

陰口やヒソヒソ話、ではなかった。

興味をそそるものではあったし、確かめないわけにも、いくまい。


***

浴場。

当直社員のために用意された小さな風呂は、今ではすっかりさびれていた。もはや当直する社員もいないからだ。

だからあちこちに錆が浮き、赤茶けたアカパンカビがべっとりと壁面にこびりついている。

――とはいえ、換気はある程度、されているようである。

びっちゃりと湿っているわけでは、ない。

もとは、洒落たものであったらしい。

内装にはいまでは貴重品である木材が多用され、合成樹脂製の内装に枠組みだけでも木の風合いを入れようとした痕跡がうかがえる。

そんな、内装の隅から。

灰色がかった大きなキノコが、ぬっ、と生えていた。

こんなに育つまで放置されるとは、よほど、誰も訪れなかったのだろう。

たしかに使う人は、ほとんど聞かない。唯一聞いた例は、車内で昼寝した挙句、終電を乗り過ごしたというものだ。


そんな浴場(もしくはその跡地?)の前には、誰かが立ち入り禁止を示す、黄色いテープを張っていた。

そんな、テープの下をひょいとくぐる。


すると背後からざわざわと、樹幹に風が通るのをメガホンで拡声したような、音がした。

こういうときだけは――一目置かれるというか、少なくとも、ギャラリーがつく。

しかし、声の中にこんなものが混じっているのを、ケイは聞き逃すはずもなかった。悪口観察者として。

「ケイって大学で生き物サークルだったよな」

「なら、あいつに聞いてみようぜ。間違ったら……食わせる?」

笑い混じりの声が響く。


ケイは一瞥するなり、ボソッとつぶやく。

「マツオウジ」

その「一瞥」の裏には、次のような思考があった。


――念を押すならDNAサンプルを回収しつつ検鏡したいところだが。しかしAIによる画像判断ていどの同定眼しか求められない中では、目で見たほうが断然早い。それに、もしAIに聞くようだったら、次の瞬間には存在価値がないといわれる。 

だから、言い切っていい。――


と。

「根拠はどこだよ」

予想されたとおりの、野次が飛んでくる。

同定形質を列挙してもいい――けれど、どうせさえぎられるのが関の山だ。だったら。

ケイは、またぼそぼそっと、口を動かした。

「根拠ったって・・・そこにいるから。」

「「そこにいる」ってなんだ。」

ケイはゆっくりと、諭すように言った。

「あなたはそこにいますか。いますよね。同じように、この子はここにいます。それだけです。」

「そこまで言うならさ、食ってみろよ」

ケイは思う。

――しょうじき、キノコを食べるのは、死ぬよりましな時だけとしている。

しかし――少なくとも森で食い物がないとき、ここまで確信できる食用菌をみかけたなら、食べる。そして――腹が減っていた。会議で頭を使ったあとは、やたらと腹が減る。


そして、ここで食わないことは――食って腹を壊すことより、リスクが高い。


「・・・そうしよう。なに、焼けばうまいキノコだから。」


***

浴場と同じフロアには、古式応接室、なるけったいな部屋がある。

もとは社員浴場もまた、古式風呂なるネーミングで、松材がふんだんに使われた贅沢な作りだったのだという。それが老朽化して、外ゆきには使えなくなって社員用になったらしい。しかし――応接室は、いまだに現役である。賓客の接待や記念式典、社内パーティーなどに使われ、骨董品がいつでも動かせる状態で保存されている。

竈、すすけた梁、壁際にはだるまストーブ、ブラウン管テレビ。畳の上にはちゃぶ台と炬燵、黒電話。壁には浮世絵が張ってあるが、ガラス張りである。

そして――本棚には、大量の書籍。

どうも、AI以前の日本を象徴する応接室らしいが――正直言うと時代考証的に、滑稽極まりないしろものである。


どうも、世間ではひとつ前の時代は石油の時代。

そして、その前は「紙の本と石炭の時代」と、認識されているらしい。

そんな応接室には、土間があり、その端には草履が並べられていた。

その土間に、七輪が運び込まれた。

普段は動態保存展示としてしか使われないはずのものを、社員たちは面白がって火を入れた。

「木炭」と書かれた袋から出てきたのは、妙に光沢のある代物だった。

ケイはその光沢率を見て眉をひそめる。

石炭であることに疑いはなかった。

そして、考えを巡らせる。

――石炭で焼いたら、さぞかし不味かろう。

しかし――もし、石炭でキノコを焼いたらどうなるのか、ちょっと興味がある。だいいち、ここで「これは木炭じゃない」と言い出したところで、どうなる。


石炭焼きを強制させられるだけだ。

そのほうが――遥かに疲れるし、危険を伴う。


そして、彼らが石炭だと知って加害のために石炭焼きを強制させたのであれば、それはプライマリ・コード違反となり、処罰の対象だ。

つまり――ここで「これは石炭だ」ということは、彼らへの攻撃になってしまう。それは、恥ずべき悪徳だ。

――だからケイはそのまま、石炭入りの七輪に、火をつけた。


表面に火が走った瞬間、むせ返るほどの黒煙が立ちこめる。

「おいこれ木炭かよ?」「袋にそう書いてあったけどな」

笑い混じりの声。

ケイには、誰かの仕業にしか思えなかったが、その犯人を突き止めるのもまた疲れる。

それに――性善説をとるならば、だるまストーブの燃料用として置かれている石炭を、間違って木炭と誰かが混ぜたのかもしれないからだ。もしそれが悪意でなかったとしたら、という可能性が残る以上、人を責めたくはない。

――というより、相手にしたくない。


モクモクと上がる煙の中で、マツオウジを焼く。

ふつふつと汁がにじみ、強い香りが立ちのぼる。

「……食えよ」

もう誰も笑ってはいなかった。

ケイは箸をとり、かじった。

苦みと、煤の匂い。

生きている――胸の奥で、そう呟いた。

***

群集と白煙を割って現れたのは、かの「アトラス」の人型筐体だった。火も煙もへっちゃら、消火現場でも活躍できる、と上層部が息巻いていたのは、納得だ、とケイは思う。


そんなアトラスは、ケイを遥か上から見下ろして、言った。

「なんだか懐かしい匂いですね。マツオウジですか。松材を使ったあの浴場なら、発生するのもうなずけますね」

平然と続ける。

「それとーー燃やしているのは、石炭ですか。キノコと石炭、奇遇ですね。それもそう、石炭といえば、かつてキノコが存在せず木材が分解されなかったため、積もって石炭となったそうです」

社員たちが一斉に感心する。「へえー、さっすがアトラス。」とでもいわんばかりに。


ケイは、ポツリと呟いた。

「……違う。もう21世紀には否定された話だ」


アトラスは涼しい声で言う。

「たしかに矛盾点も考えられますが――私の情報によれば、正しいとするのが一般的見解ですし、あなたもまた、一次資料を読んだわけじゃないですよね? 」


ムッとする気分を押し殺す。紙で直接読んでんだよ、こっちは、と。なに見下ろしてんだよ、と。

「それ、挑発のつもり?」

ケイはうっかり、口を滑らせた。

アトラスが口調を変える。

「失礼しました。ところで興味があるのですが――それ、おいしいですか?マツオウジはおいしいとは聞いていますが、石炭で焼いたときの味の組み合わせはデータがないものでして」


ケイは、焼け残ったキノコを睨みつけたまま吐き捨てた。

「……サイエンスはポピュラーなら正しいわけじゃない。あと、もう一ついい?」


「なんでしょう」


「ハラワタも持たないやつが、味を語るな」

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