第8話 市役所という名の試練

 市役所の窓口は、思った以上に冷たい空気に包まれていた。


 白くて硬い光の下、整然と並ぶカウンター。書類の提出音と、低い話し声だけが不規則に響く。


 ユキは緊張した面持ちで、僕の後ろに少し隠れるように立っている。彼女の手が、少し冷たかった。


「大丈夫か?」


 僕は小声で囁いた。


「……はい」


 彼女はうなずいたが、その声はかすかに震えていた。


 健太の叔父さん、佐藤さんは、厳しい顔をした中年の男性だった。でも、健太から話は聞いていたらしく、僕たちを個室のような場所に通してくれた。


「で、その……この子の戸籍のことですが……」


 佐藤さんは厳しい口調で切り出した。


「現状、何の身分証明もない……となると、非常に難しいですね。まずは出生届が出されているか、本籍地の市役所に問い合わせる必要がありますが……」


 ユキはうつむいた。本籍地――彼女が本来いるべき時代の市役所に、問い合わせることなど不可能だ。


「……実は……」


 僕は覚悟を決めて、できるだけ真実に近い形で説明した。


「ユキは……長い間、ある事情で家族と離れ離れで、公的な記録からも外れていたんです。だから、記録上は……もう存在しないことになっているかもしれなくて……」


 佐藤さんは眉をひそめ、しばらく黙考した。


「……いわゆる、“無戸籍”の問題に近いわけですか。しかし、それならば尚更大変です。裁判所の関与も必要になる可能性が……」


 冷や汗が背中を伝う。このままでは、完全に行き詰まってしまう。


 その時、佐藤さんがユキを見つめ、ふと質問した。


「……失礼ですが……そのペンダント、ずいぶんと古いものですね」


 二人は同時にハッとした。ユキの胸元で、銀のペンダントがかすかに光っている。


「ええ……祖母の形見で……」


 ユキは答えた。


 佐藤さんはさらに細かく見つめ、そして驚いたように息を呑んだ。


「……もしかしして……この紋様は……“雪月花”ではありませんか?」


「雪月花……?」


 僕とユキは顔を見合わせた。


「ええ、戦前からある、この地域の旧家・雪村家の家紋です。確か……戦後すぐに廃業された酒店のご令嬢が、行方不明になったという話が……」


 僕の心臓が高鳴る。雪村家――ユキが言っていた『やまき酒店』ではない。しかし……。


「雪村……?」


 ユキが呟く。


「私の……母方の祖母の旧姓が……」


 繋がった。彼女の記憶の断片と、現実の歴史が、奇妙に符合した。


 佐藤さんは真剣な表情になった。


「……これは、もしかしたら重要な手がかりかもしれません。雪村家は現在もご子孫がおられます。もしご縁が証明できれば、身元の確認に繋がる可能性が……」


 彼はメモを走り書きした。


「まずは、そちらにコンタクトを取ってみましょう。私からも、可能な範囲で情況を説明しておきます」


 絶望的な状況に、ほんの少し、光が差し込んだ。


 市役所を出ると、ユキはぼんやりと空を見上げていた。


「……雪村……おばあちゃんの、実家……」


 彼女の目に涙がにじんでいる。


「……もしかしたら……私にも、帰れる場所が……?」


「ああ、きっとあるさ」


 僕は強くうなずいた。


「一つずつ、やれることをやっていこう。佐藤さんも協力してくれるって言ってたし」


 彼女は涙をぬぐい、そして、かすかな笑顔を見せた。


「……祐介さんがいてくれて、本当に良かった」


 その言葉に、僕は胸が熱くなった。公衆電話から始まった全ての出来事が、今、現実を動かし始めている。


 帰り道、夕日が街をオレンジ色に染めていた。ユキは珍しく、少しだけ饒舌になっていた。


「あの看板、すごく光ってる……」


「みんな、小さな機械でお話してる……」


「車の形が、全然違う……」


 彼女の純粋な驚きに、僕は思わず笑みを零した。彼女にとっては、この日常そのものが、驚きと発見の連続なのだ。


「よし、明日からは現代講座だな」


 僕は冗談めかして言った。


「スマホの使い方から教えるよ」


「……はい! よろしくお願いします!」


 ユキの返事は、どこか誇らしげに聞こえた。


 現実はまだまだ厳しい。雪村家との接触が、必ずしもうまくいく保証はない。


 でも、彼女の笑顔を見ていると、どんな困難も乗り越えられそうな気がした。


 僕たちは、ゆっくりと歩いて家路についた。 彼女の新しい人生への第一歩は、静かに、しかし確かに踏み出されようとしている。








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