第7話 明日への第一歩

 ユキが僕の部屋で眠りについた後、僕はリビングで一人、考え込んでいた。 天井のライトが、冷たい白い光を落とす。静まり返った部屋に、時計の秒針の音だけが不必要に大きく響いている。


 彼女を救い出したのは良かった。だが、これがゴールではない。むしろ、本当の困難はこれから始まるのだ。


 彼女には戸籍もなければ、健康保険証もない。現代の常識からすれば、彼女は“存在しない”人間だ。 学校にも行けないし、まともな仕事に就くことも不可能に近い。 何より、彼女が数十年前から来た少女だなどと、誰が信じるというのだろう。


 頭が痛くなってきた。僕はごく普通の高校生に過ぎない。突然、時を超えてきた少女の面倒を見るなど、どうすればいいのか——。


「……祐介さん?」


 ふと、か細い声がして振り返ると、ドアの隙間からユキの顔が見えた。毛布をしっかりとまとっている。


「……眠れないの……?それとも、私のことで……悩んでいますか?」


「……バレてたか」 僕は苦笑いした。


「ちょっとね……これからのことを考えてた」


 ユキはそっと部屋に入ってきて、僕の向かい側に座った。


「……私……ここに来て、祐介さんに迷惑をかけているんでしょう……?」


「未来のことは、わからないけど……ここにいること自体が、きっと大変なことなんだろうなって……」


 彼女はうつむき、毛布の端をぎゅっと握りしめる。


「……もし……私が戻った方がいいなら……」


「戻る場所がどこか、わからないけど……」


「バカなこと言うな」


 僕は優しく、しかし強く言い放った。


「あんな霧の中に、一人で戻れっていうのか?もう二度と、あんな孤独を味わわせたりしない」


「でも……!」


「大丈夫だ」


 僕は彼女の目を真っ直ぐ見つめた。


「方法は必ずある。一つずつ、やれることからやっていこう。まずは……君にここにいてもらうための“場所”を作ることだ」


 翌日、僕は親友の健太を呼び出した。学校の屋上で、慎重に話を持ちかける。


「……それでさ、すごく非現実的な話なんだけど……遠縁の妹が、急にうちに身を寄せることになってさ……」


 僕は考えた末、できるだけ真実に近い、しかし信じられない部分を削った説明をした。“親の事情でこれまで疎遠だった”、“戸籍などの手続きがめちゃくちゃ”、“とにかく今は人前に出したくない”——。


 健太は腕を組み、深刻な顔で話を聞いていた。


「……つまり、お前のとこに、突然妹が現れたってわけか。で、その子はまともな身分証明も何もないと?」


「……ああ。学校にも行かせてやりたいんだけど……どうしたらいいか、わからなくてさ」


 健太はしばらく黙考し、そして深く息を吐いた。


「……めっちゃくちゃな話だな。でもよ、祐介……お前、別人みたいに真剣だぞ」


「あの子のことは、本当に大切にしたいんだな?」


「ああ」 迷いなく答えた。


「……わかったよ」


 健太はニヤリと笑った。


「俺の叔父さん、市役所の人と知り合いなんだ。完全な解決は無理でも……とりあえず“存在”を認めてもらうための手がかりくらいは、掴めるかもしれない」


「でも、約束しろよ。ちゃんとその“妹”さん、紹介しろよな?」


 胸のつかえが一つ、おりた。完全な解決ではないが、光は見えた。


「ありがとう、健太。恩に着る」


 放課後、僕は急いで家に帰った。ユキを一日中一人にしていたことが気がかりだった。 ドアを開けると、彼女が慌てた様子で立ち上がった。部屋はきれいに片づけられ、やかんから湯気が上がっている。


「お、お帰りなさい……祐介さん」


「……え? まさか、掃除とかしてくれたのか?」


「……はい。お世話になっているので、できることは……と思って」


 彼女は申し訳なさそうにうつむく。


「……余計なこと、でしたか……?」


「いや……ありがとう。助かるよ」


 僕は心から笑った。彼女はもう、霧の中の怯えた少女ではない。ここで生きていこうとする意志が、彼女の瞳に強く宿っていた。


 その夜、僕はユキとこれからの計画を話し合った。


「まずは、健太の叔父さんに会うことだ。それまで、外に出るのはなるべく控えてほしい」


「わ、わかりました」


「それと……現代のことを教えないと。スマホやインターネット、生活様式……君の時代とは、かなり違うはずだ」


 彼女は真剣な面持ちでうなずき、メモを取るようにして聞いていた。


「……頑張ります。一日も早く、この時代に慣れますので……」


 彼女のその健気な姿に、胸が熱くなった。 公衆電話が繋いだ奇跡は、終わりではなく、始まりだった。


 明日、僕はユキを連れて、市役所へ向かう。 現実という名の、新たな困難に立ち向かうために。


 彼女の手を握りしめて——。








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