第5話 時を超える手

「ユキ! こっちだ!」


 僕の叫び声は、歪む空気に掻き消されそうになった。ユキの姿は、滲んだ写真のように揺らめき、時計台のレンガさえもが波打っているように見える。


 ゴロゴロゴロ……!


 雷鳴が追い打ちをかける。まるで時間そのものが拒絶しているかのように、彼女の足元の地面が光の粒となって散りばめられていく。


「……怖い……!」


 ユキは泣き叫んだ。踏み出そうとした足を引っ込め、もう一度時計台の陰に縮こまろうとする。


「ダメだ! 引っ込まないで!」


 僕は必死で叫ぶ。これが最後のチャンスだという直感が、焦りを煽る。


「君はあの日、ずっと待ってたんだろ?!誰かを! 助けを待ってたんだろ!?」


 彼女の瞳が、大きく見開かれる。


「僕はここにいる! 約束したんだ! 会いに行くって!」


 僕はためらわず、ゆらめく“境界”へと足を踏み入れた。まるで冷たい水の中に飛び込んだような、独特の抵抗感が全身を包む。視界がぐらつき、耳の中で甲高い音が鳴る。


 それでも、僕は彼女へと手を伸ばした。


「こっちの手を掴め!」


 ユキは怯えた瞳で、僕の手を見つめる。彼女の周囲の景色は、急速に色を失い、白黒のノイズのようになっていく。彼女自身の輪郭もぼやけ始めていた。


「……祐介……さん……」


 彼女は呟くと、ゆっくりと、震える手を差し出した。


 二つの手が、ゆらめく時間の薄膜のなかで、かすかに触れ合う。 その感触は、ほとんどないかのようだった。か細い、儚い温もりだけが、僕の指先に伝わってくる。


「離れるな! 絶対に離すな!」


 僕は叫びながら、全身の力を込めて手を引いた。まるで深い泥沼から何かを引き上げるかのように、重く、そして強い抵抗がある。


「……あ……」


 ユキの声が聞こえる。彼女の姿が、少しだけ、こちらの世界側に、はっきりと浮かび上がった。


 ザー――――――!!


 その瞬間、ついに空が裂けた。まるで天の怒りのように、凄まじい雨が一気に降り注ぎ、視界を遮る。雷光が世界を白く染め上げる。


「くっ……!」


 僕は歯を食いしばり、なおも手を引く。ユキの手の感触が、少しだけ確かなものになってきている。冷たい雨に打たれながらも、彼女の指の細さ、その震えがはっきりと感じられる。


「……お願い……」


 彼女の泣き声が、雨音を縫って聞こえた。


「……離さないで……!」


「……当然だ!!」


 僕は最後の力を振り絞って、彼女をぐいとこちらへと引き寄せた。


 ――――――――――――。


 次の瞬間、全ての抵抗が、ぷつりと音を立てて消えた。


 僕はその勢いで後ろへ倒れそうになり、何とか踏み堪える。冷たい雨が顔を叩く。 激しい息遣いと、どしゃ降りの雨の音だけが、周囲に響いている。


 ゆらめいていたはずの景色は、元の現代の公園の姿に戻っていた。古びた時計台はなく、そこにはただ、雨に濡れるベンチと遊具だけがある。


 そして――。


 僕の腕の中に、確かな重みと温もりがあった。


「……う……」


 微かに動く。俯いたまま、全身ずぶ濡れで震えている少女。僕が差し出した銀のペンダントを、必死に握りしめながら。


「ユキ……?」


 僕は恐る恐る声をかけた。


 少女はゆっくりと顔を上げた。長い黒髪が雨で張り付いている。その顔は、電話越しに想像していた以上に幼く、そして――生きている、生身の人間のものだった。


 大きな瞳が、困惑と恐怖、そしてほんの少しの希望で揺れている。彼女は周囲の見慣れない景色――現代の公園やビルを見回し、そして僕の顔をじっと見つめた。


「……ほんとうに……来ちゃった……?」


 彼女の声は、かすかで、しかし確かにこの時間、この場所に響いた。


「ああ……ようやく、会えたな」


 僕は思わず、安堵の笑みを零した。全身の力が抜け、その場に座り込んでしまいそうになる。


 雨はなおも激しく降り注いでいる。しかし、雷鳴はもう聞こえない。時間の歪みは収まり、世界は再び、確かな時間の流れを取り戻したようだった。


 彼女はここにいる。数十年前の過去から、現代へと。


「大丈夫か? 怪我は?」


 僕は心配そうに尋ねた。


 彼女は首を振り、そして、ぽつりと呟いた。


「……祐介さんは……温かい」


 その言葉に、僕は初めて、自分も全身ずぶ濡れで震えていることに気づいた。しかし、彼女の無事な姿を見ると、そんなことはどうでも良くなった。


 僕は立ち上がり、彼女に手を差し出した。


「一度、僕の家に来ないか?温まろう。そして……ゆっくり話そう」


 ユキは一瞬怯えたように見えたが、僕の顔を見つめ、そして差し出された手を見て、ゆっくりとうなずいた。彼女の小さな手が、僕の手の中に収まった。


 公衆電話はもう、必要ない。 でも、あのレトロな装置が結んでくれた絆は、これからも続いていく。


 僕は彼女の手を握りしめ、雨の降りしきる公園を歩き出した。 新しい時間が、始まろうとしている。


(……まだ終わりではない。彼女がなぜ過去に閉じ込められていたのか、このペンダントの秘密、そしてこれから二人が直面する現実――。話すことはまだたくさんあるだろう。しかし、今はただ、この瞬間を大切にしたい。)






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