第7話 到着

 東部の大領主、ダールマン侯爵家の屋敷。こちらに常駐している、地方騎士団の拠点でもある。エリックたちがこちらで仕事をする間、滞在する場所となっていた。

 騎士団の訓練所になっているという広場に、一行の馬車がとまった。レオポルトに手を取られて地面に降りると、いよいよ山脈が視界に迫ってくる。その迫力に、息を呑んだ。レオポルトが、そっと手を引く。


「エリック。行くぞ」


 エリックは景色に見惚れたい気持ちを抑えて、レオポルトの隣に付き従った。

 そのレオポルトは真っ先に荷馬車へ立ち寄って、御者とひとことふたこと言葉を交わす。そして御者は頷いて、荷台から何かを引き出した。黒く、平べったい木箱だ。衣装ケースだろうか。

 レオポルトは手ずから箱を開き、中身をエリックへ差し出す。重たい質感の、黒く分厚い布だ。四角く畳まれている。空の箱は、護衛の騎士が引き取っていった。

 エリックは、それがなんなのか尋ねようと首を傾げる。それより先に、レオポルトが口を開いた。


「魔術師のローブだ。お前のために用意した」


 レオポルトがそれを両手に持つと、するりと布地が滑って開く。

 布地をたっぷり使った袖やフードに、ゆるやかな裾のシルエットを持つ、黒いローブだった。宮廷魔術師の制服によく似ているが、袖や襟口には鮮やかな色糸で草花の刺繍が入っており、華やかな雰囲気だ。さらによく見れば、制服とは形も微妙に違っている。布の質感も、制服より、こちらの方がより高級に見えた。

 エリックは目を丸くして、それを受け取った。


「わざわざ、用意してくださったんですか……」


 しげしげと眺めて、何度も布地を撫でた。その滑らかな手触りに、じんと胸の奥が熱くなる。

 その布の重みに、エリック自身も戸惑うほどの、大きな喜びを覚えた。


「ありがとうございます」


 お礼を言う声も、みっともなく震えてしまった。

 宮廷魔術師という職を取り上げられたことは、これまで思っていた以上に、エリックにとって悲しいことだったようだ。胸の奥で凍っていた感情が溶け出して、いっぱいにあふれる。


「素敵なローブ」


 うっとりと呟いた。新しいこの衣装は、レオポルトの共犯者として相応しい。彼の隣に立つための、鎧になってくれるはずだ。

 涙まで出てきて、エリックは鼻を啜った。掌で目元を拭い、レオポルトに微笑みかける。彼は戸惑った様子で「大丈夫か」と言って、懐からハンカチを差し出した。


「なぜ泣く」

「泣くほど、嬉しかったみたいで……」


 へへ、と誤魔化すように笑うと、レオポルトが目元を拭ってくれた。指先が優しく、布地越しに目元や頬を押さえる。


「……お前の着慣れた、宮廷魔術師の制服ではないが、いいか」


 静かな問いかけに、エリックは迷いなく頷いた。


「はい。僕は、気に入りましたよ。これがいいです」


 これを着れば、エリックはいよいよ、レオポルトの「愛人」として見做されてしまうことは分かっている。この華美な衣装を見る限り、レオポルトにも、その意図は間違いなくあるのだろう。

 だとしてもレオポルトは、魔術師の象徴であるローブをくれた。ジャケットやブラウス、アクセサリーの方が、よほど「独占欲」を見せつけられただろうに。

 このローブはレオポルトからのこの上ない思いやりで、エリックへの尊重だと思う。レオポルトは、エリックを魔術師として認めている。

 それだけでエリックは、どんな逆境にも立ち向かえる気がした。

 真新しいローブに、ためらいなく袖を通した。羽織ると幾分か、背筋が伸びる。

 レオポルトはじっと、エリックを見下ろしていた。どこかあどけない表情で、唇をうっすら開けている。

 レオポルトの側にヘンケルが寄って、「殿下」と声をかけた。はっと我に帰った様子で、レオポルトが顔を上げる。

 ヘンケルは淡々と、「皆の荷下ろしが済みました」と報告を続けた。


「ダールマン侯爵が、エントランスでお待ちです」


 レオポルトは、そうか、と頷いた。エリックに視線を戻して、「待っていろ」と微笑みかける。


「すぐ戻る」


 ヘンケルはエリックを一瞥して、レオポルトに付き従った。エリックは、立ち去る二人の背中を見送る。その先に、宮廷魔術師の数人がたむろっているのが見えた。荷物を下ろして、鞄に腰掛けて、休憩しているらしい。

 目を凝らせば、見知った顔ばかりだった。同じ研究室で働いていた、同僚たちだ。

 しかし彼らはエリックを遠巻きにして、ひそひそと何かを話すばかりだった。表情は、決して明るくない。

 エリックはローブの袖をさばいて、腰に手を当てる。魔術師たちに、微笑みかけてみた。何人かはぎこちなく微笑みを返してくれたものの、すぐにエリックから目を逸らして、顔を見合わせた。手を振って、エリックは彼らから視線を外す。


(冤罪とはいえ投獄されてた男が、王子の愛人として現場へ出てきたら、そりゃあみんなこうなるよな)


 そして、これでいい。胸は痛むが、冤罪で投獄された時ほどの苦しみではない。

 魔術師たちの集団はしばらく顔を見合わせていたが、その中から一人の大柄な男がエリックの方へ歩み寄ってくる。エリックは、あっと声をあげた。


「アルベルト」


 エリックと同じく地方出身で、実家の爵位も低い――といっても、彼は同性愛者ではないが――元同僚だ。境遇が近いのもあって、比較的親しくしていた。正義感の強い、気のいい男だ。

 アルベルトは「よう」と声をかけて、エリックをじっと見つめた。言い出しづらそうに、しかしはっきり尋ねる。


「お前、あの噂は本当なのか。王子の愛人になったっていう」

「本当に君は、いつも直接的な物言いをするね。そうだよ」


 あっさり認めたエリックに、アルベルトは顔をしかめた。


「……もしかして、お前が牢屋から出られたのは」

「さあね。想像にお任せするよ」


 飄々とうそぶけば、アルベルトは目を丸くした。まさか、と呟く。そして口を引き結んで、沈痛な面持ちになった。

 しばらくの沈黙の後、アルベルトは再び口を開く。


「すまない。俺たちが、お前の無実を証明できればよかったんだが」

「ううん、いいよ。大丈夫だから」


 微笑んで見せる。アルベルトはまだ何か言いたげだったが、魔術師たちから呼ばれて、そちらを振り返った。


「エリック、すまん。俺は行く」

「うん。じゃあね」


 そうして、アルベルトは立ち去っていった。

 ひとりになったエリックは、これから始まる大仕事に思いを馳せた。

 この道を選んだのは、エリックだ。あの牢の中でレオポルトの手を取らず、無実を訴えることは――難しいけれど、不可能ではなかった。命をかければ、できたことだった。そして、そんな理想に殉じることはできなかった。

 清いままではいられない。それが、清濁併せ呑むということだ。

 掠め取られた成果を掠め取り返す、卑怯なやり方を選んだのは、レオポルトではなくエリックだ。

 それでも、他に目的があるとしたら。


(この計画が成功したら、悲しむ人が減るはず。そうして人の役に立てるなら、僕のこれまでの苦しみに、意味はあったと言えるかもしれない)


 空を見上げる。思い出すのは、青い瞳のことばかりだった。


(……それから、少しだけでもいい。レオポルト殿下の気持ちが、晴れるといいな)


 雄大な山々の峰から、涼しい風が降りてくる。重たいローブを羽織り直して、エリックは屋敷を見つめた。

 雪を払うために、急な角度のついた青い屋根。美しく塗られた、なめらかな白い壁。鮮やかな緑の咲き誇る庭。おとぎ話の舞台ように、綺麗な建物だ。

 やがてレオポルトが戻ってくる。エリックは彼と手を取り合って、屋敷の中へと入った。

 使用人に案内されたのは、広い客室だった。開け放たれた大きな窓からは、春のうららかな風が吹き込んで、カーテンを揺らしている。

 艶のある、重厚な木製家具が品よく佇む、瀟洒な部屋だった。部屋の奥には机と椅子が置かれていて、書き仕事が多いエリックにはありがたい。机の横には本棚もあり、資料置き場にも不便はないだろう。アイボリーの壁紙が、部屋の印象をより洗練されたものにしていた。

 そして、大きなベッドが、部屋の中央に一台だけ置かれていた。対面にある革張りのソファも二人掛けで、夫婦のための部屋なのだと分かる。

 二人の荷物は、既に運び込まれていた。エリックは荷ほどきをしながら、ちらりとレオポルトの様子をうかがう。彼は窓からじっと、山々の姿を見ていた。

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