第二章「扇の教室の特等席」
三階の扇形教室で、祖母はしばらく立ち尽くしていた。展示されている昭和のフィギュアを見つめながら、まるで同窓会を楽しんでいるようだった。
「太郎くん、今日も隣の席よ」
祖母が話しかけているのは、学習机に向かう小学生のフィギュアだった。くららには人形にしか見えないが、祖母の目には確かに同級生の太郎くんが見えているようだった。
「あの子は転校してきた時から、ずっと隣の席だったの」
祖母がくららに説明する。時制が自由に行き来している。過去の記憶が現在形で語られ、現在の状況が過去形で受け止められる。
「太郎くんは算数が得意でね、分からない時はいつも教えてくれたのよ」
その時、祖母の表情に八歳の少女の初々しさが浮かんだ。転校生として新しい環境に馴染もうとする気持ち、優しくしてくれる同級生への感謝。
「先生は佐々木先生っていうの。とても優しい先生で、転校生の私を特別に気にかけてくださって」
祖母が要の部分、教室の一番前の中央を指す。
「『転校生のキヨちゃんは前の真ん中ね』って、特等席にしてくださったの」
扇形教室の構造を見ると、確かに要の部分が最も教師に近い席だった。黒板も見やすく、先生の声もよく聞こえるだろう。転校生への配慮が、建築的にも表現されている。
「黒板が扇の要にあるから、先生との距離がとても近いの。隣の太郎くんが鉛筆を落とす音、後ろから聞こえる春美ちゃんのくすくす笑い」
祖母がまた同じ話を繰り返す。しかしその記憶は驚くほど具体的だった。音、匂い、手触り。五感のすべてが、七十年以上前の教室を再現している。
「授業中に外を見ると、打吹山が見えたのよ。春には桜が咲いて、とてもきれいだった」
くららも窓の外を見た。確かに打吹山が見える。季節は秋だが、祖母の記憶の中では永遠の春が続いているようだった。
「給食の時間が楽しみでね」
祖母が続ける。
「牛乳は白バラ牛乳で、おかずには必ず地元の野菜が入ってたの。『今日は関金温泉の大根よ』って栄養士の先生が説明してくださって」
その時、くららは気づいた。祖母の記憶の中には、ただの学校生活ではなく、地域全体との深いつながりが刻まれている。関金温泉の大根、白バラ牛乳、地元の食材。それらが日常的に学校に届けられ、子供たちの成長を支えていた。
「牛骨ラーメンが給食に出た日は、みんな大興奮だったのよ」
祖母が笑いながら話す。鳥取の名物料理が給食に登場した特別な日の記憶。地域の文化が、子供たちの記憶に深く刻まれている。
「春美ちゃんとは、放課後によく一緒に帰ったの」
祖母が振り返る。そこには誰もいないが、祖母には春美ちゃんが見えているようだった。
「白壁土蔵群を通って帰るのが好きでね。玉川沿いの石橋から見える赤瓦の屋根がきれいで」
祖母の記憶の中の帰り道は、まるで絵本のように美しく描かれている。白壁と赤瓦のコントラスト、玉川の流れる音、石橋の感触。
「お母さんが桑田醤油で醤油を買って、その足で玉川沿いを歩くの。『キヨちゃん、この街の赤い瓦はね、焼き方が特別なのよ。雪にも雨にも負けないの』って教えてくれた」
くららは、祖母の記憶の豊かさに感動していた。単なる個人的な思い出ではなく、地域の歴史、文化、技術が自然に織り込まれている。赤瓦の焼き方という専門的な知識も、母親との日常会話の中で受け継がれている。
「扇の端っこの席は狭いから嫌だったのよ。みんなで『端っこは貧乏席』なんて言って」
祖母が再び教室の端を指す。確かに、扇形の教室では端の方が狭くなっている。子供なりの率直な感想が、当時の言葉として残っている。
その時、観光客の家族連れが教室に入ってきた。小学生くらいの男の子が、フィギュアを興味深そうに見ている。
「わあ、昔の教室だ!」
男の子の声に、祖母が振り返った。
「あら、新しいお友達ね」
祖母が男の子に手を振る。男の子は戸惑ったが、母親が事情を察したようで、男の子も手を振り返した。
「こんにちは、おばあちゃん」
「こんにちは。君も三年生?」
「はい!」
現代の小学生と昭和の記憶が、この瞬間に自然に交流している。時代は違っても、小学三年生という共通点が、世代を超えたつながりを生む。
家族連れが去った後、祖母がつぶやく。
「みんな、いい子たちね」
祖母にとって、過去の同級生も現在の子供たちも、同じように大切な存在なのだろう。時間の壁がない世界では、すべての子供たちが同級生になる。
くららは、祖母の世界観に深く感動していた。認知症による記憶の混乱を、マイナスとして捉える必要はないのかもしれない。むしろ、時間の束縛から解放された、より自由で豊かな世界観として受け入れるべきなのかもしれない。
「おばあちゃん、お腹すきませんか?」
「あら、もうお昼? 給食の時間かしら?」
「今日は特別に、外で食べましょう」
教室を出る時、祖母が振り返って手を振った。
「また明日ね、みんな」
フィギュアたちに向かって、まるで本当の別れのように。
らせん階段を降りながら、くららは考えていた。東京での面接で問われた「グローバル企業への適性」。でも、祖母の記憶を見ていると、地域に深く根ざした文化こそが、人を豊かにする真のグローバル性を持っているように思える。
地域の食材、伝統技術、人とのつながり。それらが積み重なって、時代を超えて受け継がれていく。それは、表面的な国際性よりもはるかに深い、人間の普遍的な価値なのではないだろうか。
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