第三章「まんなかで歌った校歌」
一階の中央ホールに降りると、祖母は立ち止まって周りを見回した。円形の空間の真ん中で、らせん階段が天井まで続いている。
「全校朝会はここでやったのよ」
祖母が説明する。その時の祖母の姿勢が、自然に背筋を伸ばした小学生のようになった。
「らせん階段を降りてくる上級生たちを見るのが好きだったの。お兄さん、お姉さんたちがとても大きく見えて」
祖母の目線が上を向く。記憶の中で、憧れの上級生たちが階段を降りてくるのが見えているようだった。
「校長先生の話は難しくてよくわからなかったけれど、みんなで歌う校歌は大好きだった」
そして祖母が歌い始めた。
「僕らの学校は丸い校舎、空に向かって伸びてゆく」
その歌声は、まるで全校生徒と一緒に歌っているような力強さがあった。円形ホールの音響効果のせいか、歌声が美しく響いて、本当に大勢で歌っているように聞こえる。
くららも知らず知らずのうちに口ずさんでいた。祖母から教わった歌だったが、このホールで歌うと特別な意味を持つようだった。
「朝会の時、どこに並ぶかいつも迷ったの。円だから『前』がどこかわからなくて」
祖母が笑いながら話す。確かに、円形の空間では前後の概念が曖昧になる。どこに立っても中心からは等距離で、みんなが同じように大切な位置にいる。
その時、くららは気づいた。これは単なる建築の特徴ではなく、教育哲学の表現なのかもしれない。円形の校舎では、誰もが中心から等しく愛される。特別な席も、隅に追いやられる席もない。
「給食の後、ここでよく遊んだのよ」
祖母が中央の柱を指す。
「かくれんぼをしても、円だから見渡せてみんなすぐに見つかっちゃうの」
その様子を想像すると、微笑ましい光景が浮かんだ。円形の空間では、隠れる場所が限られるが、その分みんなで楽しく遊べる。
観光客の女性グループが入ってきて、建物の構造に感嘆の声を上げている。
「珍しい建物ですね」
「昭和三十年建築で、現存最古の円形校舎なんですよ」
ガイドの説明を聞きながら、祖母が誇らしそうに微笑んでいる。
「私の学校よ」
祖母がくららにささやく。その言葉には、深い愛着と誇りが込められていた。
くららは、中央ホールにある椅子に祖母を座らせた。祖母は周りを見回しながら、満足そうにため息をついた。
「懐かしいわね」
その一言に、七十年以上の時の重みが込められていた。でも、祖母にとって、それは遠い過去の話ではない。今も続いている、生きた記憶なのだ。
くららも隣に座る。観光客に見られているのが少し恥ずかしかったが、祖母の世界に入り込みたい気持ちの方が強かった。
東京での面接を思い出す。「君の故郷への愛着は理解できるが、グローバル企業には向かない」と言われた言葉。でも、この場所にいると、その言葉の方が間違っているように思える。
地域への愛着は弱さではない。むしろ、人間の根っこを深く張ることで、より高く、より遠くまで枝を伸ばせるのではないだろうか。
「くららちゃんも、いつかここで働くの?」
祖母の突然の質問に、くららは驚いた。
「え?」
「先生になって、この学校で教えるの?」
祖母の記憶の中では、まだここが学校として機能している。そして、くららも将来この学校で働くかもしれない一人として見えているようだった。
「分からないです。でも……」
くららは言葉を探した。実際には、もうここは学校ではない。でも、祖母の期待に応えたい気持ちがあった。
「この建物を大切にする仕事ができたらいいなと思います」
「それは素晴らしいわね」
祖母が手を叩いて喜んだ。その反応は、まるで孫の将来への純粋な期待のようだった。
実際に、くららの心の中で何かが変わり始めていた。東京の広告代理店への執着が薄れ、地元でできることへの関心が高まっていく。
この円形校舎の魅力を全国に発信する仕事。祖母のような高齢者が安心して暮らせる街づくり。地域の文化を次世代に伝える仕事。東京では得られない、深い充実感がありそうだった。
「音楽の授業では、このホールでよく発表会をしたのよ」
祖母が思い出話を続ける。
「円形だから、どこからでもよく見えるの。みんなが主役になれる舞台よ」
その言葉に、くららは深く感動した。円形の空間では、観客席と舞台の境界が曖昧になる。みんなが観客であり、同時にみんなが主役になれる。
祖母の記憶の中に刻まれているのは、単なる学校生活ではない。一人一人が大切にされ、みんなで支え合う共同体の記憶だった。
「理科の授業で、関金温泉の仕組みを習ったのよ」
祖母が続ける。
「円形の教室だと、みんなで輪になって話し合いができて楽しかったの」
ここでも、円形という構造が教育効果を高めている。生徒同士が向き合い、対話を重視した学習。現代でも注目される教育手法が、すでに昭和三十年代に実践されていた。
中央ホールに座りながら、くららは自分の人生について考えていた。故郷を離れることが成長だと思っていたが、実際には故郷にこそ学ぶべきものがたくさんある。
祖母の記憶、地域の文化、建築の思想。それらが織り成す豊かな世界は、どんな都市部の企業よりも魅力的に見えた。
夕方の光が、らせん階段の隙間から差し込んできた。光と影が螺旋を描いて、まるで時間そのものが可視化されているようだった。
祖母がその光を見上げて、静かに微笑んだ。
「きれいね」
その一言に、人生のすべての美しい瞬間が込められているようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます