第一章「らせん階段の入り口」

 円形劇場くらよしフィギュアミュージアムの前に立った時、くららの胸は高鳴った。ここが、祖母の話に何度も登場した旧明倫小学校。現存最古の円形校舎だ。


 白いコンクリートの建物は、確かに完全な円を描いている。中央にそびえるらせん階段の塔が、空に向かって伸びている。祖母の手を引きながら、くららは受付に向かった。


「すみません、祖母がここの卒業生で……」


「あら、円形校舎の卒業生の方ですか」


 受付の女性は、温かい笑顔で迎えてくれた。


「時々いらっしゃるんですよ。皆さん、とても懐かしそうになさいます」


 祖母のキヨは、建物を見上げて目を輝かせていた。


「わあ、お城みたい!」


 その声は、まるで八歳の子供そのものだった。くららは受付の女性に、キヨが認知症であるという事情を説明し、特別に配慮していただけることになった。


 中に入ると、確かに中央にらせん階段があった。三階建ての建物の真ん中を貫く、美しい螺旋構造。祖母は階段を見上げて、しばらく立ち尽くしていた。


「初めて見た時も、こんな気持ちだったのよ」


 祖母がつぶやく。時制が曖昧になっている。キヨの中で、過去の記憶と現在の感覚が美しく重なり合っているのだ。


「昭和三十二年、春だった。お父さんの転勤で鳥取市から引っ越してきて、新しい学校に初めて来た日」


 祖母の瞳に、確かに八歳の少女の驚きが宿っている。


「転校初日で緊張してたけど、この階段を見たら、怖いのが吹き飛んじゃった」


 くららは祖母の手を取って、らせん階段の前に立った。コンクリートの階段は、半世紀以上の時を経てもしっかりとしている。


「三年二組はどこかしら?」


 祖母が首をかしげる。


「円形だから迷子になっちゃうのよ。みんなそうだったの」


 その時、くららは気づいた。祖母の言う「みんな」は、七十年以上前の同級生たちのことだ。でも祖母にとって、彼らは今もここにいる。時間という檻から解放された祖母の世界では、


「おばあちゃん、一緒に三年二組を探しに行きましょう」


 らせん階段を上がり始める。一段一段、祖母の足取りが軽やかになっていく。まるで時間を遡っているように。


「一つ、二つ、三つ……」


 祖母が階段を数えている。子供の頃の習慣だろうか。その数え方にも、懐かしさがにじんでいる。


 二階に着くと、円形の廊下が広がっていた。内側は中央の階段ホール、外側には扇形の教室が並んでいる。祖母は廊下を歩きながら、誰かと話しているようだった。


「太郎くん、今日も一緒ね」


「春美ちゃん、お弁当は何かしら?」


 くららには見えない同級生たちと、祖母は自然に会話している。それは決して寂しい独り言ではなく、確かに誰かがそこにいるような温かさがあった。


 三階への階段を上がりながら、祖母が振り返る。


「くららちゃんも、この学校に来るの?」


「はい、おばあちゃんと一緒に」


「よかった。一人だと迷子になっちゃうものね」


 三階に着くと、祖母はまっすぐ一つの教室に向かった。扇形の教室の入り口で、祖母は立ち止まる。


「ここよ、三年二組」


 教室の中は、現在はフィギュアの展示室になっている。昭和の生活を再現したジオラマが並んでいる。祖母の目には、それがどう映っているのだろう。


「あら、みんなもう来てるのね」


 祖母が手を振る。展示ケースの中の昭和の小学生のフィギュアに向かって。


 くららの胸が熱くなった。祖母には、そのフィギュアが同級生に見えているのかもしれない。いや、実際に祖母の記憶の中では、彼らは確かにそこにいる。


「おばあちゃんの席はどこでしたか?」


「ここよ」


 祖母が指さしたのは、扇形教室の要の部分、一番前の中央だった。


「転校生のキヨちゃんは前の真ん中ね、って先生に言われたの。特等席でしょう?」


 その時、くららは理解した。祖母の記憶の中では、転校生として受けた特別な配慮が、今でも温かい思い出として残っている。寂しさや不安ではなく、先生や同級生の優しさとして。


「黒板が扇の要にあるから、先生との距離がとても近いの」


 祖母が説明する。確かに、扇形の教室では、どの席からも黒板が見やすい設計になっている。


「隣の太郎くんが鉛筆を落とす音が聞こえて、後ろから春美ちゃんのくすくす笑いが聞こえて」


 祖母の描写は、驚くほど具体的だった。七十年以上前の記憶が、まるで昨日のことのように鮮やかだ。


 くららは、祖母の記憶の豊かさに圧倒された。認知症は確かに現在の記憶を曖昧にするけれど、同時に過去の美しい記憶を鮮明にするのかもしれない。時間の壁を取り払って、人生のすべての幸せな瞬間を「今」にしてくれる。


「扇の端っこの席は狭いから嫌だったのよ。みんなで『端っこは貧乏席』なんて言って」


 祖母が笑いながら話す。その笑い声は、まるで当時の同級生たちと一緒に笑っているようだった。


 教室を出ると、祖母は再び廊下を歩き始めた。円形の廊下をゆっくりと歩きながら、一つ一つの教室を覗いていく。


「音楽室、図工室、理科室……」


 祖母が教室の名前を言うたびに、そこでの思い出が蘇るようだった。


「音楽室では『ふるさと』をよく歌ったのよ。うさぎ追いし かの山……」


 祖母が歌い始める。その歌声は年齢を感じさせない、澄んだ響きだった。


 くららも一緒に歌い始めた。二人の歌声が、円形の廊下に響く。建物の構造のせいか、歌声が美しく響いて、まるで合唱しているようだった。


 歌い終わると、祖母が微笑んだ。


「くららちゃんも、いい声ね」


「これ、おばあちゃんに教えてもらったんですよ」


「あら、そうだったかしら?」


 祖母は首をかしげたが、その表情は満足そうだった。教えたことは覚えていなくても、今、一緒に歌う喜びは確かに感じている。


 らせん階段を降りながら、くららは考えていた。東京での面接で言われた「故郷への愛着は弱さ」という言葉。でも、この建物にいると、故郷への愛着こそが人生を豊かにする源泉だと感じる。


 地域の歴史、文化、人とのつながり。それらが積み重なって、祖母の美しい記憶を作っている。それは決して狭い世界ではなく、深く豊かな世界だ。

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