【郷愁短編小説】まるい記憶 ~らせん階段の約束~(約22,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

プロローグ「だんごの匂い」


 電車の窓に映る自分の顔は、どこか疲れて見えた。くららは頬杖をついて、車窓を流れる風景を眺めていた。大山の稜線が夕日に染まって、故郷の山々が優しく迎えてくれる。それなのに、逃げて帰ってきたような気持ちは消えない。


 東京での最終面接。大手広告代理店の重役たちに囲まれて、緊張で声が震えた。


「君の故郷への愛着は理解できるが、グローバル企業には向かないかもしれない」


 その言葉が、まだ胸に刺さっている。二十二歳、大学四年生。同期の友人たちは続々と内定を決めているのに、自分だけが取り残されている焦燥感。


 倉吉駅に降りると、懐かしい空気が肺に入り込んできた。駅前の商店街から漂ってくる甘い匂い。打吹公園だんごの、あの特別な匂いだ。子供の頃、祖母のキヨに手を引かれて、よく買いに行ったものだった。


「くららちゃん、このだんごはね、明治時代から変わらない味なのよ」


 祖母の声が、記憶の中で響く。あの頃は、祖母の昔話を半分作り話だと思っていた。円形の学校だったとか、扇の形の教室だったとか、そんな不思議な話が本当にあるわけないと。


 でも今は違う。認知症になった祖母の話に、嘘は一つもなかったのだと分かる。過去と現在が美しく混ざり合った祖母の世界に、かえって真実があるのかもしれない。


 家に着くと、母が玄関で待っていた。


「お疲れさま。どうだった?」


「だめだった。でも、もういいの」


 母の心配そうな表情を見ながら、くららは微笑んだ。本当に、もういいのかもしれない。


「おばあちゃんは?」


「いつものように、朝から『学校に行かなくちゃ』って」


 居間に入ると、祖母のキヨが玄関の方を向いて立っていた。八十五歳とは思えないほど背筋が伸びて、まるで小学生のように正しい姿勢だった。


「あら、くららちゃん。今日は一緒に学校に行きましょうか?」


 祖母の澄んだ瞳を見つめながら、くららの心に不思議な平安が訪れた。東京での面接の失敗も、将来への不安も、この瞬間にはどうでもよくなった。


「はい、おばあちゃん。明日、一緒にお出かけしましょう」


「あら、遠足かしら? 楽しみね」


 祖母の笑顔は、まるで春の陽だまりのように温かかった。その笑顔を見ていると、失ったものではなく、まだそこにあるものの尊さが見えてくる。


 その夜、くららは久しぶりに故郷の星空を見上げた。東京では見えない星たちが、確かにそこで輝いている。祖母の記憶も、きっとこの星空のように、見えにくくなっただけで、決して消えてはいないのだろう。


 翌朝、祖母はいつものように早く起きて、ランドセルを探していた。実際にはもうそこにないランドセルを、祖母の心はしっかりと覚えている。


「おばあちゃん、今日は特別な遠足ですから、ランドセルはいりませんよ」


「あら、そうなの? じゃあ、お弁当は?」


「大丈夫、途中でおいしいものを食べましょう」


 祖母と手をつないで家を出る時、打吹公園だんごの匂いが再び漂ってきた。今度は、その匂いが過去と現在をつなぐ架け橋のように感じられた。

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