第五十話 善と悪の境
夜が、ようやく静けさを取り戻していた。
わずかに残る桜の花びら。
——ミケの体から、もはや戦意は消えていた。
六はそれを悟ると、ためらいもなく駆け出した。
「コマさん!」
地に伏したコマの身体を仰向けにする。
手のひらに触れた血の温度が、ゆっくりと冷えつつあることを六は感じ取った。
脇腹を貫かれ、肩口は袈裟懸けに裂かれている。
「これは……酷い」
六は息を詰め、コマの傷口に両手を添えた。
掌から放たれる妖力が淡く光り、傷口に溶け込んでいき、血の流れが一時的に止まった。
「伽耶を頼む!」
おもとが短く叫び、六の元へ走る。
ハクは伽耶の傍らにしゃがみ込み、頬を軽く叩いた。
「伽耶! 聞こえるか!」
返事はない。
だが、胸がゆっくりと上下しているのを見て、ハクは小さく息を吐く。
「生きてる……伽耶、起きろ!」
伽耶の瞼がゆっくりと開いた。
焦点が合わぬまま、空を見上げていたが、すぐにあの光景が脳裏に焼きつく。
——崩れ落ちたコマ、射られた神、紅く染まる地面。
「わたし……どうして……」
震える声が夜気に溶けた。
思考が追いつかず、ただ恐怖だけが全身を支配する。
「理とか、そんなの関係ない——」
自分の声が、脳裏の奥で蘇る。
その瞬間、伽耶は両手を抱きしめるように胸元へ当て、肩を震わせた。
⸻
「私の妖力だけでは到底足りません! このままではコマさんは……!」
六の声が切羽詰まる。
「だ、だめか……」
おもとが歯を食いしばる。
「おもとさん、私に妖力をください!」
「ど、どうすれば良いんじゃ!?」
「私の背中に、利き手を置いて!」
おもとは迷わず右手を六の背に押し当てた。
その瞬間、おもとの妖力が流れ込み、六の掌が再び輝きを増した。
「ハク! 伽耶は無事か!」
「うん、なんとか」
「ならこっちを手伝え!」
ハクも駆け寄り、六の背に手を置いた。
妖の力が三重に重なり合い、夜の空気が微かに震える。
淡く微かな光が風のように揺らめき、地面に落ちた桜の花びらを照らしていた。
「うぅ……これは、疲れるのぅ」
おもとが息を漏らし、ハクも肩で息をした。
妖力が吸い取られるたびに、身体の芯が冷たくなっていく。
⸻
一人、道端に座り込む伽耶は、まだ現実を受け止められずにいた。
「私……神様に……矢を……なんで……」
風が吹き抜け、桜の花びらがひとひら舞う。
ふと背後に気配を感じ、伽耶は振り向いた。
しかし、そこには誰もいない。
「恐れないでください。私は、あなたの心を少し押しただけですよ」
どこからともなく、囁くような声が響いた。
伽耶は息を呑み、立ち上がる。
「え……誰!?」
再び振り返るが、闇と桜の影しか見えない。
鼓動が早まり、呼吸が乱れた。
恐ろしくなった伽耶は、六たちのもとへ駆け寄る。
そこには、血に染まったコマと、胸に矢を受けたミケの姿があった。
伽耶の目が大きく見開かれ、息を詰める。
「だめだ……まったく妖力が足りない!」
六の声が震える。
「もう、いかんか……」
おもとが呟いた。
三人の妖力を合わせても、出血の速度には追いつかない。
コマの鼓動が静かになっていく。
「コマが……死んでいく……」
ハクの声が震える。
伽耶は現実を受け止められず、目を見開いたまま、口を両手で隠し、呆然と立ち尽くす。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ……」
その瞬間、六の背中に、もう一つの手の温もりが重なり、胸の奥が大きく脈打った。
ドクン——。
血流とともに、全身を駆け巡る熱。
胸に矢が刺さったままの、ミケの右手だった。
おもととハクが驚いて目を見開いている。
ミケは肩で息をしながらも、その眼差しは静かだった。
「なぜ……」
六が問う。
「疑心に力を使うな。成すべきをせ」
ミケが冷ややかに笑う。
だがその声には、どこか人の温もりが混じっていた。
四つの妖力が重なり合い、夜を震わせる。
淡い光が溢れ、風が桜を巻き上げる。
その中で、コマの傷口がゆっくりと閉じていった。
呼吸が戻り、鼓動が微かに脈打つ。
⸻
「軽い傷は……後ほど癒やしましょう……」
疲れ切った六が息を吐き、手を離す。
おもともハクも力尽き、座り込んだ。
ミケも膝をつき、疲労の色を隠さなかった。
「コマさん……助かったの?」
六の後ろから伽耶が震えた声で話す。
「ええ、まだ気は失っていますが、何とかなりました」
六が息を切らしながら答えた。その言葉を聞いた伽耶は、ようやく落ち着きを取り戻し始め、涙を流しながら呟く。
「……良かった、良かった」
やがて、ミケはゆっくりと顔を上げ、伽耶を見た。
月明かりの中、その瞳だけが鋭く光る。
「お主、なかなかの矢筋よ」
低く響く声。伽耶は震えながら頭を下げる。
「ご、ごめんなさい……自分でも、よくわからなくて……」
「良い。それより——近う寄れ」
伽耶は恐る恐る一歩、また一歩と近づく。
ミケは左袖の
「これを取っておけ」
伽耶は手のひらに置かれた物を見る。それは、鈴の付いた小さな巾着袋のような物。
「これって……?」
伽耶が顔を上げた時、そこにミケの姿はもうなかった。
風が吹き抜け、桜の花が静かに消えていく。
BAD GIRLz – 常世譚 – 松園 宗 @UTSUSHIYO
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