第6話 変態②
気が付くと、目の前には天井があった。今目が覚めた気もするし、ずっと前からただぼんやりと天井を見つめていた気もする。天井の色は茶色で、よく見ると木で出来ているのがわかった。ベッドの上に寝かされているようだが、手が体の下敷きになっているようで痛い。腕を体の下から退かそうとするが、どうやら何かで拘束されているらしかった。エリーは諦めて体を左に傾ける。すると、見覚えのある少年が目に映った。
「エリー…!」
スドゥは床に座り込み、心配そうにエリーを見ていた。そんな彼を安心させたくて何か言おうとするが、その言葉は男によって遮られた。
「起きたのかい?おはようエリー。自己紹介がまだだったね」
男はエリーが寝ているベッドのそばにやって来ると、顔を近付けてきた。
「僕はアントニオ。スドゥから話は聞いているだろうけど、僕は魔術師でね。魔術の研究をしている研究者さ」
エリーがアントニオを睨むと、彼はかえって喜んだ。
「君って綺麗で整っていて気が強そうな顔してるよね。僕は君みたいな子が大好きだよ」
彼の手がエリーの頬に触れる。優しい手つきがかえって気持ち悪く感じ、背に冷たいものが走った。
エリーが咄嗟に噛みつこうとするが、アントニオはさっとかわしてしまう。それでも睨み続け、大きくはっきりと言った。
「私をどうするつもり?バルガスは私を連れ戻すのに興味が失せたみたいだったけど、あなたはどうかしら」
「僕かい?君の見た目は僕の好みだし中身も申し分ない。フェリックスには悪いけど僕のものにさせてもらうよ」
エリーの眉間に深い皺が寄る。
「私はモノじゃないわ」
「か弱い女の子なのに気が強い。怯えを見せない。僕に対して高圧的。うん、最高だ」
アントニオは確かめるように言い、熱のこもった目で見つめてきた。全ての言動が気持ち悪いが、エリーは負けじと口を開く。
「さっさと私を解放しなさい。それにスドゥもね。早くしないとレンが来て、あなたなんかすぐに…」
そこで思い出した。最後の記憶に残るレンは、バルガスによって泥に戻っていた。
「レンをどうしたの」
「さぁね。レンとかいうゴーレムに興味がないわけでもないけど、僕はバルガスには逆らえないから勝手にさせたよ。少ししたら君のゴーレムを殺して戻ってくるに違いない」
「レンが死ぬはずない。自分でも死に方がわかってないんだから」
エリーは自分に言い聞かせるように言った。
レンが死ぬはずない。自分でも死に方がわかっていないし、彼の強さはエリーがその目で見てきた。負けるはずがない。
エリーの言葉を聞き、アントニオは思い出したように口を開いた。
「そういえば、どうやったらゴーレムを殺せるか聞き回ってるんだって?フェリックスの周りでは噂になってるよ」
ゴーレムの殺し方を聞き回っていることが噂になっているのはまずかった。その情報が広まってしまえばレンの殺し方を聞き回ることができなくなる。その可能性を危惧して焦る二人には気が付かず、アントニオは喋り続けた。
「ゴーレムなんて核を破壊したら死ぬに決まってるのに、そんなこと聞き回って何がしたいんだい?」
スドゥはその言葉に違和感を覚え、アントニオに尋ねる。
「バルガスも核を壊したら死ぬの?」
「え?」アントニオは訝しげな表情になった。「そうに決まってるだろ。ゴーレムっていうのはそういうものだ」
「決まってるって…ちゃんと調べてないの?研究者のくせに?」
スドゥがそういうと、アントニオは不機嫌そうに眉を寄せた。
「仕方ないだろ、僕だって調べたかった。でもあいつ自分のこと何も喋らないし、僕が少しでもあいつの気に食わないことすると暴力振るおうとするんだもん!顔に印のないゴーレムなんて初めて見たからどこにあるんだって聞いても冗談ばっかり言うしさぁ」
アントニオはバルガスへの不満を爆発させた。
「モダンゴーレムって感じがしないから、同じように顔に印のないハンルークと同じなんじゃないかと思って聞いてみても、「そうかもな」だって!なんだそうかもなって!自分のことだろうが!」
「ちょ、ちょっと待って」エリーが言う。「あなた、バルガスのこと何も知らないの?」
「知るかあんなやつ!僕はむさ苦しいロハンネ人の男より、小さくて美しい女の子の方が……って、なんだいその顔は」
エリーとスドゥは大きな溜め息をついて肩を落としていた。
「アントニオに期待してたのに」
「結局バルガスに聞くしかないのね」
「え、なに?なんだか失望されている気がする」
エリーは困惑した様子のアントニオに呆れ返る。まさか何も知らないとは思ってもみなかったが仕方がない。気を取り直して、エリーはアントニオに提案した。
「私たちはバルガスについて知りたいのよ。あなたが私たちに協力してくれるなら、研究者であるあなたの好奇心を満たせるけど、どう?」
その問いかけにアントニオは真顔になった。
「確かに僕はゴーレムやホムンクルスの研究もしてるけど専門は違うし、バルガスがいつ怒り出すかなんてわかったもんじゃない。触らぬ神に祟りなし、だ」
エリーはアントニオが頷くと本気で思っていたわけではないが、こうもはっきり言われると流石に落胆した。その顔を見てアントニオはほくそ笑む。
「そう簡単に頷くとでも思ったかい?可哀想にね。そこのホムンクルスも役に立たないし、腕は縛られて逃げられない。フェリックスの所から逃げられたと思ったらこれだ。なんて可哀想なんだ、エリー」
見下されている気がして頭に来る。エリーが島から出てから出会うナルノ人はいつもこうだった。彼女が知っているナルノ人とは何もかもが違う。
エリーが嫌悪を顔に出せば出すほどアントニオは喜んだ。
「君は最高だよエリー。小さな女の子って可愛いけど、やっぱり年齢のせいか怖がりでねぇ。僕が連れて帰ってしばらくしたらみんな泣き出してしまうんだけど…あっ、泣き出すのが嫌だというわけじゃないよ。それも可愛らしいからね。でも僕は君みたいに嬲り甲斐のある女の子に出会いたかったんだ」
彼の顔に浮かんだ笑みは歪みきっている。
「君は苦しい時にどんな反応をするのかな?」
スドゥは恐れ慄いた。アントニオがフラスコを持っているので、スドゥはこの場から離れられない。かといって何かしようものなら止められてしまう。既にエリーが眠っている間に一度反抗したが手も足も出ず、挙げ句の果てには床に円陣型の術式を張られてしまい、その術式から外に出られなくなっているのだった。
出られないということはエリーを助けることも出来ないし、エリーが酷いことをされても外に逃げて目を逸らすことすら出来ないという事だ。スドゥはそれが怖かった。
そんなスドゥの心情などエリーには関係ないようで、彼女は疲れたように天井を見て言った。
「もうわかった。一旦話はやめにしましょう。お腹が空いたわ」
「えっ?」
「お腹が空いた。聞こえなかったの?このお馬鹿さん」
斜め上の言葉が飛んできたせいで、アントニオだけではなくスドゥまで目を丸くした。
エリーは苛立ったように声を張り上げた。
「だから、お腹が空いたの!私にここにいて欲しいなら留まってもらうためにまず誠意を見せたら?私みたいな可愛い女の子があなたみたいな気持ち悪い男の人にこんな部屋に連れ込まれるなんて、私に得がなさすぎるでしょ」
アントニオは吹き出した。賢いと思っていたが、やはり小さな子供だ。意味のわからないことを言い出すエリーに嘲笑が浮かぶ。
「自分の立場がわかってないみたいだね。君が何かを要求できると思っているなら、それは勘違いだ」
「なんで?」エリーは強気で言う。「私はモノじゃないんだから、あなたの良いように使われる義理はないわよ。人間なんだから要求があるのは当たり前。あなたが私にして欲しいことがあるのなら私の要求を飲むか、私がしたいと思えるだけの材料を持ってきなさい」
アントニオはフェリックスがこぼしていた言葉を思い出した。
彼が最後にフェリックスの元を訪れた時だった。その商人は疲れたのか呆れているのか、脱力して椅子に座ると溜め息をついて言った。
「最近買った奴隷が生意気でな。奴隷なんてわんさか見てきたが、あれほど偉そうなじゃじゃ馬は初めてだ」
そして最後に、“あれは自分を奴隷だと思ってない”と彼は言った。
あの大商人様にも手に負えない奴隷が出たとわかった当時は少しだけ興味があったが、わざわざ見に行くようなことはしなかった。しかしこれほどの上玉だと知っていたなら、アントニオはエリーを一目見ようとフェリックスの元に押しかけていただろう。
アントニオに興奮が巻き起こった。体の芯から沸騰し、今にも爆発しそうな感覚に襲われる。叫んだり暴れたりしてこの興奮を外に出さなければ死んでしまうような心地がする。ここまで強い衝動は久しぶりで、彼は勢いに任せてエリーに近付いた。
少女の上に男が覆い被さる。スドゥは顔を背けて目と耳を塞いだ。しかしそんな少年の耳に届いたのは、予想よりも低い悲鳴だった。
二人の方を見ると、ベッドに手を付いていたはずのアントニオが崩れ落ちてエリーを下敷きにしていた。悲鳴を上げているのはアントニオの方だった。
エリーは小さく身動きし、嫌そうな顔をしている。そんな彼女の上から搾り出すような声が聞こえた。
「なんて、こと…を…!」
「だって、男の人に襲われたらこうしろってお父さんが教えてくれたから」
エリーは涼しげにそう言って、力一杯アントニオの体を蹴り上げた。スドゥはその時気付いたが、エリーによって蹴り上げられたアントニオは両手で股を抑えていた。
股間を蹴り上げられたであろうアントニオはあまりに痛かったのか、エリーに抵抗するよりも攻撃を受けた箇所を守る方に集中していた。少女に足で押されただけでベッドから容易に落ち、彼の体は床に倒れ込んで痛みに暴れ回っている。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!」
普段は見れない情けない姿に驚いたが、スドゥはあることに気が付いた。床で暴れ回ったアントニオの衣服が地面に擦れ、スドゥを閉じ込めていた術式の一部が掠れた。術式は完全なものでなければ十分な効力を発揮しない。
術式が掠れたのを見た瞬間、スドゥの体は動いていた。アントニオの方へ接近すると、もがき苦しむ彼の首からネックレスを引きちぎる。それと同時に急いで帽子を頭から取り、中からナイフを取り出した。そのナイフでアントニオの鳩尾を殴っておく。念の為だ。
それを見たエリーはすぐにうつ伏せになり、縛られた腕を露出させる。スドゥは縄をすぐに解き、エリーの腕を掴んで部屋を出ていった。
「お手柄ね」
「君のおかげさ」
笑い合うのも束の間、二人の背後からはアントニオの声が聞こえてくる。
「この泥棒鼠!」
スドゥは駆けながら声を張り上げた。
「手癖の悪さはそう簡単に直らないらしい!」
その言葉にアントニオの怒声が飛んでくるが、少年たちはくすくすと笑うばかりだった。
「部屋から出たはいいけど、追いかけっこで勝てるのかしら?」
前を行くスドゥに問いかけると、彼はエリーを振り返った。
「この田舎町はアントニオの家じゃないはずだ。街のことなら僕の方に分がある。それにあいつは女の子を攫うのもバルガスにさせてるから運動不足に決まってる。あんなヒョロヒョロなんか撒いてレンと合流するから、君は躓かないようついてきて」
「レンの居場所がわかるの?」
「はっきりとはわからないけど、推測はできる」
「なら任せたわ」
「うん!」
少年少女は田舎町を駆けて行った。
しばらくすると、アントニオは足を止めた。息を荒くして肩を上下させ、汗が伝う感覚に苛立つ。動悸が激しく、体力の限界だった。
(あの二人、子供のくせに元気すぎるだろ。なんで僕より走れるんだ)
二人が走り去っていった方をぼんやりと見つめ、アントニオは溜め息をついた。
理想的な女の子を逃してしまった悔しさ。そして、フェリックスの奴隷を私物化しようとしたことが当の本人に知られた時の言い訳と、バルガスにつっかかられるかもしれないという面倒臭さが脳をよぎった。
とにかく一番恐ろしいのはフェリックスにバレるということだった。贔屓客という立場とはいえフェリックスとはそれなりの付き合いがあり、知り合いのように立ち話をする。そんな距離感になってしまったのだから、怒ると手がつけられないフェリックスに何をされるかわからない。
アントニオは恐ろしくなって、居場所がバレて押しかけられないよう、念の為早く出立の準備をすることに決めた。
「バルガスが向かったのはおおよそ北だ。人気のない場所で戦えって言われてたから、きっと北東に広がっている森に向かったんじゃないかな」
スドゥは帽子から出した地図で森を指すと、顔を上げて前方を指差した。
「あそこに見えるのが…って、なんだ?」
二人は森を見た。一見なんの変哲もない森だったのだが、一瞬木が動いたような気がした。
「風じゃないかしら」
「そうだよね」
すると次は木が一本周囲よりも頭ひとつ高く伸びた。
「えっ!?何が起こってるんだ?」
奇妙な現象に混乱するが、エリーは突然走り出した。
「きっとレンがいるのよ」
スドゥは慌てて彼女の後を追いかける。入るとやはり普通の森だったが、動物の気配が少ない気がした。
森はみるみる深くなっていく。深くなるにつれ不審な音も大きくなってくる。
「なんなんだ?この音…」
「スドゥ、見て」
声をかけられ、スドゥはエリーの方を見る。先を行っていた彼女は地面が山のように盛り上がった所を頂上まで登り、向こう側を眺めていた。スドゥも彼女に続いて登り、エリーの隣に立ってみる。
「な、なんだこれ」
エリーが見ていたのは酷く荒れた森だった。大きな木が真っ二つに折れたものや、根から引き抜かれたような姿で倒れているものがあちこちに散乱している。地面は掘り起こされたかのように陥没しているところもあれば、隆起しているところもあった。
「盗賊でもいたのか?いや、こんな何もないところになんて…」
考え込むスドゥに、エリーが声をかけた。
「もしかしてあの二人じゃない?」
それを聞いてハッとする。レンとバルガスが初めて会った日の街の惨状が思い出された。街も建物が破壊され、目の前の光景のように荒れ放題だった。
「ゴーレム同士の戦闘ってこんなに酷いものなの?それとも二人がおかしいだけかな?」
スドゥの言葉に返事は返ってこない。その理由はわかっていた。さっきまで遠かったたはずの音が恐ろしい速さで近付いてくる。
二人が動き出す前にそれは現れた。
それなりの大きさのある木の幹を突き破り、レンが飛び出してきたのだ。そこにいるとわかっていたかのように二人を抱えると、レンは人間には出せない速度で走り出した。
間髪入れずに背後から衝撃音が鳴った。そこにはバルガスがいる。
「おいおい。お前ら逃げてきちまったのかよ!」
元気のいい声を張り上げ追いかけてくる男。そして少年少女を抱えて逃げる男。スドゥは口角を引き攣らせたまま溜め息をついた。
「ねぇ、これ見たことあるよ」
「いい加減飽きたわよね」
「勘弁してください!」
レンは走った。それはもう、とっても頑張った。ゴーレムだというのに息切れをするような気分になってまで必死に走った。
バルガスが追跡を諦めたのは、それから半日ほどの時間が経ってからだった。深夜になり、あたりはすっかり真っ暗になっている。こんな夜遅くに街に行ったところでどの店も空いていないので、3人は野営を選んだ。
「やっといなくなった…それにしても、よく逃げてこられましたね」
一息ついていたエリーが答える。
「スドゥが頑張ってくれたのよ」
「いやいや、エリーのおかげさ」
間髪入れずに言うスドゥにエリーは笑いかける。二人の仲が深まっているのを感じたレンは不愉快だったのか、顔を顰めて拗ねていた。そんな彼の不機嫌を感じ取って、エリーは宥めるように声をかける。
「レンも無事で良かった。死にそうにならなかった?」
構ってもらえた事が嬉しいのか、レンの表情はぱっと明るくなる。
「殺し合いではありましたが、やはり死ぬほどではありませんでしたよ。あぁ、奴を弱いと見下しているのではなく」
そう言うレンの声音はいかにも調子に乗っているようで、スドゥもエリーも笑ってしまった。レンはいつも控えめで臆病だが、たまにこうして自我を強く出す所がある。ここが彼の面白いところだ。そんな彼を揶揄うように、スドゥはにやりと笑顔を浮かべた。
「必死で逃げてたくせに」
「は?」レンが言う。「私が弱いと言いたいのか?」
「弱いなんて一言も言ってないけどね」
「このほむにがるす如きが」
「ホムンクルスだよ」
また二人が言い合いを始めたので、エリーは手を前に出して制した。溜め息が漏れるが、二人が黙ると呆れを隠して優しく言う。
「あなたが強いのはわかってたけど、その調子なら本当に大丈夫みたいね。よく生きてたわ」
「フフン…私がエリーを置いて死ぬと思いますか?」
誇らしげに胸を張るレンの横からスドゥがまた口を出す。
「バルガスから誘われた時迷ってたくせに」
「貴様ぁ!」
「ちょっとやめなさい!」
育児は大変なのだろうなとエリーは思った。
近隣の街に行くとバルガスに嗅ぎつけられる可能性があったので、一行はスドゥが提案した馬車で少し離れた街を目指した。
エリーとスドゥは馬車旅の途中でアントニオから得た情報をレンに教えた。バルガスが核の破壊で死ぬらしいと聞いたレンの反応は何故か薄かった。
「…あなた、知ってたわね?」
「え!?そんな、そんなことは」
エリーに問い詰められ最初こそ動揺していたレンだったが、次第に縮こまって降参してしまった。
「戦闘時に聞いただけで、それ以前は本当に知らなかったんです…」
「じゃあ」エリーは続けた。「やっぱりあなたも核の破壊で死ぬんじゃないかしら」
「違います!」
被せるように言う彼に苦笑する。普段はエリーに逆らえないくせに、この話をする時だけは大人しくなってはくれない。そんなことにももう慣れてしまって、エリーは優しくレンをあやした。
「はいはい、じゃあまた探しましょうね」
「本当にわかってますか?」
そうして新たな街にやってきた一行は、宿をとって情報収集を再開した。
「ここはテクシレイブという街で、それなりに栄えているからこの前の田舎町よりも人がいる。情報も行き交っているし図書館もあるから情報収集にはうってつけさ」
歩きながらスドゥの話を聞いていたエリーは何かを踏んだ感触に立ち止まった。地面を見下ろすと可愛らしいハンカチがある。落とし物だ。
スドゥはエリーが立ち止まってハンカチを拾ったことに気付かないまま歩き続けていったが、レンはすぐに気付いてハンカチを覗き込んだ。
「なんですかこれは」
「誰かが落としたのよ。困っているかしら」
「あぁ、それなら…」
レンは街の一角を指差した。そこには道の端で泣いているナルノ人の少女と、そばに屈んでいる細身の男がいた。
少女は黒くて長い髪を二つ括りにしていて、長い薄紫のスカートを履いている。スカートと同じ色の大きなリボンが首元を飾っているのがなんとも可愛らしい。細身の男は黒いタキシードを着ているが、その首元には少女のリボンと同じ色の可愛らしいリボンが付いている。
彼は毛髪がなく、露出した丸い後頭部には妙な模様が描かれている。あれはゴーレムの印だった。
「お父様のハンカチがない!」
「お嬢様。探せば近くにあるやもしれませんよ」
どうやら貴族の令嬢とその執事のようだ。エリーは迷わず二人の方に歩を進め、レンはそれについていった。
「少しいいかしら」
声をかけると、少女は執事の後に隠れてしまった。どうやら人見知りのようだ。執事の方はエリーの方に体の向きを変え、どうされましたかと言った。足を曲げ、彼女に視線を合わせていた。
今まで差別的な対応をされてばかりいたエリーには、執事の丁寧な対応が新鮮に映った。しかし、エリーはそれよりも執事の顔に驚いた。
目は閉じられており、鼻筋はくっきりと通っている。顔は人形のように整っているせいか人間らしさがない。完璧に整っているせいで、綺麗なのだが嫌でも人目を引く異質さがあった。それに加え、近くに来て気付いたが明らかに体が細い。体が大きいのはナルノ人の特徴で、執事の身長はナルノ人の中でも大きい方に見える。しかし体が細すぎる。ナルノ人の中でも痩せている方だったアントニオよりもさらに細かった。おそらくこの執事はナルノ人だと思われるが、顔の雰囲気や色素の薄い肌にフェルモマ人らしさも感じる。この男はゴーレムだからそうなっているのだろうが、今までこれほど民族がわかりにくいゴーレムは見たことがない。
「あ、えーと…」エリーは口を開いた。「そこでこのハンカチに気付かず踏んでしまって。もしその子のなら謝りたいわ。ごめんなさい」
エリーがハンカチを差し出すと、少女は目を見開いたまま固まってしまう。代わりに執事の方がハンカチを受け取った。
「おや!これを探していたんですよ。ありがとうございます、親切なレディ」
「いいえ。踏んでしまったから少し汚してしまったし、申し訳ないわ」
「いえいえ、また洗えば良いことです。汚れてしまうより、なくなってしまう方が大変ですから」
執事は振り返って少女にハンカチを渡した。少女はそれを受け取ってエリーを見るが、何か言おうとして口を動かすだけで何も言わなかった。とうとう何も言えずに顔を真っ赤にして、執事に抱きついて顔を隠してしまう。執事はそれを見て愛おしそうに溜め息をつくと、再びエリーの方を向いて言った。
「お嬢様は人見知りが激しい方でして。今はありがとうと言おうとしていらっしゃいました」
「あら。じゃあ、どういたしまして」
少女は顔を上げない。恥ずかしいのか耳まで真っ赤になっているのが可愛らしい。エリーはそれを見て微笑むと、執事の方に手を振ってその場を後にした。
レンは不思議そうに口を開いた。
「なぜ無視してきたんでしょう?」
「話聞いてた?人見知りなのよ」
「人見知り…?」
「人と話すのが苦手ってことよ。あなたもそうでしょう」
「違います」
レンは子供のように拗ねた。これではどっちが大人かわからない。
そうして歩いている二人の元に、慌てた様子のスドゥが走ってきた。
「ちょっと、どこいってたの!?何かあった?」
エリーはくすっと笑った。
「落とし物を見つけたから持ち主に届けてただけだけど…あなた本当に気が付かなかったのね」
そこでレンが意地悪な笑みを浮かべて口を挟む。
「この小僧はエリーに知識をひけらかすのが好きなようですから、おしゃべりに夢中になって気が付かなかったのでしょう。この様子ではまだエリーを任せられないな」
スドゥは図星を突かれたような顔をしてレンを睨んだ。
「こういう時だけ調子に乗って。かっこ悪いぞ!」
レンとスドゥの言い合いは、もはや恒例となっていた。
「ねぇ、あの人…」
アマンダはニャダラの服を掴んだ。その手には力がこもっている。ニャダラが彼女の方へ視線を移すと、顔は真っ赤で、瞳孔が開いて、息が荒くなっているアマンダがいるのだった。
「おやおや」ニャダラは微笑んだ。「彼女のことが気に入ったんですか?」
「“欲しい”わ!あんな素敵な人見たことない。目も肌も口も鼻もぜーんぶ綺麗!それにハンカチを渡すだけで良いのに、踏んでしまったことまで謝ってくれるなんて中身まで綺麗よ!」
興奮して早口になっている少女にニャダラは冷静に言う。
「ですがお嬢様…彼女はあの“エリー”では?見つけたら持って来いとついこの間連絡が来たでしょう」
「知らないわ」アマンダはぷいと顔を逸らした。「確かにいつもお世話になっているけど、人としてはフェリックスなんか好きじゃないもの。体も大きくてゴツゴツしてるし髭なんか生やして綺麗じゃないし、意地悪だから嫌い!」
「意地悪に見えますがね、あの方はいつもアントニオとお嬢様が鉢合わせないように気を配ってくださっているのですよ」
「知らない!嫌いだもん」
「そうですか。それなら仕方がありませんね」
ニャダラはアマンダの体を抱き上げると、人混みの中に入っていった。
「エリー様はうちに来てくれるかな?」
「きっと来てくれますよ」
執事は愛しそうに主人の少女に微笑んだ。
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