第17話 風の中のモモンガ

港に着いたのは、まだ日が残っている時間だった。


ターミナルの屋根は波打つように薄汚れていて、外壁に貼られた観光ポスターはところどころ日焼けしていた。港湾労働者のトラックが荷を下ろす音が、コンクリートの地面に重たく響いていた。


出港まで、あと2時間以上あった。


それまでに何かするというほどの余裕も目的もなく、僕たちはとりあえず、ターミナルの2階にある食堂を目指した。


階段を上がると、薄いビニール張りの床に靴音が吸い込まれ、奥のほうに「レストラン まりん」という控えめすぎるフォントの看板が見えてきた。照明は蛍光灯なのに暖色寄りにくすんでいて、店内は、居酒屋でも社員食堂でもファミレスでもない、“どれでもない”空気を漂わせていた。


メニューの食品サンプルは、かつて本物だったんじゃないかと思うくらい色褪せていて、

カレーの表面には埃の膜ができていた。


それでも、空腹には勝てない。


僕としおりは、何となく惹かれるようにオムライスを選んだ。

ケチャップで描かれた「まりん」の字が、いささか物悲しかった。


「俺はもう、がっつり行くぞ。カツカレー一択」


トオルは元気そうに言って、厨房に響き渡る声で注文した。


小清水くんは「親子丼……ください」と、誰にも聞かれてないようなトーンで続けた。

彼にとっては精一杯の主張なんだろう


出てきた料理は、どれも見た目以上にぬるかった。

でも、それがかえって“旅の終わり”っぽくて悪くなかった。

トオルはカツをひと切れ噛みしめながら「うん、普通」と断言しながらも、モリモリと食べている。

しおりはスプーンでオムライスをすくいながら、


「こういうとこで食べるオムライスってさ、なぜか全部“さみしい味”するよね」


と言った。

僕はそれにうなずいて、


「でも、記憶には残る」


と返した。

それはたぶん、料理の味の話じゃなくて、今日の時間の話だった。

皆が食べ終わった頃、例の小清水くんの"文脈のバグ"が炸裂した。


「ちょっと…取ってくるから待ってて」


そう言って小清水くんはまたカウンターに向かった。

ほどなくして満面の笑みを浮かべた彼の手にあったのは、クリームソーダだった。


「は?」「へ?」「今からそれ食うの?君だけ?」


僕たちの戸惑いをよそに、小清水くんはクリームソーダの上に盛られたチェリーを、スプーンの背で無言で沈めていた。

僕たちが小清水くんの妙なマイペースに一通り呆れ終わり、小清水くんが満足げな笑みを浮かべた頃、乗船案内のアナウンスが流れた。

僕たちは搭乗券をもぎられ、思い思いの荷物をゴロゴロと引きずりながら乗船した。

2月の終わりの平日の夜である。乗客はまばらで、船内は驚くほどがらんとしていた。


船室のドアを開けると、そこには広々とした、まるで体育館のような風景が広がっていた。

2等船室。いわゆる雑魚寝の広間だ。

緑色の毛足の短いカーペットが一面に敷かれ、スペースを取り囲むようにして設けられた低い棚の上には、茶色いビニール製の四角い枕と、ねずみ色ともカーキともつかない粗末なブランケットが整然と積まれていた。

照明は消えそうな蛍光灯が数本、うら悲しい色合いで「ジー……」という音を立てていた。


なんというか、現実と夢のはざまで中ぶらりんになったような、感情の落としどころの見えない空間だった。


「……あ、俺、あそこ。角、ええよね」


トオルが妙に嬉しそうに荷物を置いた。小清水くんは黙って隣に座った。

僕としおりも、あまり深く考えず、そこから少し離れた壁際に荷物を広げた。


しばらくは誰も何も言わず、カーペットの上でゴロゴロと寝返りを打ったり、ブランケットを掛けてみたり、腕時計の文字盤をじっと見つめたり、船室の壁に掛かったアナログ時計に目をやって時間を確認したりした。まるで「それぞれが自分の存在をこの空間に馴染ませようとしている儀式」のようだった。


「ねえ、ちょっと甲板、行ってみいひん?」


しばらくしてトオルが声をあげた。


「暇やし、風にでも当たってこようや」


4人はうなずき、ゆっくりと立ち上がった。


◇    ◇    ◇    ◇


甲板は風が強く、肌寒かった。

海の匂いと金属の匂いが入り混じった風が、コートの裾を翻す。

港の灯が遠ざかっていく。潮の香りに夜の余白が混じって、何ともいえない切なさを誘った。


僕は風を避けるようにして身をかがめ、ポケットからタバコを取り出す。

ライターの火は、数回目でようやくついた。

ひとくち吸い込み、深い溜め息のように煙を吐き出した。

目の前には真っ暗な海。

見えない波が、船の下を流れていく。

すべての音をかき消すような風のなかで、僕は自分の気持ちの所在を確かめようとしていた。


そのとき、背後から――


「モモンガー!」


と、あの、ひときわ透き通った声が跳ねるように響いた。

振り返ると、しおりが少し大きめのコートの裾を両手で広げて、風に向かってジャンプしていた。


冬の空気を切って、その姿がほんの一瞬、空を舞ったように見えた。

髪がほどけて宙に浮き、彼女は無邪気に笑っていた。まるで、風の中のモモンガだった。


「ほら! 飛べそうじゃない? 風に乗れそうな感じする!モモンガー!」


しおりは、本気だった。

繊細で儚げなイメージだったしおりに、こんな一面があるなんて。

僕はまだまだ彼女について知らないことだらけだ。


しおりは数歩こちらに歩み寄ってきて、笑いながら言った。


「ねえ、君、さっきからめちゃくちゃ難しい顔してない? タバコ、苦い?」


僕は返事に困って、口の端だけで笑った。


「そっか、苦くないんだ。じゃあ、思ってたより深刻ってことだ」


いたずらっぽく、そう言ってから、しおりは僕の腕の間にするりとすべり込み、

ゆっくりと背中からもたれかかってきた。


僕はしおりに腕をまわして、ふわりと包み込むように抱きしめた。

あたたかかった。

胸にあたる彼女の背中が、風で僕の顔にかかる細くて柔らかくてバニラの香りをはらんだ髪が、船の揺れと重なって、世界のなかでここだけが穏やかに時間を止めているような錯覚を起こす。


僕たちはしばらく、どうでもいい話を続けた。

昨日の昼食が思いのほかうまかったこと、教習車のハンドルの遊びが教官によって違うこと、大ヤンの補助ブレーキ問題の話。


でも、僕は、たまらなくなった。


風の音が一瞬遠ざかった気がして、僕はしおりを抱きしめる手に、ぎゅっと力を込めた。


「……離れたくない」


けれど、その声は風にさらわれて、彼女には届かなかったかもしれない。


「ちょっと、痛い。痛いよ」


しおりの小さな声で、僕は我に返った。


「ごめん」


力を緩めると、しおりはくるりと僕の方に向き直って、軽く首をかしげ、

そっと僕の唇に自分の唇を重ねた。


「さ、そろそろあの悲しげな空間に戻って寝ようか」


そして微笑んだ。


◇    ◇    ◇    ◇


寝られるわけがなかった。

寝転んでいるふりをしながら、僕はずっとしおりのことを考えていた。


でも、思考がぐるぐる回るうちに、いつの間にか浅い眠りがやってきたらしい。

気がつくと、窓の外がほんのりと明るくなり始めていた。


それは夜とも朝ともつかない、

濃紺と灰色の中間のような、

深海をすくい上げたような蒼い光だった。


「この船は、あと30分で大阪南港フェリーターミナルに到着します」


アナウンスが流れる。

その声がやけに現実的で、僕は思わず肩をすくめた。


パキパキと関節の鳴る音を感じながら体を起こすと、

隣で、しおりもちょうど目を覚ました。

トオルと小清水くんはまだ寝ていた。


僕は昨夜、眠れなかった時間に考えた“悪あがき”を、今こそ実行に移すべきだと決めていた。


「ねえ、もう一回だけ甲板行こう」


「え? 寒いってば」


「最後に、お願い」


しおりは少し困ったように笑って、うなずいた。


再び甲板へ。夜明けの空は少しずつ白んできていた。

風は昨日よりも柔らかく、でもやっぱり冬の名残を連れていた。


僕は、コートのポケットから小さな紙片を取り出した。


「約束通り、しおりの連絡先は聞かへん。

でも。もし、しおりが“日常”に戻って、彼氏とも会って、もう一度よく考えて、僕を選んでくれる気になったら……連絡が欲しい」


「……」


「これは、“未練の塊”の僕の、最後の往生際の悪さや。カッコ悪いと自分でも思ってる。だけど、渡したかった」


しおりは、何も言わずに紙片を受け取り、大事そうに折りたたんでポケットにしまった。


「うん。分かった」


それだけだった。


僕は泣かないようにするのが精一杯だった。

僕が言いたかったことをしおりから言ってくれた。


「ねえ、最後にもう一回だけ、キスしよう」


白んでゆく空の下で、

僕たちは静かに、長く、長く、唇を重ねた。

やがて陸地が見えてきた。


◇    ◇    ◇    ◇


うらぶれた船室に戻ると、トオルも小清水くんも起きていた。

スーツケースを引きずりながら、僕たちは最後の支度を済ませた。


「まもなく接岸いたします。乗船口へお進みください」


アナウンスの声は、昨夜よりもいくらか明るく響いていた。


フェリーのロビー。

港の風景がガラス越しに広がっている。

しおりは、このフェリーターミナルからほど近い、埋立地に最近できたばかりの住宅地にあるマンションに住んでいるという。

つまり、ここが本当の“お別れ”の場所だった。


「じゃあ、2週間楽しかった! また会おう!」


口々に言って、僕たちはそれぞれ握手を交わした。

トオルとはお互いに連絡先を交換している。


「じゃあね」


僕はしおりにだけ、少しだけ静かに言って、踵を返して歩き出した。

十歩ほど歩いたときだった。

背中に、風に乗ってあの声が届いた。


「ねえ! 私――!」


しおりの声は、ほんの少し震えていた。

いつものミルキーな柔らかさの奥に、何かを振り払おうとする必死さが混じっていた。

呼び止められたのだと分かっていても、僕は振り向かなかった。


足は止まりかけたけれど、視線は、まだまっすぐ前を向いていた。

振り向いたら、何かが壊れてしまう気がして。

代わりに、前を向いたまま、手を頭の上で大きく振った。


さようなら、夢のような非日常の2週間。

さようなら、ちょっと背伸びした、不思議な透明感の女の子。

さようなら。

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