第16話 2時間の永遠

朝は、けたたましい目覚まし時計の電子音で始まった。


大部屋の天井に、やけに乾いた光が差し込んでいて、その白さだけで「ああ、もう帰るんだ」という実感が、ゆっくりと胸の奥に染み込んでいくようだった。


雑魚寝の布団のあいだを縫うように、誰かのいびきが響いている。

小清水くんは布団から半分はみ出してうつ伏せになっていたし、トオルはもう起きていて、洗面所から戻るところだった。

彼は無言でタオルを肩にかけ、歯ブラシを咥えたまま、こちらに軽く頷いた。


僕はというと、眠った気がしなかった。

残るのは、昨夜のしおりの笑顔と唇の感触だけだった。

触れた手の温度や、交わした言葉の余韻が、毛布の中にまで染みついている気がして、目覚めたときの空気がやけに静かに感じられた。


しおりは、もう準備を終えてロビーにいるだろうか。

それとも、まだあおいやりかこと思い出話でもしているだろうか。

そんなことを考えながら、洗面所で顔を洗った。

冷たい水が、体の芯に最後の一滴の非日常を流し込むようだった。

今日から、もう彼女と同じ宿には泊まらない。

同じ教習所に通うことも、昼休みに並んでカレーを食べることもない。

それらすべてが、たった今、過去に変わろうとしていた。


ロビーにはすでに、いくつかのキャリーケースと、いつもより少し早口な挨拶の声が溢れていた。


しおりはその中で、窓辺に立っていた。

ベージュのニットにくるぶしの見える細身の黒いパンツ。

前髪はピンでとめられ、後れ毛が頬にふれていた。

どこか、夜の名残がまだ残っているような、けれどすでに切り替えているような表情だった。


「おはよ」


「うん、おはよ」


その挨拶には、どこかぎこちなさが混じっていた。

だけど、ぎこちなさは悪いものじゃない。

そこには「会えてうれしい」と「もうすぐ終わってしまう」の両方が、バランスを取り合っていた。

僕としおりの間には、ほんの数歩の距離があったけれど、それは2週間前よりもずっと、ずっと近かった。


あおいとりかこが見送りに出てきてくれた。

彼女たちは、僕としおりが"合宿が終わるまでの仲"だとは知らない。


「あーあ、ほんとに帰っちゃうんだ。……ま、予定通りだけどね」


あおいは、そう言うと、しおりの視線が逸れた瞬間、僕に顔を向けてほんの少しトーンを下げて


「……ま、いろいろあったね、ほんと。あたし的にも。ね?」


と、片目だけウインクっぽく細めて、また明るく


「元気でね!」と大きな声でいった


「しおりちゃん、忘れ物は……ないか。あんた意外と抜けてるからさ」


「あるわけないじゃん」


「そっか。ちゃんと手荷物には“中田との思い出”も詰めたんでしょ?

…ま、あたしらはこのへんで。」


りかこはにやりと笑った。


バスが来たのは、その5分後だった。

少し古びた路線バス。

「宮崎交通」と書かれた側面は色あせて、

扉の開閉音には、懐かしい金属のきしみが混じっていた。

中に乗り込むと、懐かしいビニールのシートが並び、微かにオイルと埃の混じった匂いが鼻をくすぐる。


「最後尾、取った者勝ち!」


誰もそんな話してないのに唐突にそう言ったのは小清水くんだった。相変わらずこの空気の読めなさは国宝級だ。

しかし、彼とトオルは一番前のドア横に荷物を置いて、すぐに座席を確保する気配もなかった。

僕としおりは、自然とバスの奥――最後列のベンチシートに並んで座ることになった。

座席のビニールはところどころ艶を失い、

前の乗客が貼ったらしいシールの跡が薄く残っていた。

遠足の帰り道みたいな空気が、少しずつ漂っていた。

窓の外を眺めながら、エンジンがうなるたびにシートが小さく揺れる。


「2時間、けっこうあるな」


「うん。でも、それも悪くないかな」


しおりはそう言って、小さく背伸びをした。首筋にかかる髪がふわりと揺れて、昨日の夜のバニラの香りがふいに蘇った。

車体が揺れるたびに、少しずつ距離が近づいていく。

誰にも気づかれないように、僕たちは小さな声と、目線と、指先の感触で、いまこの瞬間が特別だと確かめ合った。


バスは、山と川に挟まれたのどかな道を走っていく。

畑には霜の名残がかすかに残っていて、朝の光がゆっくりと解かしていく。

まるで映画のセットの裏側を通り過ぎていくみたいだった。


遠くに見える農道を、自転車がひとつ渡っていく。


「もしかして、あれが大ヤンの“農道の悲劇”の現場?」


しおりが言って、僕は吹き出しそうになった。


「たぶんね。あれで補助ブレーキ踏まれたって、悔しいやろうなあ」


「止まれてた、って言ってたしね。男の子って、そういうの引きずるよね」


「うん、未練の生き物やから」


「じゃあ、君は?」


「未練しかないよ」


しおりは、それに答えずに小さく笑った。

そして、少しだけ目を伏せて、僕の手の上に自分の手をそっと重ねてきた。


それは、特別な合図ではなかったけれど、

この2週間を分かち合った“しるし”のように感じられた。


バスはゆっくりと峠を越え、川沿いの道に出る。

車体が小さく揺れるたびに、肩が触れ合う。

エンジン音と、タイヤがアスファルトをこする音だけが、ゆっくりと僕たちの“非日常”を削っていく。

静かなトンネルを抜けるとき、車内の時間が停まったような気がして、僕たちはほんの数秒、何度かキスを交わした。


それは、名残のようでいて、始まりのようでもあった。


しおりの唇は、少し乾いていて、あたたかかった。

何かを語るよりも、こうしていた方がすべてが伝わる気がした。


たぶんそれは、お互いに「じゃあ、またね」と言うための準備だったのかもしれない。


トオルは前方の席で、ウォークマンのヘッドホンを耳にあて、目を閉じていた。

膝の上には、昨日買った「フルーツミックス」が転がっている。


小清水くんは、バスの窓に頭を預けてうとうとしていた。

その髪が揺れるたび、日差しの角度が変わっていくのがわかる。

春を迎える木々の枝には、まだどこか冬の気配が残っていて、道ばたのガードレールには、乾いた土埃がうっすらと積もっていた。


「なんか、不思議だね」


しおりがぽつりと言う。


「うん?」


「こうして隣にいるのに、なんかもう会えなくなりそうな感じがして」


「それは……まあ、たぶん、当たってる」


「やっぱり、当たってるんだ」


僕は答えられなかった。

代わりに、しおりの肩が少しだけ触れるように身を寄せた。

車体が左に傾けば自然と肩が触れ合い、右に揺れれば、少しだけ距離があく。

しおりは目を閉じて、そのまま僕の肩にもたれた。


「大阪に戻ったら、また普通の生活か…」


しおりがぽつりとつぶやいた。


「しおりにとって、普通ってどんな生活?」


「んー、朝起きて、4月からは仕事行って、家で晩ごはん食べて、マンガ読んで寝る生活かな」


「そっか。それは、ちょっと寂しいな」


「なんで?」


「僕がいない生活が、しおりの“普通”に戻るってことやから」


しおりは小さく笑った。そして、何も言わずに、僕に顔を向けてきた。

言葉ではなく、また唇で、思いを返してくる。


僕たちは何度もキスを交わした。

それは情熱的でも劇的でもなかったけれど、どれもが静かで、優しくて、そして確かだった。


「……ねえ」


しおりが、僕の方にそっと顔を向けた。


「これから、たぶん忘れないと思う。今日のこと。

 このバスの音とか、外の風景とか、君の手とか――ぜんぶ、覚えてると思う」


その声は、あの少し鼻にかかった、でも透明な余韻を残す声だった。

まるで記憶に直接届いてくるような、静かで、深い響き。


「うん、俺も。ずっと、覚えてる」


僕らの声は、バスのエンジン音にかき消されるくらい小さかったけれど、

それでちょうどよかった。世界に聞かせるものじゃない、ふたりだけの言葉だった。


そして、僕たちはまた静かにキスをした。

揺れる車体のなか、微かに触れ合うだけの、永く響くキスだった。


そのキスは、映画のようでも、夢のようでもなくて、

たしかに、ここにある時間のなかの、ただの一瞬だった。


でも、それでよかった。

それで、充分だった。


やがて、バスは港に続く大通りに出る。

遠くにフェリーの煙突が見えて、僕たちはゆっくりと背筋を伸ばした。

それはたぶん、「さよなら」の準備が整った証だったのかもしれない。


僕は、しおりの肩に手を回しながら、思った。

たぶん、この2時間は、僕たちにとって、永遠みたいな時間だったんだ。


もうすぐ着く。

港に、船に、別れに。


まだバスは走っている。

僕たちの非日常を、ゆっくりと、確かに終わらせながら。

でもここからフェリーに乗り、明日の朝、大阪南港のフェリー埠頭に着くまでは僕たちは“まだ一緒にいる”ことが許されている。


だから今は、それでいい。

それだけで、充分だった。

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