第15話 シュウマイ帝国の終焉

卒業検定を明日に控え、教習所では学科の模擬試験が行われた。

ここまで順調にたどり着いたのは、僕、しおり、トオル、中ヤン、小ヤン。

大ヤンは卒検前の見極めで、農道に飛び出してきたおじいさんの自転車を避けるために教官が補助ブレーキを踏んだことで、見極めに合格できなかったのだ。

“農道の悲劇”だ。


「センセイがブレーキ踏まんでも、俺、止まれたのに!」


そう大ヤンは声を荒げて憤慨していた。それでも、「センセイ」と呼ぶあたりに、彼なりの尊敬がにじんでいて、僕は少し笑ってしまった。

素行は悪くても、ヤンキーという人種は概して単純で、情に厚い。彼らはたいてい、誰かに褒められたくて悪ぶっているだけなのだ。


そして驚くべきことに、あの小清水くんも、この模擬試験の教室にいた。

ボウリング大会ではその運動神経の無さを遺憾なく発揮した彼が、こと車の運転に関しては何かしらの才能を発揮していたらしい。思いもよらぬ伏兵。現実というのは、凡庸なプロットを一撃で裏切る構造を好むらしい。


模擬試験の問題そのものは簡単だった。

にもかかわらず、試験という装置は「いかに人を間違わせるか」という陰湿な才能に満ちていて、僕は見事に引っかかり、97点。

微妙な引っかけ問題に敗北した、というよりは、満点を逃した自分が許せなかった。


そのうえ、講師の口から発せられたのは――


「今回の最高得点は、98点でした」


たった1点。けれど、その1点の差が、妙に尾を引いた。

「トップじゃない」という事実が、背中のあたりにじんわりと重く、鉄製のしこりのように居座った。


その後しばらく、僕は沈黙し続けていた。机の端を意味もなく指で叩きながら、どこに怒りの矛先を向けていいか分からず、ふてくされていた。

そこに、しおりがやってきて、いつものあの声で、やや呆れたようにこう言った。


「ねえ、その態度、失礼じゃない? たった1点足りなかっただけでしょ? それでブーたれてるのは、ちょっと傲慢だよ」


「え?」


「2番だったったんでしょ?ちゃんと合格点を取ったんでしょ?落ちた人もいるし、私なんてギリギリだったし…。みんな一所懸命やってる中で、『トップじゃないから』って拗ねるのは、大人気ないよ」


その声は、あの少し鼻にかかったやわらかな響きをまといながらも、不思議と真っ直ぐ届いてきた。いつもの甘いその声には、しかし、笑いも誤魔化しもなかった。


まるでガラス窓を内側からピシャリと叩かれたような衝撃だった。

僕は同い年の少女に、見事にたしなめられていた。そして、その正論に、一言も言い返せなかった。


悔しいというより、恥ずかしかった。

自分の薄っぺらなプライドが、紙風船のようにしぼんでいくのを感じながら、僕はまたしおりが好きになっていた。まったくもって、敵わない。


翌日は卒業検定の日だった。


じいさんが飛び出してくるようなアクシデントもなく、僕は静かに試験を終え、無事合格した。

しおりも、トオルも、小清水くんも、中ヤンも合格。

小ヤンだけが、一時停止の白線を数センチはみ出して再試験。

神は細部に宿るというが、試験官もまた細部に宿るらしい。


全員がほぼ合格し、今夜の宿泊を経て、明日はフェリーで帰ることになる。

中ヤンは、「一人だけ先に帰るのはイヤや」と言って、自費で延泊を決めた。

なんだかんだ言いながら、この合宿を、彼もきっと楽しんでいたのだろう。


だが、僕の心は晴れなかった。

――本当に、これで良かったのか?


しおりとは、これで終わりだ。

いや、「合宿が終わったら関係も終わる」と、言ったのは自分だった。

宙ぶらりんでキープされたような状態はやはり耐えられない。もうあんな思いはしたくない。

その言葉に、どれほどの勇気とどれほどの臆病が詰まっていたか、今ならわかる。


正直に言えば、あのときの僕には、ずるさも混じっていた。

あえて期限を切ることで、しおりに選ばせるプレッシャーを与えようとしたのだ。

そうすれば、僕を選んでくれるかもしれない――そんな卑しい計算がなかったとは言えない。


でも、しおりはあっさり「分かった」と言った。

まるで、宿題を終えた後のような顔で。


非日常は、時にすべてを浮かれさせ、何もかもを美化する。

そのことに、僕はようやく気づき始めていた。


「最後の晩餐やな」


僕は、ホテルの食堂に向かう道すがら、しおりに笑いかけた。

中に入ると、すでにあおいとりかこがいた。


「お!イチヌケの翔んだカップル来たな!」


と、りかこがからかう。


(うん、カップルやで。あと36時間ほどはな)


僕は心のなかで、自嘲気味に毒づいた。


メニューは、あの忌まわしきシュウマイ定食。

ご飯、味噌汁、シュウマイ5個。それだけ。


「最後までこれ!?」


と、僕としおりはハモった。

2人同時に吹き出した。


不思議なことに、その笑いが、僕の中の鬱屈を少しだけ吹き飛ばしてくれた。

ありがとう、味のしないシュウマイ(5個)。君は最後まで実に偉大だった。


夜の大部屋飲み会は、今夜は開催されなかった。

明日の出発に向けて、荷造りが必要だからだ。

たった2週間だったはずの滞在なのに、荷物はまるで胞子でも撒いて繁殖したように増えていた。


女子部屋をのぞくと、しおりが1人で荷造りしていた。


「あおいとりかこは?」


「お風呂行ってる」


「なるほど」


僕は、立ったまましおりの後ろ姿を見ていた。

テキパキとトランクに荷物を詰める彼女は、まるでこの非日常をきちんと“片付ける”覚悟ができているようだった。


「なあ、本当に出ていくのか?」


僕は芝居がかった口調で、再びこのセリフを口にした。


「ええ。あなたとの暮らしは今日まで。私は自由になるの…」


しおりもすぐに乗ってきた。あの甘い声で。


2人で「ぷ」と吹き出したあと、彼女はふわりと笑って、両手を広げて僕の方に近づいた。そして、その手をそっと僕の首に回す。

バニラの香りが、風に混じって鼻先をかすめた。


「本当に大好きだったよ」


その声は、いつもの胸に沁みる声で、今度は芝居じゃなかった。


「過去形…なん?」


僕は、思わずリアルな問いを投げた。


「ううん。ごめん、言い間違い。大好きだよ」


そのひと言で、僕はもう感情を抑えるのをやめた。

キスをした。何度もした。

まるで、それが最初で最後のキスであるかのように。


「そろそろお休み。明日は長旅だから、もう寝ないと」


そう言いながら、キスはしばらく終わらなかった。

唇は名残惜しく、心は取り残されることを予感していた。


合宿という劇場は、いままさに、幕を下ろそうとしていた。

照明が消え、観客が帰り、舞台にはただ、静けさと名残の埃が残される。

その夜、僕らはその埃の上で、静かにキスを繰り返した。

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