第32話 対峙

 ◆◇◆◇◆



 術中に落ちたみたいに、周囲の光景がどんどんと後方に流れていく。

 黒い手から避けるついでに窓を蹴破って、俺たちは外に脱出していた。

 畑のある庭に抜けて、そこで大きく跳躍して塀を越え、竹林を走る。

 雨が降っている。

 足音も雨音も聞こえない。

 風の音が周囲を支配する。

 なおも黒い手は次々に俺たちを狙って伸びては縮んでを繰り返して諦めてはいない。

 生贄が欲しいから狙ってきているのではと仮説を立てていたが、しつこいにも程がある気がする。

 って、あれ?

 山を下りているはずなのに、景色はいつまでも竹林が続いている。まるで同じところを巡らされているみたいだ。


「ちっ」


 彼が小さく舌打ちをした。俺と同じことを考えていたのだろう。

 彼は黒い手の一つを蹴り飛ばし、それを追うように方向を変える。

 やがて広い場所に抜けた。


「――絶対に逃す気がないってやつですかねえ?」


 彼は挑発するように尋ねて、足を止める。

 この場所には俺も見覚えがあった。

 俺が壊した祠がある場所だ。

 祠があった場所には真っ黒なぶにぶにの塊が動いている。心臓が脈を打っているみたいに、俺たちよりも少し大きいくらいの塊がビクンビクンと脈動していた。


「声、あんたには聞こえるのか?」


 俺が小声で尋ねると、彼は苦笑した。


「話ができる相手ではないみたい」

「そうか」


 目的を直接聞き出すことは叶わないようだ。状況証拠から、相手の目的を探っていくしかない。


「きみ、人形を出してくれ」

「ここで?」

「できれば、あれに気づかれないように」

「む……」


 リュックサックの外側のポケットに人形は入っている。俺がポケットの口を開けてやれば、人形の方からこっそり出てきてくれた。俺の手元に移動する。


「これでいいか?」

「うん。おろすぞ」

「ああ」


 湿った草っ原の上に俺はおろされる。彼は一歩ほど離れた。

 この人形、どうするつもりなんだ?

 彼とこの人形とのやりとりは見ていたが、会話は聞き取れていない。なんらかしらの目的があってあの場所から出たかったようだが、俺はどうしたらいいのだろう。


「――僕らはこの山を出たいだけなんだ。祠を壊してしまったが、あんたにとっちゃそんなのは些細なことだろう? むしろ、もう要らないモノだったと思うんだが」


 黒い塊の動きが変わった。

 小さな手がウニョウニョ伸びたり縮んだりしている。正直なところ、気色悪い。


「人間を取り込まなくても、この山には様々な生き物がいる。それらの生命をちょっとずつ喰らうことさえできれば、存在を維持するには充分だろう?」


 雨が強くなってきた気がする。雨具を着込んでこなかったので、体が冷えてしまいそうだ。


「……強情だな」


 彼は大きく息を吐き出した。


「祠に触れたやつを喰ってもいいなんて決まりはない。偶然、そうなっただけだ。そもそもあんたは、人間を食う必要はない。そんな物語はもうここには残っていないんだ。維持するために人間を喰うのはよせ」


 雨の音が大きくなる。


「それに、こいつはもう人間じゃない。人間ではないものを食らっても腹を下すだけだ。諦めて引っ込め。そして僕らを山から出せ」


 雨の音以上に風が強まってきた。正面から吹きつける風に思わず顔をかばうと、人形がころりと落下した。

 やべっ。

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