第三話:その子守唄は、魔法の調べ
「それでは、始めましょうか」
セレスティアはそう言うと、作業台の上に、ずっしりとした石の乳鉢と乳棒を置いた。ゴト、と重たい音がする。
「まずは、この月光草を、あなたの手ですりつぶしていただきます」
彼女は月光草の入った小瓶から、銀色の葉を一枚、ピンセットでつまみ出すと、そっと乳鉢の中に入れた。
「焦らなくて大丈夫ですよ。ゆっくり、丁寧に。あなたの心が、この葉に伝わるように」
僕は頷くと、石でできた乳棒を両手で握りしめた。ひんやりとして、すべすべとした石の感触が、手のひらに伝わってくる。
ゆっくりと、乳棒を動かし始めた。
ゴリ、ゴリ……。スリ、スリ……。
乳鉢と乳棒が擦れ合う、乾いた、けれど心地よい音が、静かな工房に響き渡る。葉が潰れると同時に、先ほどよりもずっと強く、甘く切ない香りがふわりと立ち上った。その香りを吸い込むと、頭の中のもやもやが、少しだけ晴れていくような気がした。
「上手、ですよ。とても」
不意に、背後からセレスティアの声がした。
振り返るよりも早く、ふわりと、彼女の香りに身体が覆われる。彼女が、僕の背後から、覆いかぶさるようにしてのぞき込んできたのだ。
「力を込めすぎてはいけません。……そう、優しく、円を描くように」
彼女の細く白い指が、乳棒を握る僕の手に、そっと重ねられた。彼女の体温が、僕の手の甲にじんわりと伝わってくる。
「あなたの魔力は、とても温かいのですね……。きっと、優しいポーションが出来上がります」
彼女の囁き声が、すぐ右の耳元で聞こえる。吐息が耳にかかって、ぞくぞくとした感覚が背筋を駆け上がった。彼女の銀色の髪の先端が、僕の首筋をくすぐる。そのたびに、身体が小さく跳ねてしまう。
「ふふ。くすぐったかったですか?」
「い、いえ、大丈夫、です……」
声が上ずってしまった。
彼女は僕の反応を楽しんでいるかのように、くすくすと笑い声を漏らす。その声さえも、耳には心地よい音楽のように聞こえた。
彼女の手に導かれるまま、僕たちは一緒に乳棒を動かす。
ゴリゴリ、スリ、スリ……。
二人の呼吸が、いつの間にか一つになっているような気がした。月光草は、あっという間に滑らかな銀色のペースト状になった。
「はい、結構ですよ。とても綺麗にできました」
名残惜しそうに、彼女の手が離れていく。その温もりが消えた手の甲が、少しだけ寂しく感じた。
「次に、この『星の雫』を入れます」
彼女はそう言うと、先ほどの藍色の鉱石を、パラパラと乳鉢の中に落とし入れた。カラン、コロン、と石がぶつかる、涼やかな音がする。
「そして、この泉の水を、少しだけ」
彼女は近くにあった水晶の水差しを傾け、透明な液体を乳鉢に注いだ。トポトポトポ……、と水が注がれる音が、やけに鮮明に聞こえる。
「さあ、今度はこのガラス棒で、ゆっくりとかき混ぜてください。星の雫を、溶かすのではなく、水に馴染ませるように」
僕は彼女から細いガラス棒を受け取ると、言われた通りに、そっと液体をかき混ぜ始めた。
ガラス棒が乳鉢の底に当たり、コツ、コツ、と小さな音を立てる。液体が棒の周りに小さな渦を作り、コポ、コポ、と控えめな音を立てて、微細な泡が生まれた。
藍色の鉱石は、水の中でキラキラと銀色の粒子を放ちながら、ゆっくりと回転している。それはまるで、小さな瓶の中に、夜空を丸ごと閉じ込めたかのようだった。
その時、セレスティアが、小さな声で何かを口ずさみ始めた。
それは僕の知らない、古代語の呪文のようだった。一つ一つの音の響きは、とても滑らかで、そして厳かで、まるで子守唄のように僕の意識に染み込んでくる。
彼女の声に導かれるように、乳鉢の中の液体が、徐々に淡い翠色の光を放ち始めた。キラキラと輝く銀色の粒子と、翠色の光が合わさって、幻想的な光景を作り出している。
「……綺麗……」
思わず呟くと、セレスティアは呪文を唱えるのをやめ、優しく微笑んだ。
「あなたの心が、魔法と通じ合ったのですよ」
彼女はそう言うと、完成した液体を、そっと小さなガラスの小瓶に移し替えた。コルクで栓をすると、僕たちの『星屑のポーション』は完成した。
小瓶の中で、翠色の液体が、静かに、そして確かに、優しい光を放ち続けていた。
「さあ、完成です」
セレスティアは満足そうにそう言うと、翠色に輝く小瓶を手にする。
僕はてっきり、このポーションを飲むのだと思っていた。けれど、彼女は僕にそれを渡そうとはしない。
「あの、これは……」
「このポーションは、飲むためのものではありません。香りを、あなたの心に届けるための魔法なのです」
そう言うと、彼女は僕のベッドの枕元に、その小瓶をそっと置いた。そして、ポン、と再び軽やかな音を立てて、コルクの栓を抜く。
ふわり。
今まで工房で感じていたものよりも、ずっと濃密で、そして甘く澄んだ香りが、部屋いっぱいに広がった。
それは、月光草の切ないような甘い香りと、星の雫が持つ森の夜のような澄んだ空気に、雨上がりの土の匂いが少しだけ加わったような、不思議と心が安らぐ香りだった。
深く、深く、息を吸い込む。香りの粒子が、身体の隅々まで行き渡って、心のささくれを一つ一つ、優しく撫でてくれるようだ。あれほど大きく聞こえていた耳の奥の血液の流れが、いつの間にか穏やかな川のせせらぎのように、静かになっている。
「これで、きっと素敵な夢が見られるはずです」
セレスティアは、ベッドに横になった僕の顔を、愛おしむような目で見つめていた。
「……ありがとうございます、セレスティアさん」
「いいえ。お礼を言うのは、私のほうです」
「え?」
「あなたと過ごす時間は、私にとっても、とても……温かいものですから」
彼女はそう言うと、僕の額に、そっと自分の額をこつんと合わせた。すぐ目の前に、彼女の美しい紫色の瞳がある。その瞳に吸い込まれそうだ。
「おやすみなさい、私の愛しい迷い人さん」
あなたの耳元でそう囁くと、セレスティアはそっと、僕の額に唇を寄せた。
柔らかくて、少しだけひんやりとした感触。
その感触と、部屋中に満ちた心安らぐ香りに、僕の意識は、ゆっくりと、ゆっくりと、深い眠りの海へと沈んでいった。
遠ざかっていく意識の中で、最後に聞こえたのは、窓の外で鳴いていた虫たちの声が、いつの間にか優しい子守唄のように聞こえている、ということだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます